今日も、倫子は下校途中にスーパーで買い物をしてから帰宅する。右肩にスクールバッグ、左肩に買い物バッグを重そうにさげて。 カンカンカン── アパート〈みどり荘〉の外階段をのぼっていると、足音がよく響く。振動もすごい。どんなにゆっくり足を運んでも、全住人の部屋にまでとどいてしまう。築四十五年の安アパート故である。 鍵を取り出して202号室のドアを開け、倫子は中に入る。 「ふう……」 台所で、ようやく両肩のバッグから解放される。 となりの居間では、柏木朋子がいつものようにテレビ観賞にいそしんでいる。 「お母さん、ただいま」 「おかえり~」 朋子は女優顔負けのチャーミングな美人だが、ノーメークなうえに髪はブラシも通さずボサボサだ。こたつテーブルにはビールの空き缶と、ツマミにしたサラダ味のポッキーの空き箱が転がっている。 「お母さん、お昼は──」 「アッハッハッ!」 朋子は手を叩いて大笑いする。録画しておいたネタ見せのお笑い番組だ。 テーブルの上にはテレビ雑誌が開いており、番組表に何ヶ所も丸印を付けてチェックしてある。たいていドラマかバラエティだ。好きな番組を見逃すのを防ぐためである。 「お昼はどうしたの?」 倫子が習慣になっている質問をする。 「ピザ。シーフードの」 テレビから目を離さず、朋子がシレッとこたえる。 ゴミ箱に目をやると、たしかに宅配ピザの箱が捨ててある。 「また? 高いでしょ、あれ」 「たまにだから~。だっておいしいもん、あれ」 甘えた声でこたえる朋子の顔が少女っぽく見えるのは、内面の幼さのせいだろう。 「あと、布団は干してくれた?」 「このコンビ嫌い。つまんない」 リモコンで早送りする。 「布団は?」 「ん~、明日する。アーハッハッ!」 こんどのお笑いコンビはお気に入りだったらしい。 「お風呂掃除は?」 「あさって~。ところで夕飯はなに?」 たしか買い物も夕食を作るのも、この母親との当番制であったはずだが、いつのまにか倫子が毎日一人で行うようになっていた。 「ロールキャベツ。ひき肉が半額だったから」 「え~、ビーフシチューじゃないのぉ?」 「ダメよ、牛肉なんて高いんだから」 母一人娘一人の柏木家の家計は、慢性的に困窮していた。 朋子は健康この上ないが働く意志を持っておらず、毎日ぐうたらに過ごしているだけ。就職活動もしないから生活保護ももらえない。要するにニートなのだ。八年前に離婚して去っていった父親は、それっきり養育費どころか連絡すらもよこさない。現在はおもに朋子の両親からの仕送りで、なんとか糊口をしのいでいるありさまだ。 * 「お母さん、ちゃんと布団を敷いて寝てね」 夕食後、食器洗いを終えた倫子は、襖の片引き戸を開けて自分の部屋に入る。 大きな本棚が四台もあり、どれも書籍でびっしりと埋められている。それも漫画ではなく、女子高生の趣味とは思えない難解そうな活字本ばかりでだ。中には、洋書だけがズラッと並んでいる段もある。 本ばかりが溢れている印象だが、唯一様子がちがうのは窓際のスチールラックだろうか。上の二段には珍しい種類の観葉植物がズラッと並べられ、下の二段には様々な小物が整理されている。 五畳と広くはないが、完全に一人になれる空間を持てたことは、倫子にとってほんとうに救いだった。 倫子は学校の宿題を手早くすませると、すぐにノートパソコン(母方の祖父母に中学の入学祝いとしてもらった)を開く。 机の引き出しの奥から、真っ黒で何の表記もないUSBメモリを取り出し、コネクタに差し込む。画面には、筆記体のアルファベットの手書き文章がびっしりと表示される。時代がかっており、見るからに難解そうだ。 倫子はそれらを、ラテン語辞典やギリシア語辞典や古英語辞典を引きながら日本語に翻訳し、大学ノートに書き込んでいく。消しゴムをかけた跡や訂正した跡、それに大量のメモ書きや注釈などが小さな文字で書き込まれており、四苦八苦しているのがよくわかる。この作業が彼女の日課なのだ。 気がつくと、いつの間にか部屋のすみのほうで、灰猫のサンドルが丸まって居眠りをしている。被毛の色は、青みがかった銀色のグレー。毛並みがいいせいか、やけに風格がある。 「猫は気楽でいい……」 倫子は羨ましそうにつぶやく。 それから二時間ほど経ったろうか。パソコンの時計は23:00を表示している。 (さてと) 倫子は翻訳作業を切り上げる。今夜は別にやることがあるのだ。 画面を切り替え、1-Cのクラス集合写真を表示させる。上部の横断幕には、〝清廉女子高等学校 入学式〟とある。それをカラー印刷する。 プリンター(ネットオークションで安く競り落とした)から吐き出された印刷写真を、倫子は手にとって確認する。型落ちの機種にしては解像度は悪くない。枚数は1枚で事足りるだろう。 倫子はハサミを手にし、例のギャルコンビが写っている部分を身体のアウトラインに沿って、それぞれていねいに切り取っていく。 「梶浦美月……」 「安井千景……」 それからその裏に、彼女らのフルネームを黒い羽根ペンで書き込んでいく。楽しそうに上機嫌で。 「ゲッゲッゲッ」 すぐ近くから、蛙の鳴き声が聞こえてくる。スチールラックに昆虫用の飼育ケースがおいてあり、活きのいいヒキガエルが一匹入っているのだ。 「あとは──」 引き出しから、袋入りのビーズ状の蜜蝋を取り出す。精製度の高い白色のもので、溶かしてハンドクリームやアロマキャンドルを作ったりするものだ。
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