「お待たせしました」 「おう、戻ったか」 座敷に戻ると、先程までと変わらず上機嫌な加積と、明らかに不機嫌な秀明に出迎えられた。すると加積が美子に向かって声をかけながら、座ったまま軽く頭を下げてくる。 「それでは美子さん。大したもてなしができなくて悪かったが、迎えが来た以上、無闇に引き止めるのも申し訳ない。今日はわざわざ我が家に出向いて貰って、感謝している」 「いえ、こちらこそ、色々お気遣いありがとうございました」 「そうか。それでは改めてプレゼントした物については、依存は無いかな?」 「おい、美子」 「はい。頂いていきます。ありがとうございました」 「っ!! この馬鹿!」 「え? 何よ?」 何やら秀明が言いかけたが、美子はそれに気が付かないままユニフォームについての礼を述べて頭を下げた。しかしその途端、何故か秀明が苦虫を噛み潰したかの様な顔になる。しかし加積はそれに構わずに、話を続けた。 「そうか。喜んで貰って良かった。譲った甲斐があったと言うものだ。ところで、この男の車は廃車にした方が良い有り様だから、うちの車で送らせよう。桜、土産を忘れずに持たせろよ?」 「まあ、何を言ってるのよ。当然よ」 (良かった。これで帰れるわね。だけどこの人、どうして変な、悔しそうな顔をしてるわけ?) ころころと笑う桜が早速部屋を出て、土産の準備をしている間、美子が秀明の表情を窺うと、何故か彼の眉間には深い皺がくっきりと刻まれており、美子は密かに困惑していた。 そして土産を入れた紙袋を桜から受け取った美子は、晴れ晴れとした気持ちで用意して貰った車の後部座席に乗り込み、玄関まで出て見送ってくれた夫妻に手を振って、加積邸から出て行った。 「それでは、藤宮様のお宅に向かいます」 「お願いします」 運転手がかけてきたお伺いの声に機嫌良く答え、開放感に浸りながら背凭れに身体を預けると、横に座っている未だに不機嫌極まりない男が、地を這う様な声で問いを発した。 「……おい、美子」 「何よ?」 怒りを内包した声音に、思わず刺々しく返してしまうと、秀明は更に不機嫌さを増した声で、尋ねてきた。 「お前……、あのじじいから何を貰ったのか、分かってないだろう?」 「失礼ね。勿論知ってるわ。さっき着ていたネーム入りの、日本代表チームユニフォームのレプリカよ」 「そんなわけ」 「ぶふぁっ!!」 「え?」 そこで勢い良く噴き出す音が聞こえて、美子は面食らった。どう考えても運転席で生じた異音に美子が戸惑っていると、運転手が前を向いたまま、バックミラー越しに真顔で謝罪してくる。 「誠に申し訳ございません。風邪気味なもので、大変失礼致しました」 「はぁ……」 (何事? 私、別に笑われる様な事を言ったりしたり無いわよね?) どう考えても笑うのを堪えて失敗した様な素振りを見せた運転手に首を捻り、秀明の意見を求めようとして、美子は迂闊すぎる事に、ここで漸く彼の状態に気が付いた。 (なんだかこの人、顔色が悪くないかしら?) 拳を避け損なったのか、口の横が横が僅かに腫れて、口の中でも切れたのか口元に少し血が付いている上に、ジャケットのボタンが無理に引きちぎられた様に一つ外れていて、肩の縫い目も僅かに解れていた。更によく見てみると、僅かに乱れた前髪の下の額には、うっすらと脂汗の様な物が滲み出ており、恐る恐る声をかけてみる。 「江原さん? 今、気が付いたんだけど、怪我をしているのよね? 警官とお屋敷の人相手に、乱闘していたし」 その台詞に、秀明は如何にも皮肉っぽく言葉を返した。 「へえ? 今頃気が付いたか。大した観察眼だな。大した事は無いから気にするな」 流石にその物言いには腹を立てたものの、確かに自分が迂闊過ぎた事は理解していた為、ぐっと怒りを堪えて質問を続ける。 「大した事は無いって……。どれ位の怪我か、自分で分かっているわけ?」 「経験上分かる。骨折も脱臼もしていない。打撲による鬱血と腫れが五ヶ所、左足首の捻挫と……。折れてはいないまでも、この痛みだと、肋骨にひび位は入ったかもしれんが」 「ひび、って……」 冷静に分析された内容に美子は瞬時に真っ青になり、大慌てで運転席に身を乗り出す様にして頼み込んだ。 「あの、すみませんっ!! 行き先を変更して、家じゃなくて病院へお願いします! あ、外科がある所で!」 「畏まりました」 「おい、真っ直ぐ藤宮家に」 「怪我人は黙っていなさい!」 「藤宮様のご希望に沿う様に、申し付けられておりますので」 「……勝手にしろ」 美子に叱り付けられ、運転手には丁寧に拒絶された秀明は、半ばふて腐れて腕を組んだまま窓の外に視線を向けた。そして引っ張って行った病院で、取り敢えずの処置を済ませた秀明を連れて、美子は無事夕刻になってから帰宅した。
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