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1.― JIU WEI ―  友達と昼食を済ませた後の事だった。今でも鮮明に覚えている。  一流揃いの国立小学校だった。サイキックは何かと優遇され、目の届く場所に置 かれるのは、後で知った。  歩いていけない芝の上を、よろよろ歩いて向かって来た。涙を拭う制服は泥だら けで肩の辺りは破れてしまっていた。  六人がかり、日本人の血が混じった出来損ない。連中はジャラだけでなく、私と 母も含めて蔑んだそうだ。嗚咽交じりに必死に話すジャラを抱き締めてあげた。  母にも、父にもよく言われていた。私とジャラの性格が逆だったら良かったのに と。女らしく、男らしく。  気弱で甘えん坊だった弟のジャラ。可愛くて愛おしくて、姉として守ってあげな ければと常に思っていた。  今でも鮮明に覚えている。私が初めて念動力を――人に向けた日だった。 「ユーチェン、ユーチェン……」 「お母さ……彩子さん」 「可愛いミステイクね。でもそろそろ起きないと……」  やはり夢だったか。ジャラと彩子さんの顔が重なって見える様な気がしたが、子 供がやりそうな言い間違いで、一気に目が覚めた。壁時計を見ると、間もなく十時 になろうとしていた。浅かったが、それなりに眠れたようだ。  あの後、手に入った情報を確認する途中で力尽きる様に眠ってしまった。  酷い有り様だ。その場に脱ぎ捨てた黒衣、着替えもせずそのままの姿だった。身 体中ベタついてるし、オートマタ共のオイルと硝煙の臭いが染み付いている。  彩子さんは薄着で石鹸の香りがしていた。やるべき事は沢山あるが、先ずはシャ ワーを浴びないと。  何故だろう、無性に胸が痛かった。久し振りに見た弟の顔と目の前の現実が胸の 奥底を締め付けている様な苦しさがあった。途方もない不安に息苦しさを感じてい た。 「CrackerImpから連絡は?」  両目を擦りながら彩子さんに尋ねる。  脳裏に浮かぶ化粧っ気のあるポルノデーモンの顔。あの人がハッカーのCrac kerImpだったなんて。  アクアセンタービルでは、殺し屋の男に担がれた姿で顔を見ていない。見覚えの あるスカジャンの柄だけだった。  鵜飼の話ではコンピューターやその類いに直接侵入できるサイボーグだと言って いた。そんな真似ができる人間が、本当にいるのだろうか。  何一つ実感の持てない気分だ。CrackerImpの事も昨日の事も。現実味 が薄く感じられる。  しかし、テーブルに置いたパソコンのモニターには、海楼商事の黒いデータの数 々が表示してある。――全て現実であると突き付けていた。  密輸品に関する詳細な報告書や指示書の記録。関与する子会社や組織の名前が惜 しみなくリスト化され。何時、何処でどんな人が密輸され日本へ来たのかもしっか り記録されていた。  シャワーを浴びたくて立ち上がろうとするが、つい画面を見て開いていないファ イルに手を出してしまう。 「暗号化されたデータを解析した更新版が送信されていた。彼はとりあえず無事な 様ね……」  あれから半日も経ってないのに、CrackerImpは完璧なものを仕上げて 再送信してきたのか。 「よかった……」  何度、ダイレクトメールを送っても返って来なかったが、これでCracker Impの無事を確認できた。心配事の一つが溜息と共に吐き出される。  鵜飼は早い段階から“組合”と言う組織の殺し屋を認識していた。殺し屋は荒神 会の幹部暗殺を請け負っていた。そして、そのヤクザ組織と何らかの関わりがあっ たCrackerImp。  ハッカーと殺し屋、この二人が荒神会やその裏の海楼商事の重要な情報を握って ると鵜飼は睨んでいたらしい。  鵜飼が殺し屋を監視していた矢先に、海楼商事の手の者とされる連中の襲撃に遭 ったそうだ。CrackerImpは敵に捕まり、殺し屋は救出、鵜飼は追跡。  そのまま中枢へ攻め込んで結果的には海楼商事の全てのデータ奪い取る事に成功 した。鵜飼らしからぬ迂闊な行動に思える。あの二人に焚き付けられでもしたのだ ろうか。  私達は蚊帳の外だったが、鵜飼に仕掛けた発信器の動きでアクアセンタービル前 まで来ていてオートマタに襲われた。あのビルであれだけ暴れ回っていれば、外の オートマタも穏やかじゃないのも無理ない。その点はとんだとばっちりだ。  しかし、結果的に三人が目的を果たし、私は全員を無事に脱出させる事に成功し た。一人でも欠けていれば、この結果にはならなかった筈だ。  私の見立てが甘かったのだろうか。ここまで大きな事に発展してしまうとは。い や、それだけ大きな事に私の家族は巻き込まれていたんだ。 「まさか、貴方が輝紫桜町の“ポルノデーモン”と知り合いだったなんて」 「知ってたんですか?」 「警察には、あの街に特化した要注意人物リストがある。随分前からその名前はリ ストに載っていた。亜細亜系マフィア“ナバン”のボスと関係があるとされる男娼 で、輝紫桜町のセックスワーカーの中でもトップクラス。傷害やドラッグ絡みの逮 捕歴が多少あるぐらいだけど、今でもあの街で知れた名だと言う事は、真っ当には 程遠い存在だね」  どうして、そんな酷い事を言うのか。彩子さんらしくない、決め付ける様な物言 いだった。歓楽街なんて、何処もそれなりに治安は悪いものだ。  何度となく輝紫桜町には近づかないようにと彩子さんから忠告を受けていた。過 剰と思える程。 「昔、輝紫桜町で戦争の様な暴動が起きた。その原因を作ったのが“ナバン”だっ た。警察は輝紫桜町を封鎖して傍観する事しか出来なかった」  戦争と言う表現はおそらく誇張ではなく、本当の事なんだろう。彩子さんの目は 当時を映し出している様に思えた。  この国に来て間もない私には、輝紫桜町は、叔父と過ごした香港の歓楽街にどこ か似ている所。その程度の認識しかない。  そして私に新しい価値観を教えてくれた場所だ。その人が命懸けで私の為に戦い 傷付いた。そして今だって。――紛れもない事実なのに。 「あの街は地獄。そこに長く留まっている人達は……」 「もう、いいです……」  テーブルに転がっているミネラルウォーターを一気に飲み干した。  CrackerImpは輝紫桜町の人間だから危険な存在。彩子さんはそう言い たいのだろうけど、容易く受け入れられなかった。  彩子さんは知らないんだ、掃き溜めみたいな世界で生きていくしかない人々がい る事を。誰も望んじゃいない。でもそれしか道がない事もある。  叔父がそうだった。そして家族を失った子供の私だって。 「そんな男が腕利きのハッカー、CrackerImpとはね……。あの街を根城 にしているのなら、簡単には見付らない訳だ」 「もう、関わるべきではないと?」 「彼は役目は果たした。ここで止めておいた方がいい」  日本に来て彩子さんと合流した日。CrackerImpとはここまでだと思っ た。既に充分な情報をもらっていたから。  でも、CrackerImpは自ら調査の続行を申し出た。その時は単に物好き か、お人好しか、その程度の印象だった。  あの街で、ポルノデーモンが男達に襲われかけた私を助けた時に言った言葉が今 は頭の中で繰り返される。――輝紫桜町では“助けたら終いまで”と。  その時の言葉が、こんなにも重く眩しく感じられる。  ここまでやれる人間が他にいるだろうか。今更、ご苦労様の一言で終われる訳が ない。 「良い人です、ポルノデーモンもCrackerImpも」  腰を上げて軽く背伸びをする。彩子さんの表情は険しかった。  自覚している。反抗的な態度を取っているし、睨みこそしないが、彩子さんを見 る目も穏やかものじゃない。  自分でも何故こんなにムキになっているのか分からなかった。ただ、何だか悔し いのだ。あの人には白とか黒とか、善や悪なんて安っぽい事じゃ表せない、複雑で 繊細な心を頭ごなしに否定されるのが。 「例え良い人であっても、輝紫桜町の人間なら必ず何かを抱えている。油断はでき ない。それに“組合”って組織も相当厄介だ。世界中の犯罪組織や政治組織の裏に 潜んで暗躍する、まさに世界の裏そのもの……」  何よりも彩子さんから、ここまで否定的な言葉が出てくるのが苦しい。Crac kerImpも彩子さんも、私にとって同じ頼れる仲間だと認識していたのに。  私と彩子さんの間にズレがあった事が、苦しい。  彩子さんはここで刑事として街を見てきた。だからこそ輝紫桜町の事を警戒して いる。姿の見えないハッカーだって勿論、犯罪者だ。  だから仕方のない事だと理解できるけど、それでも苦しかった。 「そんな組織の人間と彼が繋がっているのなら、良い人って事だけでは済まされな いの、貴方は……」 「関係ない!」  どうして。どうして、こんなにも気が晴れないのか。重苦しい靄の様なものに身 体が押し潰されそうだ。  CrackerImpが、探し求めていた答えを手に入れてくれた。絶望的と言 う言葉を何度となく拒み続けて遂に――弟の居場所が分かったんだ。  どんな所で、どんな風に過ごしているのかも、おおよその見当も付いた。  あと一歩という所まで辿り着いた。しかし、これは。 「何処の誰だろうと、ジャラの為に戦ってくれるのなら、私は気にしない」 「ユーチェン……」  あと一歩、その先にいるであろう弟のジャラを救うと言う時に、敵とか味方、輝 紫桜町や組織や行政とか。そんな事を言ってる時じゃないのに。  何故、私達は心以外のところで隔たり、見誤り、理解を遮られるのだろう。 「警察も国家も父方の親戚も施設も、誰一人助けてくれなかった……。助けてくれ たのは、叔父とCrackerImpだけだった。それに鵜飼も。あの“組合”の 殺し屋だって彼を必死に守っていた。地獄に堕ちたはぐれ者であっても、あの二人 は私の味方です」  正確に言うなら、味方であってもらわないと困るだ。危うく不安定に思える状況 であっても、乗り越える必要がある。でも、どうすれば。  彩子さんの肩に触れて項垂れる。お願いです、どうか私を拒まないで。  私独りでは、どうすればいいか分からない。 「でも、彩子さんが味方でいてくれないと、私……」 「ユーチェン、ごめんね」  彩子さんが私の事を心配してくれる心は紛れもなく本物だった。もし、置かれた 状況が違うのなら、素直に受け止める事だって出来たかもしれない。こんなに焦っ たりもしない。  最も傍にいて、頼りになる人に拒まれ、信じたい人達への想いが揺らめき、不安 と恐怖に曝されている。どうすればいいんだ。 「何時だって、私は貴方の味方よ、他の誰よりも」  彩子さんが強く抱き締めてくる。私も抱き返した。女同士で、と言う野暮な感情 を振り払う。  始めの頃はフランクに接して肌に触れてくる彩子さんには、度々たじろいでいた が、今はそれが心地好かった。甘えなのかもしれない。  人肌の温もりを、叔父に求められなかった。私を身内の異性として尊重してくれ ていた。  今はもう、どうでもいい。柔らかく暖かい肌に触れていたかった。 「でも、現実を正しく見極める事も必要なの。例え個人同士の思いが同じであって も、外野がそれを邪魔する事もある。体よく利用して奪う事も……。だから貴方も しっかり身構えていて欲しいの。分かるね?」  そうか、彩子さんも不安なんだ。私達は今、現実味を帯びてきた弟の救出。それ がいかに困難で危険な事かを実感し始めている。  CrackerImpに弟の居場所を突き止め欲しいと頼んだ頃、日本にやって 来た時、私はどんな未来を想定していたのだろうか。  どんな障害が立ちはだかっても、鋼鉄の九尾を以て全て薙ぎ払ってやる。サイキ ックとして、持てる力の全てを出し切る。なんて幼稚な――自惚れだろうか。  今は予想だにしなかった現実を目の当たりにし、勢い任せの精神論は型崩れの砂 山の様にボロボロと剥がれ落ちていく。私の弟は今、想像し難い程の恐ろしい所に いるのだ。  この国に来て、随分戦って来た。いずれも苦戦ばかり、忍者や戦闘用大型オート マタにサイボーグ。  この小さな島国で、恐ろしいものが形成されている。――私達も含めて。  CrackerImpがもたらした答え。それは余りにも大きくて、私と彩子さ んに重くのしかかっていた。 「さ、シャワー浴びてきて。準備したら行くよ」 「行くって、何処へ?」  両肩をパンと叩かれ彩子さんが離れていく。テーブルに置いてある、くしゃくし ゃになった煙草の箱に手を伸ばした。 「今度は二人で氷野市長と直接話す。もう有耶無耶にはしないし、出来ない。何が なんでも味方になってもらう……」  CrackerImpから連絡がない現状では、それしか出来る事はないか。  鵜飼と行政機関から、何らかのサポートを得られるのなら、この不安は解消され るだろうか。いや、だとしても――足りない。  ジャラを取り囲む、その場所と環境では、私と彩子さん、鵜飼ではとても足りな い。かと言って数の問題でもない。  依然、不安ばかりがのしかかって来る。一体、どうすれば。  浴室の扉を開けると、ふわりと温かくて湿り目を感じた。彩子さんが数分前まで 使用していたのが分かる。  ガルーシャのボトムスを脱いで、インナーに手をかける時に目に入る、鏡越しの 自分から目を背けてしまった。情けなくて無力な自分なんか、見たくもない。  こんな筈じゃなかった。彼が全ての答えを手に入れてくれた時は、きっと喜んで いる筈だったのに。  CrackerImp、ポルノデーモン。貴方に今すぐ会いたい。私達ではどう する事も出来ない忌々しい煩悶を、貴方ならどうやって切り抜けるの。

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