「……いえ、大した事では無いんですが。……はい! 正にそうなんです! もう娘が、秀明さんにべったりで! それに悔しい事に、いつも面倒を見てる私じゃ無くて、偶々主人が休みで家に居て、偶々美樹を見ている様にお願いした時に限って、初めて手を伸ばして穿いている靴下を脱いだり、初めて寝返りを打ったり、初めてずりはいをしたり。もう、初めて名前を呼んだのが『ママ』じゃなくて『パパ』だったら、育児放棄するところですよ! 本当に冗談じゃ無いわ。あの時の主人の、したり顔といったら!!」 憤然とまくし立てた美子だったが、ここで桜から軽く窘められたのか、美子がしぶしぶといった感じで応じる。 「それはまあ……、確かに『ママ』が最初でしたけど……」 それを聞いた桜が何やら言ったのか、美子が拗ねた様に言い出した。 「桜さん……、『魔性の女』って何ですか? 確かに秀明さんはそうかもしれませんが、だからと言って妻の私と娘の美樹まで、一括りにしないで貰いたいんですが。今の発言に関しては、断固抗議を」 「美子」 「何?」 話の途中で肩を軽く叩きながら呼びかけて来た夫に、美子は携帯の通話口を押さえながら振り返ると、秀明は苦笑しながら、美樹を抱きかかえていない方の手で、客人を指し示した。 「何の話をしているのかは、良くは分からないがな?」 何の脈絡も無い話で盛り上がっている間、気を揉んでいたらしい二人の顔が揃って強張っているのを見て取った美子は、秀明が言外に含んだ内容を悟って、瞬時に我に返った。 (あら、いけない。すっかり当初の目的を忘れていたわ。随分気を揉ませてしまったみたいだし、きちんと話を進めてあげないと) そして気合を入れた美子は、電話をかけた本来の目的を口にした。 「すみませんでした、急に話を中断してしまいまして。ところで、桜さんにお伺いしたいんですけど、今度加積さんのご都合が良い時に、お宅に伺っても宜しいでしょうか?」 それに対して快く了承の返事を貰えた美子だったが、若干言い難そうに話を続ける。 「いえ、それがですね、実は同伴者が二人おりまして」 「美子、ちょっと待った」 「何? あなた」 そこで再び肩を叩かれた為、美子が慌てて振り返ると、秀明が釈明してくる。 「言い忘れていたが、屋敷に出向くのは清人だけだ」 「佐竹さんだけ?」 「ああ」 二人を見やって怪訝な顔になった美子だったが、電話越しに尋ねる声が聞こえて来た為、慌ててそちらに意識を集中した。 「……あ、すみません。同伴するのは一人だけです。……いえ、私の知り合いでは無く、主人の大学時代の後輩の方なんですが」 そこでどうしたのか美子は振り返り、佐竹を凝視し始めた。 「ええと……、そうですね……」 何事かと秀明と柏木が二人に交互に視線を送る中、美子が真顔で電話の向こうに告げた。 「私より年下の、一見イケメンですが、得体が知れないタイプです。でも主人と比較すると、そこまで性格は破綻していないかと思います。頭も主人ほど切れるとは思いません。だって加積さんへの伝手欲しさに、主人を頼ろうとする位ですから。私だったら幾ら困っても、これからの人生を捨てかねない、そんな危ない橋を渡ろうとは思いませんわ。ええ、誰が何と言おうと絶対に」 彼女がそう言い切った瞬間、秀明は片手で口元を押さえて笑いを堪える表情になり、佐竹と柏木の顔が盛大に引き攣った。そして電話の向こうでは大笑いしているらしく、美子が憮然としながら言い返す。 「桜さん……、今のはのろけじゃありませんから。単に結婚相手に『性格の良い頭の悪い男』か『性格の悪い頭の良い男』かのどちらを選ぶかと言う究極の選択をする場合、私だったら後者を選ぶという話だけです。そんなに大笑いしなくても……」 そして少しして、相手から要求が伝えられた美子は、佐竹に声をかけた。 「はい。ええ、それなら。ちょっとお待ち下さい。……佐竹さん、明後日の十時までにこの家に来られるかしら?」 「はい、大丈夫です」 真顔で即答した佐竹に小さく頷き、美子は了承の言葉を返した。 「その時間で大丈夫です。はい、宜しくお願いします。……加積さんにも宜しくお伝え下さい。それでは失礼します」 そして通話を終わらせた美子は、改めて佐竹に声をかけた。 「それでは明後日の十時に、加積さんの方でこちらに車を回して下さるそうだから、一緒に加積さんのお宅に参りましょう」 それに二人が心底安堵した表情になって、礼を述べる。 「お手数おかけしますが、宜しくお願いします」 「助かりました、藤宮さん」 そう言って深々と頭を下げた二人に、美子は鷹揚に笑った。 「いえ、これ位、どうって事ありませんから。借りが返せて良かったわ」 そこで秀明が何気なく口を挟む。 「美子? 借りって何の事だ?」 「大した事ではないのよ」 「ふぅん? まあ、良い」 一瞬面白く無さそうな顔付きになった秀明だったが、ここで話題を変えてきた。
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