半世紀の契約
(3)雑音①

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 翌日、終業時刻と共に社屋ビルの一室で、持参していた喪服と黒いネクタイに着替えた秀明は、着ていた服とブリーフケースを持ってビルの外に出た。それから五分と経たずに目の前にセダンがやって来て、静かに停車して彼を拾う。  運転していたのは早めに仕事を切り上げ、自宅で喪服に着替えて来た淳で、互いに余計な事は言わずに一路藤宮邸へと向かった。 「さてと、着いたぞ。ここから少し歩くからな」  藤宮邸に程近いコインパーキングに愛車を入れた淳は、助手席の秀明に声をかけた。それに秀明が素直に頷く。 「構わない。どうせ近くには停められないだろうしな。お前が車を出してくれて助かった」 「どうせ仕事帰りに寄ると思ったからな。服と鞄も置いていけ」 「そうさせて貰う」  そして男二人で並んで歩き出しながら、淳がしみじみとした口調で言い出した。 「しかし……、確かに病状が悪化していると美実から聞いてはいたが、急な事で驚いた。昨夜電話で大泣きして知らせてきて、宥めるのに暫くかかったぞ。お前も美子さんから電話を貰った口か?」 「いや、夕方にメールがあったから、帰りがけに家に様子を見に行った。彼女だけ残ってたな。他は全員、病院に向かったそうだ」  予想外の事を聞いた淳は、何気なく尋ねてみる。 「気落ちしてたか?」 「業者にバリバリ指示を出していた」  それを聞いて何とも言い難い顔付きになった淳だったが、ぼそりと感想を述べた。 「……その方が、却って良いかもな」 「そうだな」  それからは二人は無言で歩き、無事に通夜が始まる前に藤宮邸に到着し、受付を済ませて上がり込んだ。  如何にも旧家らしく、繋がっている幾つかの和室の襖を取り払ってできた長方形の広々とした空間の向こうに、どうやら昨夜のうちに納棺を済ませたらしい白木の棺と祭壇が設置されていた。一般客である二人は神妙に手前の席に腰を落ち着け、ゆっくりと前方に左右に分かれて座っている、故人の近親者や関係者が座っている場所に目を向ける。  本来親族が座る右側の最前列には、正式な喪服である黒紋付きの羽織袴姿の昌典と、その横に黒の五つ紋付きに身を包んだ美子が座っており、二人とも無言でその周囲を眺めているうちに僧侶がやって来て正面の席に着席し、読経が始まった。  しかし最初のうちは神妙に俯いていた淳が、いつの間にか自分の方に顔を向けて、その向こうの何かに真剣な視線を送っているのに気が付いて、小声で尋ねる。 「淳。どうした?」 「うん? ああ、ちょっと……」  窘められても、言葉を濁しながら何かに視線を向けている友人に、秀明は不審の目を向けてから、さり気なく淳が見ていたであろう方向に視線を向けて見た。 (何だ? 親族席の方に、何かあるのか?)  常には見られない、友人の落ち着きのないふるまいが気にはなったものの、さすがに秀明もしめやかな場で追及するわけにもいかず、そのまま大人しく読経に聞き入っているふりをした。  それから少しして読経が続く中、焼香が始まり、親族や関係者の焼香が済んでから、参列者の焼香が始まった。秀明達も順番を待ちながらそれとなく遺族の様子を眺めていたが、制服姿で開始当初から泣き続けていた美野と美幸程ではないにしろ、美恵と美実も泣き腫らしたと分かる顔で目も赤くなっていた。しかし喪主である昌典はさすがの風格で微塵も動揺を見せておらず、美子も冷静に会葬者に挨拶して受け答えしていた。 「藤宮さん、この度はお悔やみ申し上げます」 「この度は、誠に突然のことで……」  焼香を済ませてから二人で喪主の前に正座して頭を下げると、昌典が穏やかな声で言葉を返した。   「やあ、江原君、小早川君。揃って来てくれるとは。深美も喜んでいるだろう」 「お忙しい中、足をお運び頂きまして、ありがとうございます」  父親の横できちんと喪服を着こなした美子が、両手を付いて礼儀正しく頭を下げるのを気遣わしげに眺めてから、二人は余計な事は言わずにすぐその場を離れた。  そして藤宮邸を出て歩き出し、駐車場の近くまでやって来て周囲に人目が無いのを確認してから、秀明が淳の肩を掴んで足を止める。 「ところで、淳。お前読経の間、何がそんなに気になっていたんだ?」  どうにも誤魔化しが利かない雰囲気の中、淳は冷や汗を流しながら話し出した。

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