人知れずそんな騒ぎが勃発してから三十分程して、新婦控え室のドアが、静かにノックされた。 「失礼します。新郎様をお連れしました」 「どうぞ」 美子が落ち着き払ってドアの向こうに声をかけると、スタッフに続いて秀明が姿を見せる。そして彼が近くの椅子を引き寄せて美子の前に座ると、新郎新婦双方に付いていたスタッフは、「それでは披露宴開始時間まで、少々お待ち下さい」と頭を下げて出て行った。 「俺に黙って、何をこそこそとやってるんだ?」 控え室に二人きりになった直後、秀明が渋面になって非難したが、美子はおかしそうに笑って応じる。 「黙っていたのはお互い様だけど、この前、秘密にしている事が五つあるって言ったわよ?」 「これがその一つか……。だが、美容室のスタッフから話が漏れて、藤宮家に変な噂が立ちかねないが」 そんな懸念を口にした秀明だったが、美子は事も無げに答えた。 「どこで誰に何をされたと言うの? 言いがかりも甚だしいわ」 「美子?」 「金田さんに頼んで、桜査警公社の人間をホテルスタッフに紛れ込ませて、フロントロビーから秀明さんの控え室、そこから美容室への移動を、極力人目に触れない様にして貰ったもの」 「阿南の事か?」 「名前までは知らないけど、美容室のスタッフにも姿を見られる事無く、その手前で別れたと思うわ。第一、元々のホテルスタッフでは無い人間だし、ここの従業員リストを探しても出てこないから、証人になりようがないもの」 美子がそう述べると、秀明も少し考え込んで結論を述べた。 「そうなると……。さっき美野ちゃんが言っていたが、監視カメラが都合よく機能してないらしいし、頭に変な物をどこかで付けた変な夫婦が、どこからともなく現れたと言うだけの話だな」 「そういう事。美野と美幸に殊勝に頭を下げさせてひたすらこちらが下手に出たから、子供相手にあまり高圧的に出て心証を害するより、相手に借りを作っておいた方が良いと欲をかいて、あっさり引き上げたのが運の尽きね。本当はフォーマルドレスが着たいって言っていたのを、わざわざ二人に制服で出席させた甲斐があったわ」 「容赦ないな」 細かい小細工に秀明は苦笑するしかなかったが、美子は同様に笑って答えた。 「衣装はすぐに着替えられるけど、あの頭を何とかしようと思ったら、どう考えても披露宴開始時間に間に合わないわ」 「それはそうだな」 「公社が派遣したスタッフが、閉鎖されている会場に乱入しようとする無頼の輩は徹底排除してくれるそうだし、招待客の皆様に不愉快な思いをさせずに済みそうね。勿論、言いがかりを付けて請求してくるであろうクリーニング代や理髪代を含めた慰謝料も、びた一文払う気は無いわ。こちらに非は無いから当然よ。訴えたいなら訴えれば良いわ。返り討ちにして、逆に名誉棄損で訴えてやるだけの話だし」 堂々とそう言い放った美子を、秀明は苦笑しながらそのまま暫く眺めていたが、急に真顔になって口を開いた。 「……美子」 「何?」 「俺が、こんな事を口にするのは初めてなんだが……」 「だから何?」 何やら真剣な顔付きで言い出した秀明に美子は首を捻ったが、そんな彼女に向かって、彼は笑いを堪える表情になりながら告げた。 「惚れ直した。やっぱりお前は良い女だな」 それを聞いた美子は、一瞬目を見開いた後、おかしそうに笑った。 「あら。これまで『惚れた』とは言った事はあるけど、『惚れ直した』と言った事は無かったって事?」 「そうだ。悪いか?」 そこで開き直ったように問い返されて、美子の笑みが深くなる。 「薄情なあなたを窘めるべきか、あなたにそう言わせられなかった女の人達に同情すべきか分からないけど、随分と珍しい言葉を聞かせて貰ったのね」 「そう言う事だな」 「じゃあこれから頑張って、私に『惚れ直した』って言わせてみせてね? そうじゃないと周りの人間に、私はそれほどでもなくて、あなたの方ばかり私を好きだと思われるわよ?」 多少意地悪く笑いながら美子がそんな事を言った為、秀明は瞬時にいつもの不敵な笑みを見せながら宣言する。 「今日は色々度肝を抜かれたが、すぐに『惚れ直した』と言わせてみせる。覚悟しておけ」 「本当に?」 「あまり俺を見くびるなよ?」 「楽しみにしているわ」 そこで美子が明るく笑ったところで、披露宴の開催を告げにスタッフ達がやって来た為、秀明は彼女の手を取って立ち上がらせた。そして美容室で美容師に指摘されて漸く自分達の後頭部の笑える状況に気が付いたであろう次兄夫婦が、悲鳴と憤怒の叫び声を上げている姿を想像しながら、秀明は清々しい気持ちで美子と共に披露宴会場へと向かった。
コメントはまだありません