加積邸に招待されている日。美子は早めに軽めの昼食を済ませてから、しっかりと髪を結い上げ、深美の形見の櫛を髪に挿した。それから和室に移動して、桜に作って貰った着物一式をきちんと着込み、一時過ぎには外出の準備を整えた。 「よし。完璧」 姿見で自分の装いを確認した美子は、簡単にその場の後片付けを済ませ、襖を開けて隣接した仏間へと入った。そして仏壇に線香を上げ、鐘を鳴らして手を合わせる。 (お母さん、行って来ます。愛人云々はお父さん達の邪推と偏見だとは思いますが、これ以上変な事態にならないように、見守っていて下さい) そんな事を考えながら目を閉じた美子が神妙に手を合わせていると、背後から襖を開ける音と同時に「何だ、ここに居たのか」と言う声が聞こえてきた為、目を開けて振り返った。 「お父さん? 何か忘れ物? 午前中に言ってくれたら、会社まで届けに行ったのに」 それに昌典が、仏頂面になりながら応じた。 「心配で仕事にならんから、早退してきた」 「え?」 予想外の台詞に、美子は目をパチクリとさせた後、思わず失笑した。 「お父さんがそんなに心配性だったなんて、今の今まで知らなかったわ。美恵達はともかく、私は門限だってとやかく言われた事は無かったし」 「今日に限っては門限は六時だ。それ以上かかるなら、誰がなんと言おうと押し掛けるからな」 若干鋭い目つきで念を押してきた昌典にも、美子は臆せずに笑いながら言い返す。 「はいはい。夕飯までには帰ります。と言うか、私が作るつもりでいるから」 苦笑しながら父親を宥めているうちに、加積邸からの迎えの車が時間通り門前に到着し、美子は「じゃあ、行ってきます」とあっさり挨拶して出かけて行った。その車を無言で見送った昌典は、その足で仏間に向かい、先程の美子と同様に、仏壇に向かって手を合わせる。 「全く、昔から妙な所で肝が据わっていて、俺の手には負えん。深美、美子の事を頼むぞ」 そんな風に父親に嘆かれている事など、微塵も自覚していない美子は、差し向けられた高級車の後部座席で、この期に及んでもかなり脳天気な事を考えていた。 (さて、サクッと行ってサクッと帰って、誰にも文句を言われない様にしないとね。……特に、あのろくでなし野郎には) そして無言のまま窓の外の流れる景色を見ているうちに、美子の乗った車は大きな観音開きの門前に到着し、電動式らしくゆっくりと左右に開いた門扉の間を抜けて、横の広い駐車スペースに停車した。 (はぁ……、この立地でこの敷地。立派だし、建物も庭も趣味が良いわね。じっくり見せて貰いたいけどお父さんに怒られそうだから、余計な事は言わないでおきましょう) 車から降りた美子が、失礼にならない程度に周囲を見回していると、上下を黒のスーツに身を包んだ初老の男性が、恭しく頭を下げてきた。 「それでは藤宮様、こちらからお上がり下さい。旦那様と奥様がお待ちでございます」 「ありがとうございます」 そして先導する男性に付いて広い表玄関らしき場所に到達した美子が草履を脱いでいると、何やら視線を感じた為、そちらの方に顔を向けてみた。 「…………」 「あの、何か?」 その問いかけで我に返ったらしい彼は、微妙な顔付きから一変して、かなり恐縮した態で再び頭を下げた。 「いえ、大変失礼致しました。どうぞ、こちらです」 「はぁ」 何となく納得しかねたものの、余計な事は言わない方が良いと思った美子は、黙って彼の後に続いた。そして何人かすれ違った使用人らしき人物達からも、軽く頭を下げられながら微妙な視線を向けられている様に感じて、若干居心地の悪い思いを味わった彼女だったが、この屋敷の主夫妻が待ち構えている座敷に通された瞬間、何となくその理由が分かってしまった。 「こちらで旦那様と奥様がお待ちです」 「失礼します……」 するりと開けられた襖の向こうに会釈しつつ足を踏み入れた瞬間、視界に入って来た人物の姿に、美子は一瞬眩暈を覚えた。 (うっわ……、見事に幼稚園児と保育士。違和感が半端ないけど。この屋敷の人達の、微妙な顔付きと視線の意味が分かったわ。自分達の主夫妻がこんな格好している元凶が私と知ってたら、一体どんな人間なのかと訝しむわよね) 思わず時間を戻して、華菱で不用意な事を口走った過去の自分を殴り倒したいと考えながらも、美子は精一杯気合を入れて笑顔を保ちつつ足を進めた。 「加積さん、桜さん。本日はお招き頂いて、ありがとうございます」 「あら、美子さん。そんなに畏まらなくて良いのよ?」 「そうだな。楽にしてくれ」 「はい」 大きな座卓に夫婦と向かい合う様に座布団が置かれていた為、そこに落ち着いてから美子は改めて着物についての礼を述べた。
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