倫子は自分で机の落書きを消すために、今朝は少し早めに登校した。 教室にむかう途中、美月が他クラスの似たようなギャル生徒と廊下のわきで何やら盛りあがっているのを見かける。 美月が自分のスマホで動画を見せているようだ。壁を背にしているので画面は見えないが、女性の喘ぎ声らしき音声が漏れ聞こえてくる。 「うわっマジ? これ、ハードすぎない?」 他クラスのギャルは引き気味のようだ。 「めっちゃデカイっしょ、こいつ! 黒人並みだよ」 美月は大はしゃぎしており、眉を顰ひそめる倫子が目の前を通りすぎたことにも気づいていない。 (まるで豚だ) 倫子は毒づきながら、1-Cの後ろの扉にむかう。 その途中、少し開いている廊下側の窓から、教室内の様子が目に入る。 「………」 倫子の机を、千景がタオルでゴシゴシと磨いている。机上においてあるのは消毒用アルコールのボトルだろう。 そのうち作業を終えると、千景は掃除道具を持って前の扉から出ていく。 倫子はそれと入れ替わるように後ろの扉から教室に入り、自分の机を確認する。 昨日の落書きはきれいに消えていた。むしろ以前よりもピカピカになっている。 小さなメモ用紙が残されており、〝ごめんね♡〟と書かれている。 * 放課後。 倫子は校門を出ると、清廉中央駅とは反対方向にむかう。 毎週金曜日は、学校近くにあるスーパーに寄ってから帰るのが習慣になっていた。野菜と卵の特売日なのだ。往復で三十分くらいかかってしまうが、家計の節約になるならこのていどの労力はさしたることではない。 倫子はいつもの道順で、車道脇の歩道を歩く。ここは脇道らしく、自動車の往来も人通りも多くない。 そのとき、後方からパタパタと足音が近づいてくる。 「柏木ちゃ~ん!」 振りむくと、それは千景だった。 「いや~たまたま姿が見えたから。帰り道、こっちの方向じゃないっしょ」 糸目はあいかわらずだが、いつものヘラヘラ顔ではなく、今は落ち着いていてまともに見える。 「……寄るところがあるから」 「あたしもちょっと用事があるんだ。はい、これ」 千景は両手に缶ジュースを持っており、一方のいちごミルクを倫子に手わたそうとする。 「おごり。これ、超うまいよ」 「なんで?」 「落書きのおわび。消しといたからね」 「知ってるわ。あんたが描いたの?」 「いや、美月だけどさ。あいつ、ほんっとに性格悪くてバカだから。あたしも困ってんのよ」 「だったら縁を切ることね」 「そうもいかないっしょ。中学からのつきあいだからね~」 あらためて、いちごミルクをわたそうとする。 「わたし、ミルクはちょっと……」 体質的に牛乳が苦手なのだ。お腹がユルくなって。 「じゃあ、微糖のでいい? 開けたけど、まだ口つけてないから」 「ええ」 倫子は缶コーヒーを受け取り、一口飲む。冷たくて美味しい。 「暑いよね~」 千景もいちごミルクのプルタブを開け、ゴクゴクと飲む。もう夕方になろうとしているが、残暑厳しく汗ばむ陽気だ。 「柏木ちゃんってあんまりみんなと話さないよね」 「……必要ないから」 「LINEとかやってる?」 「携帯は持ってないの」 「マジで⁉ 高校生でそれヤバくない?」 飛び上がらんばかりに驚いている。 「それじゃあ、友達とどうやって連絡してんの?」 「………」 倫子はまた缶コーヒーに口をつける。友達はいないし、欲しいと思ったこともない。 「柏木ちゃん、すごいカワイイのに」 「………」 倫子は居心地悪そうな顔をする。童顔なのがコンプレックスな彼女は、「カワイイ」と褒められるのは苦手だった。 「いつもむっつりしててゼッタイ笑わないから、みんな柏木ちゃんのこと怖がってんだよね」 「……⁉」 倫子は突如、足元をフラつかせる。 「柏木ちゃん、だいじょうぶ?」 千景がサッと倫子に肩を貸し、倒れないように支える。 倫子は手にしていたコーヒー缶を路上に落とす。顔が真っ青だ。気持ち悪そうに手で口を押える。 「熱中症じゃない? 家まで送るよ。知り合いのクルマが来てるから」 それが合図であるかのように、スモークガラスの高級そうなセダンが現れて目の前に停車する。 千景はセダンの後部座席のドアを開け、 「はい、入って入って」 と倫子を彼女のスクールバッグとともに奥に押し込め、次いで自分も乗り込むとドアをバタンと閉める。 後部座席で倫子はぐったりとなり、意識を失いかけている。 「はい、義務だからね」 千景はそんな状態でもおかまいなしに、倫子のシートベルトを締める。まるで拘束具のように。 「誰かに見られなかったでしょうね?」 助手席にいるのは美月である。 「だいじょうぶだって。見られたとしても女子高生同士なんだし♪」 またいつものヘラヘラ顔にもどっている。 「おお! 写真よりカワイイじゃん!」 倫子の顔を覗き込んで喜んでいるのは、運転席にいるアラサーの男。短髪に金ネックレスに日焼け肌と一見オラオラ系だが、物腰は妙にソフトだ。 「ちっちゃいけどスタイルも良さそうだし♡」 「千景、うまいこと薬飲ましたわね。この子とほとんど絡んだことなかったのに」 「わりと楽勝だった。落書き消すとこ見せたのが効果あったみたい。けっこうあたしに気を許してしゃべってたし」 倫子がミルクを飲めないのは家庭科の授業ですでに知っていたし、金曜はこの道を通るということも調査済みだった。 「よくそんな細かい作戦考えるわ」 美月は感心というか呆れている。 「さすが千景ちゃん、策士。グッジョブだよ」 運転席の男、梅本が親指を立てる。 美月は倫子を一瞥してから、 「効き目は三時間くらいだったっけ?」 「もうちょい持つ。楽しむ時間はじゅうぶんあるよ~ん♡」 「梅っち、ハリキリすぎー(笑)」 「あ、二人とも、〝倫子ちゃんは体調くずして気分が悪くなったから、知り合いの家で介抱してあげてた〟って口裏あわせてね」 「オッケー! オッケー!」 「バレたらあたしらもヤバいからね」 美月も千景も、そんなことは百も承知といった感じだ。 「では、しゅっぱーつ!」 梅本が号令し、セダンは静かにすべり出す。
コメントはまだありません