黒兎少女
誕生編(1)

作品に栞をはさむには、
ログイン または 会員登録 をする必要があります。

 日曜日。  柏木倫子は、厚みのないリュックを背に電車で都心にむかう。  降り立った駅から少し歩き、お昼前には手紙に記してあった住所に到着する。   繁華街の裏通りにある、薄暗いさびれたマンションだ。  一階のエントランスにはオートロックの扉などはなく、管理人の姿も見えず、誰でも自由に出入りできるようになっている。  テナント利用可の物件らしく、アダルトショップやアフリカの小国の大使館が入っている部屋まである。   512号室の前まで来ると、倫子はわずかに躊躇してから、呼び鈴を押す。  さして待たずにドアが開き、初老の男性が姿を見せる。寂しい頭髪にニットベストの普段着姿。面差しは知的そうだが、それ以上に生活感のある市井人に見える。 「福田さんですか?」 「ええ、ご用は?」  口調は穏やかだが、眼鏡越しの視線はどこか厳しい。 「澁川達夫氏に、手紙でここを紹介されたんですが」  福田氏は思案顔になる。 「手紙の内容ですが──」 「それはわかってる」  倫子のことを値踏みするように見つめて、 「君一人?」 「はい」  「年は?」 「十四歳の中学三年生です」 (この世界に年齢制限はないはずだけど……)  倫子は歯噛みするような不安を覚える。 「入って」  福田氏は静かに招き入れてくれる。  玄関から廊下を奥にむかい、キッチンに案内される。小さめの冷蔵庫と簡素なテーブルはあるものの、生活感はまるでない。 「ここだよ」  福田氏が摺りガラスの引き戸を開けると、そこはマンションの間取りとは思えない広く細長いスペースになっている。裕に三十帖以上はあるだろう。奥のほうは斜めの角度がついた歪な形になっており、リフォーム工事で複数の部屋をひとまとめにしたらしいことがうかがえる。そこに両壁際に一列ずつ、中央に両面式が二列、計四列の本棚が奥の壁まで並び、書籍がぎっしりと収められている。図書館の閉架書庫を思わせるが、より閉塞感がある。 「日本語で書かれた魔術に関する書籍はすべてここにある。もちろんまともなのだけだ」   福田氏の説明は事務的だが、つねに緊張感が漂っている。 「望みを叶えたいなら、召喚の方法を知ればいい」 「ここにその本があるんですね?」 「何冊もね。だけど正解は一冊だけだ」 「……?」 「ほとんどの書籍は惜しいがどこか違っている。召喚魔法は百パーセント正しくないと発動しない。正解の一冊を自分で見極めるんだ」  壁の掛け時計を一瞥し、 「制限時間は今からちょうど四十八時間後。それまで、この512号室からは出られない。外への連絡もダメ。メモも禁止だ。もちろん本は一冊たりともここからは持ち出せない。わかったね」  そういうことか。これは試験なのだ。 「あの、泊まりになるなら今から家に電話を入れてから……」 「ダメだ。もう始まってる。嫌ならあきらめたまえ」 「いえ、やります」  倫子は即答する。 「では荷物を預かろう」  倫子は肩にかけていたリュックサックをわたす。これといって大事なものは入っていない。 「他に持ってるものは?」 「何も」  すでに汗ばむ季節で、ブラウスとスカートの軽装。ポケットのたぐいはなく、ハンカチひとつ身につけてはいない。 「私は時間まで、となりの部屋で待ってる。質問は何も受け付けないから近づかないように。キッチンや風呂トイレは自由に使いたまえ。冷蔵庫には食べ物も入ってる」  それだけ言い終えると、福田氏はすぐに部屋から出ていく。    倫子は一人、取り残される。  とりあえず、書棚を歩いて見回していく。  膨大な量の魔法に関する書籍群。一般書店のオカルトコーナーにあるようなものは見当たらない。自費出版か、あるいは出版さえしていない文献のようなものも目につく。本棚に図書分類のラベルなどはいっさいなく、ジャンルや出版年代、五十音順などの法則性があるのかどうかさえわからない。 「片端から見ていくしかないわ」  倫子は人生を賭けた挑戦を開始する。

応援コメント
0 / 500

コメントはまだありません