初めて怒り以外で少しだけ頬を赤らめてしまい、その表情が泉に鮮明に映し出されます。 何だかいつもと違う自分が恥ずかしくなりサッと目線を逸らすも、彼はそれを気にする様子もなく続けるのです。 「実は先ほど、ここの森であなたの声が聞こえてきました。 やれ鬼嫁がなんだ、カップラーメンがどうだ。」 「1番恥ずかしい所聞かれてた。」 「いいえ。恥ずかしいこと等ありません。 あなたの言う通り、愛する人に対して鬼という表現を用いることに、私もとても疑問を感じます。 もしも何かがあって怒っているのなら、鬼にならないように隣で支えたり、 時には見守ることも夫の役目だと思うからです。」 「変態…。」 誰にも聞かれていないと思った愚痴の数々が、 まさか自分が傷つけた相手に聞かれていたとは思いもせず、 焦りと羞恥心で先ほどよりも顔が真っ赤になりました。 ですが、少し冷静になり脳内で彼の言葉を繰り返すと、 出て来た言葉の中に彼女を責めるものは1つもありません。 ゆっくりと見上げた彼の瞳は、水面よりも穏やかで、透明で、何より真っすぐなのでした。 「それに、カップラーメンに至ってもそうです。何故相手に作って貰う前提なのでしょうか? 自分が作れないのであれば、それを相手にだけ求めるのはお門違いというものです。 どちらかじゃなく、2人でやればいいだけの簡単な話なのに。」 胸に手をあててそう話す姿に、木こりは初めてこの人はまともな人なのかも知れないと思いました。 家事は女がして当たり前。 料理は女が出来て当たり前。 そうではなく、お互いに支え合える関係性というのが、何と尊くて素晴らしいことなのか。 その大切さを改めて彼に説かれた木こりは、今までどれだけ狭い世界で生きていたのだろうと、 自分の暮らしていた水槽の大きさに初めて疑問を抱いたのでした。 この泉よりも、よっぽど小さい所で生きていたのかもしれない。 それをここに住んでいるであろう彼に説かれたのが悔しいような、面白いような。 そんなことを思いつつ、少しだけ尊敬の眼差しを向けると、彼はにこっと微笑みかけたのです。 「こんな真っ直ぐな言葉を言っているのは、一体どんな人なんだろうか。 一度話してみたい。実際にこの目で確かめてみたい。 そう思っていた時、あなたの斧が飛んできました。 この斧は、2人を繋ぐ運命の矢…いえ、運命の斧だったのです。」 「急に物騒。」 「私はあなたみたいに、自分の心に正直な人と一生を添い遂げることを夢見てきました。 この金の斧も銀の斧も、ただあなたと話すための口実に過ぎません。」 彼はそういうと、先程泉に沈めた金の斧と銀の斧を軽々しくぴょいっと持ち上げ、 森の中にビュンっとぶん飛ばしてしまいました。 先程の木こりの斧とどっこいどっこいの勢いだったことでしょう。 あまりにも綺麗に一直線にどこかへ飛んでいくものですから、 思わず木こりも立ち上がり、まるで野球の見物客の様に額に手を添えて見守りました。 何やらどこかで不穏な音が聞こえましたが、斧が見えなくなり視線を彼に戻すと、 ピン・・・と電気を光らせながら目線が交わったのです。 それはまるでおとぎ話の様にロマンチックな1シーンのよう。 しかし、この2人には、残念なことに背景に薔薇を添えられるようなシーンは向いていないのでした。 「さぁ、これで斧は2つともなくなり、実質もう二択になりましたよ。どちらを選びますか?」 「斬新すぎる消去法。」 「あなたが選んだものならば、私は絶対に文句は言いません。」 「そうですか。分かりました、じゃあ家で。 ちょうど今住んでるところ引っ越そうと思ってたし、部屋ももうちょっとあると良いなって思ってたから。」 「そんなの認められません。却下します。」 「数秒前の記憶失ったの?」 あまりにもテンポの良いやりとりに、第三者がいたらコントの練習でもしてるのかと疑問に思う事でしょう。 彼は駄々った子の様にヤダヤダと癇癪を起こすでもなく、 「嫌ですが、何か?」と、さも自分が間違えていないかの様な態度で仁王立ちをしています。 木こりもうっすらとそんな予感がしていたので、やれやれとまた重たい腰を落としました。 「ここまで来たら、普通私を選びませんか?この流れでまさか家に負けるとは思いませんでしたよ。」 「だって、素直な私に惹かれたんでしょ? 嘘ついたらそれはもうあなたの愛した私じゃなくないですか?」 「くぅうど正論!でもそんなところも好き!」 「もう泉じゃなくて泥沼にハマってるじゃねーか。」 木こりはどこまで行っても木こりでした。 男神の涙と鼻水が泉に落ちていっても知らんぷり。 自分の意志を決して曲げることはないのです。 「っていうか、どうやったら病院に行ってくれますか? 仮にも斧が掠ってるのでちょっと心配なんですけど。」 「…わかりました。家なら貰ってくれるのですね?」 「言葉のキャッチボールって言うかバッティングセンターだなこりゃ。 私に何かを授けることで、あなたがちゃんと治療を受けてくれるって言うのなら喜んで貰いますよ。」 「言った!今言いましたね!!!私から貰ってくれるんですね!?絶対に嘘つかないでくださいね!? ハイ指切りげんまん指きーった!!!!」 「どんだけ私に貢ぎたいんだ。あとそんな省略可された指切りげんまん何か嫌だな。」 言いたいことも突っ込みたいことも山積みでしたが、 悲しいことにまだまだミッションも山積みです。 こんな所で全力で突っ込んでいたらこっちの方が病院のお世話になってしまう。 そんな本末転倒な展開は避けるべく、喉仏まで出かかっていた言葉を胸を叩きながらごくんと飲み込みました。 すると、彼はよっこいしょと言いながらザブンザブンと音をたてこちらへと近寄ってきます。 その様子は神秘的とは程遠く、どちらかというとホラー映画の様でした。 「家はここからすぐの所にあるので、もしもお時間が宜しければ見学に行きませんか?」 「こんな森の中にあるんだ。しかも普通に泉から抜け出せるんだ。」 「抜け出せないとお買い物とか行きにくいですからね。」 「水の中に沈んでたのにそういう所は現実的なんだ。」 彼の生活を知れば知るほど分からなくなり、気にもかかりましたが、 木こりはこんなことに使う脳細胞が勿体ないと一切考えるのを諦めました。 自分も立ち上がろうと膝に手を当てた時、彼が泉からスッと手を差し出してきました。 差し出された右手だけがなぜか濡れてなく不思議にも思いましたが、 考えることを放置していたのでもうどうでも良くなっていたのです。 いえ。正確には、ちょっとだけ照れてしまい、その真実の方がどうでも良くなっていたのでした。 逆光だったからか、神々しく見えたその手をきゅっと握り、ゆっくりと立ち上がり彼の隣を歩きます。 ただの変態。変人。奇人。 そのはずなのに、どうしてこんなにも胸がドクンドクンとうるさいのでしょう。 鳥のさえずりさえも2人をヒューヒュー囃し立てるヤジの様にすらも聞こえました。 チラッと彼の方を見上げると、「どうかしましたか?」とでも言いたげに、 優しそうな顔を惜しげもなく彼女に捧げました。 木こりはあまり男性に対する耐性がなかったため、 何だか急に恥ずかしくなり、プイっと顔を背けてしまいます。 最初に会った時よりもちょっとだけ気まずい沈黙から15秒。 思わず木こりもびくっとなってしまう程、突然彼が大声を上げたのです。
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