「あの……、美子さんは、秀明から具合が悪い事を聞いて、様子を見に来てくれたんですか?」 停めておいた愛車に彼女を乗せ、藤宮邸に向かって発進してから、淳が恐る恐る事情を尋ねてみると、助手席の美子は前を見たまま素っ気なく否定してきた。 「いいえ。父から連絡を貰ったの。社内で、土曜日から寝込んで休んでいる話を聞いたから、様子を見て来て欲しいと言われて」 「……そうでしたか」 (てっきり本人から泣き言でも聞いて、様子を見に来てくれたのかと思ったんだが……。俺が甘かったな。あいつが女に弱味を見せる筈もないか) 少し気落ちしながら淳が運転を続けていると、少ししてから美子が淳の方に顔を向けながら口を開いた。 「ねえ、小早川さん」 「何でしょうか?」 「今夜は帰りたくないわ」 「は、はあぁあ!?」 驚きのあまり思わず助手席に顔を向けた上、手に変な力が入って盛大に蛇行した車は、後続車や並走車から派手にクラクションを鳴らされた。それで瞬時に我に返った淳は慌てて前方に向き直ってハンドルを切ったが、動揺著しい彼の横顔に、美子の冷たい視線が突き刺さる。 「……危ないわね」 「すっ、すみません!」 「そう言われたら、小早川さんだったらどうするのかって話をしようとしてたんですけど?」 「そ、そうですか……。俺だったら相手を見て判断しますが」 前を見ながら、未だ狼狽しつつも何とか言葉を返した淳だったが、それを聞いた美子は不愉快そうに眉根を寄せて感想を述べた。 「美実以外の女に、随分言われ慣れているみたいね」 体感気温は氷点下のその声音に、カーブに差し掛かっていた為に淳は横目で精一杯訴える。 「いいいいえっ!! 一般論を口にしただけで、決してその様な事はっ!」 「軽い冗談です」 (頼むから、この場面でそんな冗談は止めてくれ!!) サラッと流してしまった美子に、淳は心の中で盛大な悲鳴を上げたが、彼女の話は容赦なく続いた。 「それで、今日“あれ”から聞いたんだけど……」 「何を、でしょうか?」 (秀明……。お前とうとう“あれ”呼ばわりだぞ。どこまで株を下げてやがるんだ。もうろくでもない話の予感しかしない) 何やら思わせぶりに黙り込んだ美子に、淳は戦々恐々としながら話の続きを促してみると、美子は淡々とある事について言い出した。 「“あれ”が家に出向いて、私の父に改めて交際を申し込んだ時、『遊びなら殺すし、本当に結婚する気なら婚前交渉禁止だ』と言われたそうなの」 「はいぃ!?」 ぎょっとして思わず助手席に顔を向けてから、慌てて前方に向き直った淳を見て、美子は静かに問いかけた。 「あなたがこれまで家に来た時、父からそんな事を言われた覚えは?」 「いえ、全く」 「それなら良かったわね、父に殺される心配が無くて。美実にとっくに手を出しているのは知ってるわ」 「はぁ、どうも……、恐縮です」 容赦のない指摘に淳は身の置き所が無くなったが、次の美子の台詞を聞いて、本気でハンドルに頭を打ちつけたくなった。 「それを不愉快そうに喋った後、『最後までやらなきゃセーフだから、ちょっと味見させろ』って、言いやがったのよ。あのろくでなしは」 (全っ然フォローできねぇぞ、秀明!) 本当にろくでもない話に、完治したら絶対一発はぶん殴ると固く決意した淳だったが、次の美子の台詞で思わず笑いを誘われた。 「それで思わず足で抵抗して、あの状態だったってわけ。取り敢えず助かったわ。ありがとう」 「いえ、どういたしまして。しかしそこで『思わず足で』って台詞が出てくるのが、美子さんらしいですね」 口元を緩めて感想を述べた淳だったが、その和やかな空気は長くは続かなかった。 「そういう場合って、普通は大人しく味見されるものなのかしら?」 「……え?」 (という事は、美子さん的には、手を出されても構わなかったって事なのか? いや、それにしては……) 独り言の様に口にされた言葉に、淳は一瞬聞き間違いかと思ってから、慌てて横目で美子の様子を窺った。そして一見いつも通りに見える美子の真意を探ろうとしたが、急に彼女は不機嫌そうに顔を背けて面白く無さそうに告げる。 「……悪かったわね。男性経験が皆無の、面倒臭い女で」 そのまま窓の外に視線を向けて微動だにしない彼女を見て、予想外に怒らせてしまったかと淳は焦って声を上げた。 「いえいえいえ、大変結構なんじゃないでしょうか!」 「…………」 しかしそのまま黙り込み、もう完全に何を考えているか分からなくなった美子の横顔を見て、淳は本格的に頭痛を覚えた。 (これ以上、迂闊に下手な事が言えん。秀明、お前頭を完全に元に戻してから、何とか自分で始末を付けろよ!?) どうして俺が八つ当たりされて神経を擦り減らす羽目になるんだと、淳は内心で腹を立てつつも安全運転を心掛けて、無事藤宮邸に美子を送り届けてから去って行った。
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