俺の名前は高部翔太、都内にある商社のフツーのサラリーマンだ。 年齢は38歳の働き盛り、仕事は程よくこなし、給料はそこそこ。 1LDKマンションで妻と娘の3人で暮らしている。 さて、これといって何もない土曜日の休日だが楽しみにしていることがある。 今日は特別な日で、なんと娘が夕食を作ってくれるらしいのだ。 にしても、ちょっとしたことでピーピー泣いていたあいつが料理を作るなんてな。 包丁で指でも切って大騒ぎしないか心配だ。 親バカだって? まァそう言うな、親にとって子供は何歳になろうが子供なのさ。 それより、娘はどんな料理を作ってくれるのだろうか。 『日経平均株価は今日も下落しました』 時刻はAM19:08になっている。テレビではニュースをやっていた。 堅苦しい七三分けのベテランアナウンサーが淡々とニュースを読み上げている。 ニュースの内容だが経済がどうたら、政治がどうたらとよくあるものだ。 話す内容を聞くと、世間では不景気というヤツがまだ続いているみたいだ。 するとリビングのソファーに座る妻が喋った。 「暗いニュースばっかりね」 彼女の名前は風音。仕事はある総合病院で看護師をしている。 「奥様との馴れ初めは」だって? 芸能リポーターみたいな質問だな。 ちょいとカッコ悪い話だが――ある朝の通勤途中、ドジって駅の階段から転んで足を折ってな。 担ぎ込まれ入院した病院で彼女と出会ったのが最初さ。 出会った当初、可愛い看護師が担当になって喜んだが……。 風音はつっけんどんな態度でとっつきにくい印象の方が強かった。 だがある日、病室のテレビでプロ野球を見てると……。 「あら……今日はデーゲームだったんだ」 「日曜日ですからね」 「そうでしたね。こんな仕事なもので曜日の感覚がわからなくなる時があって……」 俺の食べた昼食を下膳しながらも、チラチラとテレビを見ていることに気付いた。 「野球好きなのかい?」 「えっ……」 「さっきからテレビをチラチラと見てるよ」 「それは……」 「俺、もうすぐ退院だし一緒に観にいかない? 偶には羽を伸ばして休むのも必要だよ」 普段の俺なら絶対言わないベタなお誘いの言葉だ。 言われた風音は少し困った顔になっている。 「……困ります」 俺といえばどう言葉を続ければいいか困った。 とりあえずプロ野球の話題を続けることにした。 彼女の反応が欲しくてもう必死だったんだろう。 「俺さ東京サイクロプスのファンなんだ。去年の浪速メガデインズとの日本シリーズは……」 「いい加減にして下さい」 風音は足早に病室から出ようとする。 俺は彼女の手を取った。 「俺、真剣に君のことが好きになったんだ」 不思議と出た言葉だ。 思い出すだけで恥ずかしい―― 「勝手に好きだと言われても迷惑です」 この時の風音の反応は冷たかった、当たり前だ。 いきなり患者に告られても迷惑なだけだ。 「そりゃダメだよな……」 俺がそう思った時―― 「でも……偶には羽を伸ばすことも必要ですね」 「じゃ、じゃあ……」 「友達からですよ」 こうして俺達は徐々に仲を深めて結婚した。 「ハァ……」 風音は溜息をつくと俺の顔を見た。 「こう不景気のニュースが出ると『お前は病院勤めだから安定してるだろ』ってチクリと言われたわね」 いや……本当にスマン……。 新聞なんかでも、私立病院が赤字経営に陥り倒産する記事を何度か拝見している。 医療職だからって安定してるワケじゃないのはわかっているんだ……。 「病院も潰れる時代だし、看護師も大変なのよ?」 わ、わかっている本当にゴメンよ。看護師は大変だよな。 夜勤は続くし、めんどうな患者や家族、それに医者も癖のある人がいるらしくよく愚痴をこぼしていたな。 『続いてスポーツです』 「ん……富田くんだ」 ナイスだアナウンサー。 白髪が増えたアンタだがよくぞ話題を変えてくれた。 『東京サイクロプスの富田匠選手が引退を発表しました』 「あっ……引退するんだ」 東京サイクロプスの富田選手が引退するようだ。 この選手は思入れ深い、風音との初デートでのプロ野球観戦……。 あの試合での先発投手が富田選手だったからだ。 高卒2年目でプロ初登板の試合。だけどボカスカ打たれ5回を持たずにノックアウトされた。 でも、懸命に投げる富田選手を二人で応援したっけ。 それ以来だな、俺達が彼のファンになったのは。 その富田選手も球界を代表する投手になった。 しかし、本当に時の流れは早い。あの富田選手もとうとう引退するのか。 「あなた、富田くんが引退ですって」 風音が俺を見て寂しく言った。 仕方ないさ『人間が死ぬ運命から逃れられない』のと一緒でプロは引退がつきものさ。 あの時の選手が40過ぎまで現役で続けられたのは凄いことじゃないか。 「お母さん、出来たよ」 娘の陽葵だ。 2年前に大学を卒業した陽葵はあるIT企業に勤めている。 「もう独立して家を出ろ!」って言いたいところだがそうはいかない。 陽葵の収入がウチを支えているみたいだからな。 それに大学へ入学するために借りた奨学金も返済しなきゃならないみたいだ。 陽葵に申し訳ない気持ちで一杯になった。俺がもっと元気だったなら……。 俺がセンチメンタルな気持ちになると風音が言った。 「おいしそうね。これってスープカレー?」 「うん。お父さん昔からカレー系の料理好きだったから」 ガキっぽいが俺は昔からカレー料理が好きだった。 カレーライスはもちろん、カレーシチューにカレー鍋……。 カレーさえあればなんでもできるっ! てな具合でカレーが好物で、食べると元気が出て仕事を目一杯頑張れた。 「父さん、戦隊モノの黄色みたいな人だったわね」 「お母さん、もうそれ古いわよ」 「古い?」 「うん、今どきの戦隊のイエローは違うのよ」 「ふふっ……本当にあの人、優しくていい人だったわ」 風音、嬉しいこと言ってくれるじゃないか……。 もっと俺が元気だったころに言って欲しかったぞ! 「そろそろ皆で食べましょうか」 「うん、その前に……」 陽葵は作ったスープカレーを俺の前まで持って来た。 小さな膳の上にスープカレーを乗せる。 いい香りだ、これは絶対に美味いに違いない。 目にしているも食べられないのが残念でならない。 「もうあれから12年か……私、毎日頑張っているよ」 そうかそうか頑張っているか、でも頑張り過ぎて体を壊すなよ。 何より健康が一番であることを俺自身が痛感している。 「父さん、今日は大事な報告があるの」 大事な報告……一体なんだろうか? 「今ね……私、真剣にお付き合いしている人がいるの」 ファッ!? 「今度お父さんにも紹介するから」 な、なん……だと……。 「彼、お父さんには写真でしか会えないのが残念だけど……きっと気に入るはずよ」 ど、どんな男だ!? 売れないロックバンドのミュージシャンだったら許さんぞ! もしそうなら「娘はやらん!」と頑固オヤジのノリで言いたい! ところだが何も出来ん! 直接に話せない状況だからだ! 風音! このサプライズ発言に君はどう思う!? 「あなた、陽葵の彼氏はとってもいい人よ」 お、俺より先に会ったんかい! 「それにあなたと違って顔もいいし、背も高いし……」 ど、どういう意味だよそれは! お前はいつも余計な一言が多いんだよ! フゥ……怒っても仕方がないか。 風音は俺がプンスカしていることに気付かないだろうし……。 「お父さん、それじゃあ一緒に食べようか」 陽葵は静かに手を合わせた。 仏壇前にはスープカレーの匂いが漂っている。 今日は特別な日――そう『俺の命日』だ。 そんな日に娘からとんでもないことを告げられてしまった。 それにしても、おいしいスープカレーだ。 俺は娘が作ったスープカレーの香りをじっくりと噛みしめる……。 フム、これなら彼氏――いや未来の花婿も喜ぶだろう。 ともあれ二人とも! 俺の分まで幸せになってくれよな!
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