それから更に三十分程経過すると、ポケットに入れておいたスマホが音も無く震えて着信を知らせてきた為、秀明は少し前方で展開されている光景から目を離さないまま、それを耳に当てて通話を始めた。 「来たか、芳文。今どこにいる?」 「隣のビルの、踊り場の窓から見ています。暗くて良く分かりませんが、結構ボコボコにしているみたいですね。先輩の仕業ですか?」 「最初の十発だけだ。後は皆が手を下してたが、殆ど隆也がやってる」 小さく笑って状況を説明した秀明に、芳文が溜め息を吐いて返してくる。 「あいつちょっと前に、上からの圧力で部下の捜査の中断を余儀なくされたって、荒れ狂っていましたからね。運の悪い奴。しかし現役警視のキャリアのくせに、身元がバレたらどうするつもりだ、あいつ」 「お前からは見えないだろうが、隆也の左頬にざっくりした切り傷があるぞ。本職も真っ青な面構えだ。因みにここにいる全員、相当愉快な事になっている。直に見せられないのが残念だ」 そう言って秀明が忍び笑いを漏らすと、電話越しにうんざりとした声が返ってきた。 「和寿の奴、また特殊メイクの腕を上げたと見えますね。しかし今回どうやって、対象者をおびき出したんですか?」 「意外に簡単だったぞ? この近くのパブレストランが配布してる優待券の、精巧な複写を作った。通常だが、《日時限定同伴者六名様まで、お会計九割引》って代物をな。それを『無作為に抽選の上、当選された方に進呈』の案内文を付けて送りつけた」 「そんな明らかに疑わしいものを、どうして信じるんでしょうか?」 呆れ果てたといった感じの問いかけに、秀明が飄々と解説する。 「一割は自腹って事と、『ご飲食後にアンケートへの回答が条件です』との要請文も入れておいたから、信憑性が増して頭から信じたんだろうな」 「それにしたって、迂闊過ぎます。普通だったらそんな美味し過ぎる条件、店に確認の電話の一本も入れますよね?」 「お前と違って、人を疑わない、素直な性格なんだろう?」 「それで指定された日時にのこのこ出向いて、待ち伏せされるって……。俺はひねくれて、爛れた大人で結構です」 しみじみとした口調で言い切った芳文に、秀明は思わず小さく笑ってから、真顔になって問いを発した。 「ところで、あとどれ位やれると思う?」 「そうですね……、現状は良く分かりませんが、まともに立てない状態ですよね? 肋骨が折れて内臓に刺さると厄介ですし、頭や背骨の損傷は絶対に避けたいので、後は両手足のみで。先輩達の撤収後、偶然を装って俺が回収して、うまく東成大付属病院に搬送させます」 「仕上げは頼む」 「お任せ下さい。精神的に徹底的に痛めつけてやりますよ。先輩の仮のお母上を罵倒したアホの身内とあらば、手加減無用でしょう」 力強く請け負った後輩に、秀明は満足気に応じた。 「良く分かっているじゃないか。かかった費用は全て俺が負担する。遠慮するな」 「ありがとうございます。一割増しで請求させて貰います」 さり気なく告げて来た言葉に、秀明は(相変わらずだな)と失笑しながら通話を終わらせると、携帯を元通りしまい込んでから、数メートル先で暴れている後輩の所に歩み寄った。 「おらおらおら!! こんな時間から、寝てんじゃねぇぞ! てめぇらはガキか!?」 「げほぅっ!」 「ぐあっ!」 地面に蹲っている兄弟の胸倉を掴み上げて殴り倒し、手足を踏みつけて蹴り上げるという情け容赦ない攻撃を繰り出していた隆也の肩に手をかけ、静かに声をかける。 「おい」 「何です、若?」 わざとらしく兄弟に聞こえる様に応じた隆也に、秀明は声を潜めて指示を出した。 「後は手足だけだ。十分以内に引き上げるぞ。芳文が来たから、後は任せる」 「もう少し、痛めつけたかったんですがね。了解しました」 対する隆也も、二人には聞こえない様に声を潜めて言葉を返してから、改めて二人に向き直って声を張り上げる。 「おら、立てと言ってんだろうが!」 「ぐあぁぁっ!!」 そんな騒動を他所に、秀明達は手早く撤収の手配を整えた。 「そろそろ行くぞ」 「和寿にバンを回させます」 「巡回中の警官に見咎められるなよ?」 そして動けなくなった兄弟を放置し、十分後には無事にバンの中で移動していた秀明は、早速ウイッグを外してから、顔全体を覆っていた極薄のラテックス製マスクを、ゆっくりと剥がし取った。 「っはぁ……。意識してなかったが、やっぱり素肌に空気が当たるのは、気持ちが良いな」 用意してあったおしぼりで顔を拭きながら秀明が正直な感想を述べると、周りから苦笑が漏れる。 「お疲れ様です。結局白鳥先輩のメイクが、一番大事になってましたね」 「これからもう一仕事あるから、すぐに取れる奴にしてくれと頼んだからな。お前達のは、専用のリムーバーとか、温めながらじゃないと駄目だろう」 そう言いながら白いスーツを脱ぎ、日中着ていたビジネススーツに着替えながら秀明が告げると、後輩達は一瞬不思議そうな顔になった。 「なるほど。でもこれからもう一仕事ですか?」 「ああ。実は彼女を待たせていてな。用心の為、和臣と久礼を張り付かせている」 それを聞いた後輩達は、もはや笑いを隠そうとはしなかった。 「それはそれは」 「頑張って下さい」 「じゃあ、その角を曲がった所で降ろしてくれ」 そして後輩たちの冷やかし混じりの激励の声を背に受けながら、秀明が車を降りて目的地に向けて歩き出す一時間ほど前。その年最後の稽古を終えた教室で、美子は帰り支度を終えた生徒達から、挨拶を受けていた。
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