黒兎少女
誕生編(2)

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 倫子は中学一年生のときから、三人の女子グループに理由も定かでないいじめを受けていた。三年生となり、運悪くリーダー格の女子と同じクラスになってからは、さらに執拗さを増していき、それは今も続いていた。  その日も昼食を終えた倫子は、女子トイレの個室に入って便器に腰かけ、文庫本を読んでいた。五時間目の始業チャイムが鳴るまで、ここでこうして過ごすのだ。  ガチャリ、と隣りの個室に誰かが入る音がしたかと思うと、 「柏木がオナッてま~す!」  頭上から耳障りな大声を浴びせられる。  佐伯早苗さえきさなえが間仕切りの上から顔を出して見下ろしている。便器の上に立っているらしい。 「エロ小説をオカズに毎日やってまーす♪」  倫子は早苗を睨みつける。だがそんなささやかな抗議などなんの力も持たない。 「ほら、濡れたマンコふけ!」  容赦なく投げつけられたトイレットペーパーが頭に当たり、ドアに跳ね返って大きな音を立てる。  倫子はすぐにドアを開けて個室から逃げ出すも、目の前にはリーダー格の榎本椿えのもとつばきが待ち構えている。 「あんた、いつも長いのよ! 人の迷惑も考えなさいよ!」  早苗が掃除用のモップを持ってきて、椿にわたす。 「ほら、顔のバイ菌を拭いてあげるから」  モップで顔をゴシゴシとこすられる。  すぐに手で払うも、ケホケホと咳き込む倫子。  出入り口のほうでは、トイレに入ろうとした女生徒の二人組を山下真里やましたまりが笑顔で押しとどめる。 「ごめんね、点検中だから」  彼女は見張り役なのだ。女生徒たちはとくに疑いもせずに去っていく。 「なんでこんな……」 「暗くてキモいからにきまってるだろ!」  倫子は汚れた顔を洗うため、無言で手洗い場にむかおうとする。  椿はその倫子の体に腕を回して締めあげ、反対側の窓のほうに引きずっていく。小柄な倫子は、長身の椿になすすべがない。 「あんたはこっちから出なさい!」  窓を開け、倫子の頭を窓の外に突き出す。ここは四階だ。 「ほらほら! 出なさいよ!」  窓は上のほうの位置にあるので、肩口まで抱え上げないかぎり落とすことはできない。だが恐怖心をあたえるには十分だ。椿はそうしてサディズム的快感を得ているのだ。 「ほら、手伝ってやるから飛べよ!」  だが期待するほど倫子は恐怖心を表に出さない。それに業を煮やしたのか、椿は倫子のスカートの中に手を突っ込み、下着をつかんでギュッと引っ張る。 「いっ!」  そのとき、始業チャイムが鳴り響く。 「椿、五時間目、教室移動だよ」  椿は倫子を放すと、その顔にベッと唾を吐きかけ、嘲笑しながら去っていく。                      *  だが倫子とて、何も対処しなかったわけではない。教職員にこの理不尽な現状を訴えるという、まっとうな解決法を試みたこともあった。  三年生の二者面談の日。  倫子が廊下で待っていると、面談を終えたクラスメイトが朗らかな顔で教室から出てくる。  入れ替わりに、倫子が教室に入る。 「失礼します」  申し訳程度に挨拶し、窓際の生徒の席に腰かけて待っている担任の矢野のほうへむかう。理科担当の三十代の男性教師だ。  なぜか、矢野の顔はすでに強張っている。怒っているようにも見える。倫子は怪訝な思いに駆られる。 「そこ座って」 「はい」  目の前の机には、事前に書かされたアンケート用紙がおいてある。  三年生の場合は志望校など進路についてが主だが、新クラスや学校生活での不安面などの質問事項もある。倫子はそこに、榎本椿たちから受けているいじめのあらましを書いておいたのだ。 「柏木、おまえ、榎本に何かいったのか?」  開口一番、矢野が榎本椿の名を出す。  だが倫子には、いまいち質問の意味がわからない。 「榎本はおまえに援助交際に誘われたといってるんだぞ」 「え……」  あまりに予想外のこと過ぎて絶句する。 「榎本だけじゃない。他のクラスの者もふくめて複数の女子が同じことを訴えてる。何人かの男子生徒は、おまえに金銭で猥褻な行為をもちかけられたと言ってるぞ。ほんとうなのか?」  いちおう質問形式だが、倫子はすでに厳しい口調で責められていた。 「そんなのはぜんぶ嘘です!」 「こんなに大勢の生徒が同じことをいってるんだぞ!」  そのカラクリについて、倫子はすぐ思い当たった。 「榎本さんが、他の生徒にも噓をつくように強要したんです。お金を渡したのかもしれませんし」 「榎本がそんなことするわけないだろう。なんでそんなことしなくちゃならないんだ!」  矢野は怒りで声を荒げる。しかもそれはおそらく、道徳心や正義感からだ。 「それは……アンケート用紙にも書いた通り──」  その用紙は、矢野が今、肘の下敷きにしている。 「榎本は、お前の誘いを断ったら逆ギレされたといって、怖がってたぞ!」  先回りされた、と倫子は愕然となる。  榎本椿は、本校においてきわめて評判がいい。教師陣からは成績も素行も良い優等生だと認められ、厚く信頼されている。父親も大病院の院長という社会的に信用のある地位にある。また他の生徒からの人気も高く、選挙によって選ばれた生徒会の副会長を務めている。  それに対して倫子は愛想がなく、口も重い。成績も良く問題も起こさないが、教師に好かれているわけではない。それに片親で貧困家庭という偏見も少なからずある。   倫子は頑として椿の非を主張するも、矢野は頭から信じる気がなく、ますます怒りを買うだけだった。もともと頭の固い人間だと感じていたが、しかしこれほど頑迷とは。  ついには矢野は、事実上の停学である出席停止処分までほのめかしてくる。倫子は生まれて初めてと思われるくらい言葉を並べて身の潔白を主張するも、「しばらく様子を見る」という処分保留の言葉を引き出すのがやっとだった。                      *  そんな倫子に、さらに追い打ちをかける出来事が起こる。  土曜のその日は朝から図書館にいて、倫子は夕方になって帰宅した。  居間のこたつテーブルで、朋子がシュンとなっている。めずらしくテレビをつけていない。すでに空になっている350mlのビール缶が三本とつまみにしたポッキーの空箱が二つ。 「お母さん、どうしたの?」 「……お昼に先生がきた」 「先生って、わたしの担任の?」 「うん。なんて言ったっけ? 加山……佐山……」  ほろ酔いならいつものことだが、今日はめずらしく泥酔しているようだ。 「矢野先生でしょ。なんで家に来たの?」  残念ながら、聞かなくても見当はつくが。  朋子はしどろもどろで説明する。案の定、矢野は例の捏造された援助交際問題のことを保護者に相談というか訴えに来たらしい。これぞ教師の義務であるという信念を携えて。 「ものすごく怒られた。あたしが仕事してないことまでいろいろ言われた」  子供のようにいじけている。 「なんであたしがこんなこと言われなくちゃならないの⁉ なんにも悪いことしてないのに!」 「お母さん、先生の話を信じてるの?」  倫子は息を飲んで尋ねる。 「そんなのあたしにわかるわけないでしょ!」  声を荒げる。自分が叱られてつらいことしか頭にないようだ。 「あたし、悪くないのに……」 「……!」  倫子は急激な胸やけを覚え、トイレに駆け込む。  胃の中は空っぽのはずなのに激しく嘔吐する。苦痛の涙があふれ、全身が引き攣るほどに。  「わたし、死ぬの……?」                         自分の部屋のノートパソコンで検索し、激しい嘔吐は心身の強いストレスによるものだとわかる。だがこのまま悪化すると、最悪入院もあり得るらしい。  原因ははっきりしていた。あいつらだ。だがいったいどうすればいいのか? あまりに自分は無力すぎる。 「………」  倫子は不意に強い予感をおぼえ、すぐに部屋を出る。  居間の朋子はすでに酔いつぶれてイビキをかいていた。  思った通り、こたつテーブルの上にはチラシ等の郵便物にまぎれて一枚の封筒がおいてあった。さっきも視界には入っていたが、今になって急に気になりはじめたのだ。倫子は封筒を手にする。 「……!」  予感は当たっていた。  封筒の裏には、差出人名として〝澁川達夫〟の名前が筆書きされている。  澁川氏は、知る人ぞ知る黒魔術研究の第一人者だ。その代表作である『黒魔術の実相』は希書だが、倫子は偶然にも古書店〈遠々堂〉で手に入れ、そしてたちまち傾倒した。その行間の隙間から、どこか普通とちがう匂いを嗅ぎとったのだ。あえて、真実をフィクションの体裁に包み隠しているという怪しい匂いを。  倫子は澁川氏に手紙を書いた。一年ほど前だ。自分がどれだけ真剣であるかを詳細に綴り、どうしたら本物の魔術を使えるようになるのか具体的に教えて欲しいと結んで。  倫子は自分の部屋にもどり、息を飲んで中の便箋を取り出す。  ほんの二行。返信の内容は、ごくごく簡潔なものだった。 〝魔術を使いたいなら、自身が魔女になるしかない。以下に記した住所へむかい、福田という人物に会いなさい〟

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