その日、一家の主たる昌典が食堂に顔を見せると、既に娘達は全員顔を揃え、朝食も揃えられて食べるばかりの状態になっていた。 「お父さん、おはよう。今日はだし巻き卵にしたわよ?」 「……ああ」 いつもと同様にご飯茶碗や汁椀を目の前に揃える美子を、席に着いた昌典は何とも言い難い顔付きで見上げる。 「その……、美子?」 「何?」 不思議そうに尋ね返した美子に、昌典は何か言いかけようとして、結局いつもと同じ台詞を口にした。 「いや……、何でもない。じゃあ食べるか」 「はい。いただきます」 美子の挨拶に妹達も唱和し、藤宮家の朝の光景は、表面上はいつもと変わらない物だった。 その後朝食を食べ終え、台所も片付け終わって一仕事終えた美子は、自室に戻ってバッグの中に入れてあった封筒を取り出した。 「さてと、手紙を読んでみましょうか」 そして椅子に座った美子は、机の引き出しから鋏を取り出して慎重に端を切り、どきどきしながら中に入っている、折り畳まれた便箋を取り出す。 「どんな事が書いてあるのかしら?」 そしてそれを広げた瞬間、真っ先に目に入って来た一文に、美子の目が丸くなった。 『美子。困った事に、秀明君は三白眼の黒兎なの』 「……はぁ? いきなり、何?」 全く予想外だった言葉の羅列に、美子は呆然となりながらも目で文章を追った。 『見た目はそんなに悪くないんだから、お愛想振り撒いて耳と尻尾を揺らしていれば、皆に可愛がられる筈なのに、世の中を斜めに見ちゃってて、それが出ている目つきの悪さで台無しになっているのよね』 「世の中を斜めに見てるとかは、納得だけど……」 頭痛を覚えながら、思わず考えを声に出してしまった美子だったが、気を取り直して読み続けた。 『だけど誰かが構ってくれないと、寂しくなって死んじゃうから、狼の皮を被って周りにちょっかいを出して、驚かせては喜んでいる困った子なのよ』 そこまで読んで、美子は両手で便箋を持ったまま、がっくりと項垂れる。 「お母さん……、狼の皮を被ってるんじゃなくて、狼そのものだと思うんだけど? それに構って貰えないと死んじゃうって、ありえない……」 自分の母親は何をどう考えていたのかと、正気を疑いかけていると、次の文で美子は盛大に溜め息を吐いた。 『だから美子に、秀明君の躾をお願いしたいんだけど』 「あのね……、躾って何?」 思わず突っ込みを入れた美子だったが、誰も答えてくれる者はなく、静かな室内に彼女の声が虚しく響く。 『妹が多いから、美子にはお手の物でしょう? 良い事をしたら誉める。悪い事をしたら叱る。基本的な事で良いから。大丈夫。まだまだ矯正は効くわ』 「……狼皮の兎の躾なんて、やった事は無いわよ」 妙に自信ありげな書き方に、美子はふて腐れた様に呟いた。そして早くも、深美の残した文章が終わりを迎える。 『それじゃあ、後の事は宜しく。秀明君と仲良くね』 「……ええと、これだけ?」 バサバサと便箋を捲っても、他に書いてあるものは見当たらず、そもそも最後に日付と署名がある事から、そこで終わりだと明白になっている事で、美子は半ば呆然となった。 「殆ど……、と言うか、全部あいつに関する事じゃない。何なのよ、これ。本当に私宛?」 納得いかない顔付きで黙り込んだ後、美子は不意に表情を緩めて、吹っ切れた様に小さく笑った。 「まあ、良いわ。でも三白眼の黒兎って……」 そう呟いて「ぷふっ」と小さく噴き出した美子は、笑いを堪えながら携帯電話を手に取った。 「せっかくだから、登録名を『黒兎』にしちゃいましょう」 そう言って秀明の登録名を訂正した美子は、これで着信がある度に笑えるだろうなと思いながら、「これで良し」と満足げに呟いた。
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