光がもどったときには、初めて見る場所に立っていた。一糸まとわぬ姿で。 空は真っ暗で、夜間照明設備が地上をこうこうと照らしている。 どこかの野球場かグラウンドのよう。周囲は林になっており、さらにその先には低い山が広がっている。 少し先で、人が集まってにぎわっている。2、300人ほどもいて、みんな全裸姿だ。 倫子は近づいていき、その中にまぎれる。 カップルや友達づれが多く、和気あいあいとした雰囲気。 グラウンドの一部は、飲食物の屋台やキッチンカーで占められている。肌色率をのぞけば、まるっきり町のお祭りのようだ。 「あれは……」 グラウンド中央に15メートル四方ほどの石の舞台があり、大勢の参加者がびっしりと取り囲んでいる。 舞台の中央には玉座があり、腰かけている黒山羊の姿が小さく見える。 「次の者、上がれ」 という舞台上からの声。 周囲にいる見知らぬ大人たちがみんな、倫子に視線を向ける。興味津々の目で。 「わたし?」 そのうち名前のコールまで起こる。 「りんこ!」 「りんこ!」 「りんこ!」 「次の者、早うせい」 倫子は言われるがまま舞台にむかう。 「がんばれ!」 参加者たちは道を開けてくれ、あまつさえ声援まで送ってくれる。いったい何をがんばればいいのかさえわからないのだが……。 短い階段を上って、倫子はおずおずと舞台に上がる。 大勢の視線に晒され、さすがに全裸姿が恥ずかしくなってくるが、物怖じしている場合ではない。 「女、サタン様に臣従の礼を」 男性の澄んだおだやかな声がうながす。玉座のかたわらで黒山羊に仕えているのは大悪魔ベリトだろう。 赤い軍服を身につけ、金の冠をかぶった位の高そうな立派な軍人の姿をしている。ただ頭部が異様に大きく三頭身であるため、コミカルにも見えてしまうからややこしい。 (臣従の礼……) 倫子の頭の中には、その作法の情報が正確に入っていた。左目の下に痛みを覚えたとき、メフィストフェレスが入れてくれたのだろう。倫子は手を後ろに回してひざまずき、挨拶の文句も一字一句まちがえずに暗唱する。 「女、おまえの付き添いはどこにいる?」 「いません。一人です」 「一人でどうやってここまできた」 「自分でいろいろと調べました」 「面白い! 歓迎するぞ、若い娘はとくにな」 ここで初めて黒山羊が口を開く。 「娘、なぜ魔女になりたい?」 「それは──」 ここで説明するのか? 同級生から今も受けている屈辱的ないじめの詳細について。 「ふむ、凡庸な理由だがいいだろう」 しかしそれは杞憂に終わった。黒山羊は心が読めるらしい。 「ではおまえの適性を見せてもらおう」 (また試験……!) 倫子は身構える。何を試されるのか見当もつかない。 だが黒山羊は、肘掛けにおいていた右前足を上げて、蹄を倫子の顔に向けただけだった。 「この娘、冷酷無残にして闇を愛する者。おまえには魔女になる資格がある」 見物人たちから、パチパチと拍手が起こる。 ……どうやら合格したらしい。 「最後に、サタン様に誓いのキスを」 「はい」 倫子が返事したと同時に、黒山羊が一瞬で変身する。 油が乗り切ったころのアル・パチーノをほうふつとさせる中年男性の姿。ギラギラと精力的で、アルマーニのスーツをダンディに着こなしている。ずいぶんと現代的だ。 倫子は頬を赤く染める。急に裸が恥ずかしくなり、胸と陰部を手で隠しそうになってしまう。 サタンはエドワード・グリーンの高級靴をぬぎ、右の足先を突き出す。ごくふつうの中年男性の裸足とおなじに見える。 「はやくせんか、おみ足にじゃ」 ベリトがせっつく。 「は、はい……」 サタンは玉座に片肘をついて、ニヤニヤとなりゆきを眺めている。 倫子は四つん這いになって頭を下げ、サタンの親指の横にぎこちないしぐさで唇を触れさせる。 「私欲と混沌を愛せ。けっして善行に魔法を使うな」 「はい」 ベリトは分厚い名簿をとりだして開き、さらに舞台の床に魔法陣を浮かびあがらせる。 「その魔法陣の中に入って契約書にサインをしろ」 契約書と羽ペンを現出させる。 「はい」 魔法陣の中に入り、羽ペンを手にしようとしたそのとき── 「待て! この娘、不敬にもわしのことを畏れておらん」 (⁉) 参加者たちもザワつく。 サタンは大げさな芝居がかったゼスチャーで、 「なんという侮辱か! この娘、畏れるどころか、わしを見て欲情しおった!」 (⁉⁉⁉) いったい何を責められているのか、倫子はすぐには理解できなかった。 「娘! おまえは処女でありながら、男ならだれでも欲情する淫乱か?」 「い、いえ……」 としか返事しようがない。 「ではどうしてこんなときに、その小さな秘部を濡らしておるんだ!」 男性の参加者たちのイヤらしい笑いが耳にとどく。 「そ、そんなことは……」 頭の中がグワングワン回っている。 「まったくないと誓えるのか? わしの前で嘘なぞ通じぬぞ」 それは本当だろう。 「す、少しだけ……」 倫子は顔を熱く火照らせて答える。 「少しだけなんだ?」 「少しだけ、サタン様を目にして欲情しました」 口笛交じりの歓声が上がる。 「やはりところかまわず発情する淫乱女か! おまえは先週も風呂場で自慰行為に耽ったな。一週間で四度も!」 「は、はい……」 羞恥のあまり体がガタガタと震える。涙ぐみそうになるのを必死でこらえる。 「誰を想って快楽に耽りおった」 「そ、それは……年上の強くて頼りになる……」 「誰だ、それは? 父親か?」 「ちがいます。俳優の……ヴィゴ・モーテンセンとか……」 「その男で四度も耽ったのか? わしは? わしは一週間で何度おまえの慰み者にされるんだ?」 「そ、それは……三回くらいです」 わたしはいったい何を口走ってるんだ? 「なんだそれは? わしはその、ヴィゴとかいう男に負けてるのか? 地獄の当主であるわしが? なぜだ?」 参加者たちが静かになる。みんな倫子の答えを固唾を呑んで待っている。 「そ、それは……」 「なぜだ?」 「それは……サタン様の背がそんなに高くないから……」 参加者たちがドッと爆笑する。それから割れんばかりの拍手。 サタンはショックを受けて傷ついたという大げさなゼスチャーをして、参加者たちの盛り上がりにこたえている。まるでエンターティナーだ。 当の倫子は、まだ呆然となっている。 (なにこれ? これも試験なの?) 「ではこの契約書にサインを」 ベリト一人が、淡々と職務をこなしている。 「サインを」 「は、はい」 倫子は今度こそ羽ペンを手にしてサインする。 ベリトは魔女の名簿〈死の書〉を開いて、すみやかに倫子の名前を書き入れる。 「魔王の印をつける。髪の中なら目立たなくていいだろう」 サタンは、倫子の後頭部に軽く人差し指をあてる。
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