黒兎少女
誕生編(3)

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 都心のマンションの中に隠された歪な書庫。そこには膨大な量の魔法に関する書籍群がひしめいている。 「片端から見ていくしかないわ」  倫子はその光景に圧倒されつつも、人生を賭けた挑戦を開始する。  タイトルだけではわかりづらい本が多い。魔法といっても種類は様々だ。そこから魔力を得るための悪魔召喚術に関する本を見つけ出さなくてはならない。   目次を確認し、それらしい項に目を通す。近いことに触れてはいるが、概要だけで具体的なことは書かれていないものが多い。それで時間を食ってしまう。もっと面倒なのは目次もなく、章立てさえしてないもの。そういう本に限って重要そうに見えてしまうからもどかしい。チェックし終えた本は、わかりやすいように前後逆向きにして本棚にもどす。  この調子で、あっというまに十時間が過ぎる。もう夜の八時だ。昼も食べていないからお腹が空いている。  キッチンの冷蔵庫には、食べ物も飲み物も二日分には十分すぎるほど入っている。倫子はコンビニのものらしいサンドイッチを缶コーヒーで流し込み、手早く食事をすます。  そろそろお母さんが心配する頃だろうか? いや、そんなこと考えている場合じゃない。今は正念場だ。  さらに十時間が経過する。窓がないから実感できないが、早くも翌朝になってしまったのだ。まだ全体の五分の一ほどしかチェックできていないというのに。そして成果はゼロ。夜更かしは常連だが、完徹は人生で初めてかもしれない。  恐ろしいことに、次の二十時間も似たり寄ったりだった。チェックし終えた本は全体の三分の二を越えていたが、何の成果もあげられていなかった。ひたすら蓄積していくのは疲労だけだ。本棚から本を取り出す右腕が、痛みを伴うほど重くなっている。難解な文章を矢継ぎ早に判読しなくてはならない脳にいたっては、まるで粘っこい靄がかかっているような有様だ。 「……!」  気がつくと、いつのまにか本棚にもたれて床にしゃがみ込んでいる。眠っていたのだ。掛け時計を確認すると、一時間近くも経過している。 「あと七時間……」  焦りばかりが募る。  倫子は椿たちから受けた屈辱的な仕打ちを思い出し、はらわたを煮えくり返らせ、自分を奮い立たせる。 「あ……!」  ようやく光明が見えてきたのは、残り四時間を切ったところだ。  そのものずばり、〝悪魔と契約して魔術の奥義を教わる〟という項目がある本を見つけたのだ。 「………」  勇んで読み始めるも、その内容に釈然としない。倫子も一般の書籍で目にしたことがあるような記述ばかりなのだ。これが果たして正解なのだろうか?  隣りに並んでいる書籍を開いてみると、著者も書かれた時代もまったく異なるが内容的には近いものだった。その隣りの書籍も同様だ。 「この棚の上半分ほどが、同一のジャンルなんだ」  スタートする棚をこっちからにしておけば、などと悔いてる暇はない。  倫子はこの棚の書籍を急ピッチでチェックしていく。 「これだ……!」  そしてついに正解の一冊を見つける。迷いはなかった。『黒の召喚術』というタイトル。この一冊だけ、あきらかに記述の雰囲気が違う。具体的には表現しずらいが、この本だけ、実際に見てきたことを書いたに違いないと思わせるオーラが漂っているのだ。   だが残り時間はわずか三十分。貸し出しも、メモも禁止。すべて暗記して帰らねばならない。文章の暗記に関しては問題なかった。該当する章の長さは十四ページ。そのうち一字一句覚えなくてはならないのは二ページに満たない。倫子は文章の暗記は得意だった。好きな長編小説を、いつのまにかすべて暗記してしまっていたこともある。  問題は、悪魔召喚の儀式に必須である魔法陣の挿絵も記憶しなくてはならないことだった。それもコピーしたかのように完璧にだ。基本の図形は〝円の中に五芒星〟というシンプルなものだが、五芒星の中に書き込まれている六種類もの魔術記号は、音符をデタラメに繋ぎ合わせたような複雑で抽象的なデザインなのだ。文章と絵の記憶はまったくちがう。そして倫子は絵の記憶力は凡庸だった。これをあと十五分で正確に記憶するのは、ほぼ不可能だ。               制限時間が訪れると、福田氏が倫子のリュックを持って書庫に現れる。四十八時間ぶりの再会だ。 「用事はすんだかね?」  心なしか初対面のときより顔つきは穏やかだ。 「はい」 「それはけっこう」  リュックを手渡してくれる。けっきょく、この人物は何者だったのだろう? 「ありがとうございました」  倫子は何のお礼かさえよくわからないが頭を下げ、512号室を出る。すぐに駆け出した。  マンションを出てもなお、倫子は駆け続ける。最初に目についたデパートに入り、すぐに女子トイレの個室に駆け込む。  リュックからノートとペンを取り出し、記憶を頼りにいそいで魔法陣を描いていく。やはり抽象的デザインの魔術記号は完璧には覚えきれていなかった。どうしてもあいまいな個所がある。  倫子はスカートをめくる。左の内股には、魔術記号の形の傷が三つ付いている。とくに記憶するのが困難だったものだ。まだ傷口から血は滲んでおり、痛々しい。皮膚を刻んだ倫子の右の人差し指の爪先も、まだ血で濡れている。  倫子はトイレットペーパーを便器の水で濡らして、傷跡の血を拭いてきれいにする。 「ん……!」  傷に染みて痛みでうめき声を漏らしながら、傷の形を参考にして、ノートの魔法陣を完成させる。  倫子が帰宅したときは、すでに火曜日の昼過ぎになっていた。  家に朋子はおらず、いつものように居間のテーブルに書き置きが残されている。どうやら月曜の朝から、友達と泊りがけで遊びに出かけているらしい。日曜に倫子が家に帰ってこなかったことについてはふれていない。気づきもしなかったのだろう。ちなみに留守電には、倫子の無断欠席をきつく咎める担任の矢野の伝言が入っていた。  倫子は自分の部屋のベッドに沈み込み、泥のように眠り込んだ。  

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