空に満月が輝く夜。 召喚の準備はすっかり整っていた。 自室の中央に丸テーブルをおき、それを中心として床に直径2メートルほどの二重の円を砂で描いている。その丸テーブルには魔法陣を緻密に描き、五芒星のすべての角に蝋燭を立てる。中央には、くぼみのある石と香炉と短剣をおく。 術者である倫子は、リネンの黒のロングワンピースを身につけていた。下着はつけていない。すでに入浴し、魔術水をハーブの枝葉で身体に振りかけて身を清めてある。 すべて、あの魔法書『黒の召喚術』の記述に基づいている。道具類の用意については金銭面が障壁となったが、倫子が全財産(母方の祖父母から毎年もらうお年玉をコツコツ貯めたもの)と引きかえにすることでなんとか解決できた。 倫子は深呼吸する。そうでもしなければ、息が詰まりそうなほど緊張しているのだ。 (たいへんな危険がともなう儀式だわ) 倫子はいまさらながら自分に言い聞かせる。 悪魔に少しでも弱みを見せたら、つけこまれてその場で八つ裂きにされることさえあるらしい。 それに母親の朋子の問題もある。となりの部屋で眠っているので、なるべく静かに行わなくてはならない。こっそり防音のイヤーマフをつけてきたので声のほうは大丈夫だと思うが、足音がけっこう響いてしまうのだ。第三者に見られたら、召喚の儀式はそのばで失敗となる。 ベッドの宮棚の目覚まし時計が、午前0時0分を表示するのを確認して、倫子は儀式を開始する。 まず照明を消し、部屋を真っ暗にする。 それからテーブルの五本の蝋燭に火をつけ、香炉に香を焚く。 「あっちね」 真北の方角を指差し、そちらにむく。 「バズビ バザブ ラック──」 いよいよ呪文の詠唱だ。声が震え、上ずっている。指先も目に見えるほど震えている。 「キャリオス オセベッド ナ チャック オン アエモ エホウ エホウ──」 『黒の召喚術』に記述されていた呪文である。倫子は悪魔召喚の儀式に関しては以前からある程度の知識があったが、これは初めて耳にする奇妙な響きだった。 「!」 そのうち、テーブルの蝋燭の炎がゆらめくようになる。窓は閉め切っているのに。 倫子は期待を高め、興奮する。 「エーホーウー チョット テマ ヤナ サパリオウス」 次いで、獣のような匂いと硫黄の臭いの混じった臭気が立ちこめてくる。 間違いない! 悪魔だわ! 「きたれ 地獄を抜け出しし者 十字路を支配する者よ 汝 夜を旅する者 昼の敵 闇の朋友にして同伴者よ──」 倫子は同時に恐怖を覚えつつも、呪文を二番目のものに切り替える。 「犬の遠吠え 流された血を喜ぶ者 影のなか墓場をさまよう者よ あまたの人間に恐怖を抱かしめる者よ ゴルゴ モルモ 千の形を持つ月の庇護のもとに 我と契約を結ばん」 瞬きをしてるあいだに、倫子の目の前に音もなく悪魔が姿をあらわす。 「……!」 身長40センチほどのちんまりとした小悪魔が、パタパタと小さな羽をはばたせて空中に浮かんでいる。まるで幼児が悪魔の着ぐるみを着ているような愛らしい姿だ。 「わが名はアグコニオン! わがはいを呼んだのは貴しゃまか!」 『黒の召喚術』にあった通り、悪魔は術者の母国語で話しかけてくれる。 「おまえの能力は如何ほどか!」 倫子は強気の態度で問いかける。悪魔に舐められたりしたら、たちまち言いなりの奴隷にされてしまうからだ。 「わがはいは、赤子の産着の中にかくれてイタズラをすりゅのじゃ!」 小悪魔は舌足らずなしゃべり方で胸を張っている。 (……なんなのこれは?) 倫子は迷う。召喚した悪魔の性質が、獲得する魔力の性質に関わってくるという記述があったからだ。なるべく大物であることが望ましいが、しかしもう二度と悪魔が現れてくれなかったらどうする? 「去れ! 二度と私の前に現れるな!」 倫子は決心して叫ぶ。 小悪魔はまた音もなく消えてしまう。大物悪魔ほど召喚は困難になるらしいが、しかたがない。 倫子は呪文の効果をもっと強力にするため、テーブルの短剣を手にして掲げる。 「きたれ 地獄を抜け出しし者 十字路を支配する者よ 汝 夜を旅する者 昼の敵 闇の朋友にして同伴者よ──」 気合を入れ直し、ふたたび呪文を唱えはじめる。 「ゴルゴ モルモ 千の形を持つ月の庇護のもとに 我と契約を結ばん!」 次に現れたのは、頭と足はガチョウで、胴体はライオン、腕は人間で尻尾は馬という鵺のような奇っ怪な姿の悪魔。それがさらに、真っ黒でやたら丸っこい熊らしき獣の背に乗っているのだからややこしい。 「わが名はイガヌ男爵。なにゆえわしを地獄より呼び出した!」 「おまえの能力は如何ほどか!」 「わしは詩や絵画の才能を人間にあたえることができる。また望んだ通りの形に樹木を折り曲げることができる」 倫子はまた迷う。さきほどの小悪魔にくらべればずっと位は高そうだが、それでもまだ不満は残る。 「……去れ! 二度と私の前に現れるな!」 もっと大物でないとダメだ! 倫子は握りしめている短剣で、こんどは空中を斬りつけながら呪文を唱えはじめる。 「犬の遠吠え 流された血を喜ぶ者 影のなか墓場をさまよう者よ!」 コンコン── 「あまたの人間に恐怖を抱かしめる……」 コンコン── 「……!」 ようやく音に気づいて中断する。 コンコン── 控えめにドアをノックする音。 (お母さんだ……) 起こしてしまったのだ。声が大きすぎたんだ。倫子は落胆してためいきをつく。今回の召喚儀式は失敗だ。 コンコン── 「お母さん、いまちょっと朗読の練習を──」 部屋の照明をつけ、嘘の弁解をしながらドアを開ける。 「……!」 廊下に立っていたのは、朋子ではなく中年の男性である。 白人あるいは中東系らしき相貌で、ベッタリした七三分けの髪型に、高級そうなビジネススーツを着こなしている。一見するとやり手のセールスマンのようだ。 「わたしはメフィストフェレスと申します。お呼びくださりありがとうございます」 なめらかな日本語を話す。 「中へ、よろしいですか」 「え、ええ……」 戸惑いながらも、部屋の中に招き入れる。 「どうもお初にお目にかかります、柏木様」 「あ、あなたの能力は如何ほどですか?」 「そんな大それたものは。わたしは、サタン様の代理人にすぎません」 その自己紹介に、倫子はゴクリと息を飲む。 「魔女になりたいんですが……」 「恒常的に?」 「そうです」 「では契約して魔女になりますか?」 「はい。なります」 「承知しました。では失礼して」 左目の下にちくりと痛みを覚え、目の前が一瞬真っ暗になる。
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