それから一時間を過ぎると、藤宮家では複数の人間が慌ただしく行き交っていた。 「テントの位置は、ここで良いな?」 「テーブルと椅子も出しておけ!」 「藤宮さん、ここからここまでの襖を外します」 「はい、奥の部屋に運んで纏めて下さい。代わりに出しておいた座布団をこちらに」 「藤宮さん、祭壇の位置はどうされますか?」 「壁にギリギリ付けなくても良いです。もう少しこちらに。その方が出入りし易いと思いますから」 「分かりました。それで遺影は、お預かりしていたこちらで宜しいですね?」 「はい、それでお願いします」 黒のワンピース姿で家の中を行き来しながら、連絡を受けてやって来た葬儀社の担当者と作業員に細かい指示を出す合間に、色々な打ち合わせをこなしていた美子は、頭の中でこれからしなければならない事を確認しながら、何気なく窓の外に目を向けた。 (ええと……、布団と祭壇の準備、明日の通夜ぶるまいと明後日の精進落としのお料理の手配は、料亭の方に連絡を入れたし……、え!?) 「ちょっと失礼します」 視線の先に、この場に居る筈も無い人間の姿を認めた美子は、対応している相手に短く断りを入れて立ち上がり、部屋を横切って縁側の窓を引き開けた。 「どうしてそんな所にいるの?」 本気で当惑した顔を向けてきた美子に、秀明は軽く肩を竦めて事も無げに言い返す。 「メールを貰ったから様子を見に来たんだが、インターフォンのボタンを押しても、玄関で声をかけても、業者らしい人間が忙しそうに出入りしてるだけだから、庭に回ってみた」 「それは悪かったわ。気付かなくてごめんなさい。そろそろ仮通夜に親族が来てもおかしくない時間帯だから、他にも誰か残って貰うべきだったわ。もう少ししたら玄関脇の受付に人を配置して貰うから、大丈夫だとは思うけど」 如何にも失敗したという顔付きで自問自答っぽく呟いた美子を見て、秀明は軽く眉根を寄せながら尋ねた。 「残っているのは一人だけなのか? というか、誰かに家を任せて、病院には行かないのか?」 「父達が迎えに行っているし、誰かここで迎える準備をしておかないと駄目でしょう?」 当然の如く言い返した彼女に、秀明は軽く溜め息を吐いてから、手に提げていた小さなビニール袋の中身を軽くかざして見せる。 「多分そうだろうと思って、これを持って来た」 「何?」 思わず受け取って中身を覗き込んだ美子は、軽く首を傾げた。 (これって所謂栄養ドリンクと、市販の睡眠導入剤?) ドラックストアの店名が入ったビニール袋の中に入れてある、四つの箱の品名を美子が確認していると、秀明が事務的な口調で尋ねてくる。 「因みに通夜と告別式の、場所と日程はもう決まったのか?」 その声に、美子は慌てて顔を上げた。 「ええ。葬儀社の担当者と相談して、菩提寺のご住職の都合も良いし、今日は仮通夜で明日の七時から通夜、明後日の十時から葬儀と告別式にしたわ。全部家で執り行う予定よ」 それに秀明は軽く頷き、人が行き交っている襖を取り払った広い和室を見回しながら、しみじみとした口調で述べた。 「日程的には、それが妥当な線だろうな。しかし今時、自宅で通夜も葬儀もする家は珍しいし、大変だな」 「これまで祖父母もそうやって見送ってきたし、あまり違和感は無いわ。確かに色々と煩わしい事はあるけど、最期はできるだけきちんと送ってあげたいもの」 「そうか」 静かに微笑んだ美子を見て、秀明は余計な事は言わずに頷いてから片手を伸ばした。 「それをちょっと貸せ」 「何をする気?」 一度渡された物をもう一度寄こせとは何をする気かと美子が訝しんでいると、再びビニール袋を受け取った秀明は、ポケットから細字のマジックを取り出したと思ったら、左手の手首に提げた袋の中から箱を一つずつ取り出しては、日付を書き込んで元通り袋に入れるという作業を続けた。そして全ての箱に書き終えてからマジックをしまって、再び美子に袋を差し出す。 「どうせ眠れないだろう。今日の夜に一本、明日の夜に一本、明後日の朝に一本、そして明後日の夜、寝る前に二錠だ。間違っても睡眠導入剤は、他の物と一緒に飲むなよ?」 真顔でそんな事を言い聞かされた美子は、ちょっと驚きながらビニール袋を受け取りつつ問い返した。 「これを差し入れる為に、わざわざ来てくれたわけ?」 「ついでだ。ひょっとしたら、深美さんの顔を見られるかもと思ったんだが」 若干素っ気なく言われて、美子は僅かに腹を立てた。 「せっかく教えてあげたんだから、直接病院に行けば良いのに」 「家族の中に割り込むのは、さすがに気が引ける。それに多分君は残っていると思ったから、そんな人間を差し置いて、赤の他人の俺が顔を見に行くのはどうかと思った」 「…………」 淡々とそんな事を言われて、美子はすぐに怒りを静めた。そして何と言って返せばよいか咄嗟に分からずに黙り込んでいると、秀明が再び口を開く。 「平日なので仕事があるから告別式は無理だが、通夜には顔を出すつもりだ」 皮肉も嫌味も含んでいない、常には無い穏やかな口調に、美子は思わず穏やかな口調で応じる。 「ありがとう。お母さんも喜ぶわ。だって全くの赤の他人だなんて、思っていなかった筈だし」 「……そうか」 秀明も表情を緩めて言葉少なに応じた所で、美子の背後から恐縮気味に、年配の黒スーツ姿の男性が声をかけてきた。 「藤宮さん、すみません。通夜と会葬の返礼品の数量について確認したいのですが」 「あ……、はい」 「邪魔になるから、用事は済んだし帰らせて貰う」 慌てて振り返った美子を見た秀明は、短く告げて踵を返した。しかしその背中に、若干焦った様に美子が声をかける。 「あの!」 「何だ?」 足を止めて振り返った秀明だったが、美子自身何故声をかけてしまったのか分からずに狼狽した挙句、変わり映えしない言葉をかけた。 「その……、どうもありがとう」 「……別に、改まって礼を言う程の事じゃない」 そう言ったものの、何やら居心地が悪い様に視線を彷徨わせている彼女を見て、秀明は不思議そうに言葉を返してから再び歩き出した。 そんな短いやり取りの間に門から玄関までの間に受付用のテントが張られ、テーブルや椅子が設置されているのを横目で見ながら、秀明は藤宮邸を後にした。そして塀に沿って歩きながら、以前に深美から言われていた内容を思い出して呟く。 「『会社は昌典さんに、家は美子に任せておけば大丈夫』か……」 そこで足を止めた秀明は、何とも言えない表情で振り返り、門の方を見やる。 「確かにそうだろうが……」 そう呟いて溜め息を吐いてから、秀明は再び最寄駅に向かって歩き始めた。
コメントはまだありません