「どうした?」 「別に……さっと飲めよ、あとこれも吸って」 レクサプロとミネラルウォーターを鉄志に渡し、電子タバコにリキッドのカート リッジをはめ込んだ。 呼吸はすっかり落ち着いているが、見るからに疲労困憊の体だった。不眠症から の疲労もあるのだろう。 「俺は大麻はやら……」 「ビビってないで吸えよ! こんな物、ほとんどの国じゃ合法だし」 ホント苛々する。マリファナだろうと、ハードドラッグだろうと、やってない自 分は御大層な存在で、やってる奴等は弱いヤツみたいな雰囲気。こっちだって好き 好んで覚えた訳じゃない。 サイドブレーキを外して、慎重に車を出す。ここから少し行った所の居住地に公 園がある。そこの道路なら人気も少ないし、長い時間路駐してても問題なかった。 鉄志は錠剤を水で流し込むだけでなく、そのまま半分以上を飲み干した。 「あの店で何かあったのか?」 横目に鉄志を見ると、真っ直ぐこちらを見つめている。もしかして、本気で心配 されてるのか。 「ごめん、ちょっとね。苛付いてもしょうがないよね……」 溜息が漏れるが、今は鉄志の事を優先してあげないと。気を揉ませては負担にな るだけだ。 今は自分の事は考えないで、鉄志の事を考えないと。 「すまなかった……。情けないところを見せてしまったな」 「やっぱり、戦争体験からなの?」 「日本に帰って来てから、少しづつな……」 その少しの段階で、向き合う事が出来ればよかったのにと思うが、心の何処かで 自分は違うって拒んで、うやむやに時を過ごす感じは俺にも経験があった。 自分を見つめると言う行為は、ある種の拷問に近い行為。環境や他者を責めても 解決しないし、かと言って自分が悪いと結論付ければ、自己嫌悪に陥る。どっちも 苦痛でしかない。 鉄志が窓を開ける、ノンフレーバーなリキッドから大麻の臭いが漂う。やっぱり 苦手な臭いだ。 俺の場合はもっとリスキーで飛べるヤツを先に覚えてしまったので、マリファナ には興味が沸かなかった。――悔やまれる事だな。 公園沿いの歩道へ車を幅寄せして、エンジンを切った。 四、五階建て灰色のボロマンションに囲まれた小さな公園からは、子供達の騒ぎ 声が鳴り響いている。託児所の子供達、そのほとんどがセックスワーカーの親を持 つ子供達だった。 鉄志はその事を知る筈もなく、夢中になってはしゃぎまわる子供達を眺めながら 真っ白な煙を吐き出した。何となくだが、その目からは懐かしんでいる様な雰囲気 を感じ取る。 遠くを見つめる鋭くも生気のない目。俺の好みってこんな感じだったろうか。好 きになった人の遍歴を調べても、該当はない。 それでもやっぱり、鉄志は格好いい人だなと見惚れてしまう。無視できない存在 だった。 「お前、随分慣れた感じで対処してくれたな」 「心的外傷後ストレス障害。この街のHOEには虐待やレイプ被害のある子も多い からね。似た様な症状の人達を沢山見て来た。元気になったかなって安心した矢先 に、衝動に駆られて自殺した子もいる。人間なんて、大概“鬱”だよ」 身も心も擦り減らし、トラウマに苛まれ、現実と悪夢の区別もつけられなくなっ ていく。死にたいのか生きたいのかの本心や判断すら曖昧になる様な。 明日は我が身。今でもそう思いながら生きている。 「お前も経験が?」 「一ヶ月、外にも出れず、何も出来なかった。考え事をすれば、クソみたいに悪い 方向ばかりに向く。それだけでもかなり辛かった」 車のドアに腕をかけ、鉄志とは反対の方へ視線を移し顔を背ける。 正式に鬱病だと言われた時は、とうとう来たか。そんな感じだった。違うと拒む 気力もなかったし、かと言って安堵もなかった。 「どうやって立ち直った?」 「立ち直ってなんかないよ、似た様な事を繰り返していく……。だから鉄志さんも 気負わずに焦らない方がいい」 軽い鬱病だったんだと、今ならそれも経験として受け入れる事が出来る。同時に 二度となりたくない言う恐怖も持っていた。 時々、脱力感や気力が湧かなくなって、時間を浪費してしまったと思う時が一番 恐ろしかった。――また、生き地獄が始まるのかなと。 ふと、鬱に鬱を重ねる様な会話に違和感を覚えた。鉄志の話を聞きつつ、気を紛 らす様な方向にしたいのに、何をベラベラと自分の話をしているんだ。鉄志の方が 俺の鬱より遥かに重症なのに。俺も鉄志もシケた者同士だ。 「そう言えば俺が鬱だった時、クラブに誘われて何となく気が向いたから行ってた んだ。酒煽ってヤクキメて、知り合った子とセックスして、そしたら少し気が晴れ て、それから持ち直しったっけ……」 あの時、外に出られなかった分、ハッカーの仕事はそれなりにこなしていた。そ の中には中葉のケツ持ちの依頼もあった。 アイツの望む情報を渡して、金をもらった時だった。俺の顔色の悪さを案じたの か、中葉は“サクラ・トラップ”が経営するクラブに俺を連れ出した。始めは断っ たが、奴の仲間連中と共に半ば強制的に連れていかれた。 何がキッカケになるかなんて分からないが、結果的に俺は持ち直せた。ろくなも んじゃないよな。酒、ドラッグ、セックスと輝紫桜町の三拍子だ。 案の定、鉄志は俺の話に訝し気に睨んでいたが、このまま下らない話を続けるの も悪くないかもしれない。 「そうだよ、その手があるじゃん!」 声の調子を少し上げて、鉄志の方を見る。 「鉄志さん、今すぐホテルいかない? 二、三発ヤったら気が晴れるかも。遊ぼう よ、精一杯ご奉仕してあげるよ」 ホント、自分が嫌になるよね。でも欲求には抗えないから。俺にできる事は情報 を盗む事と、身体を他人へ委ねる事。それが取り柄だ。追い求めるだけ。 助手席へ少し身を乗り出し、鉄志に迫る。こんな提案に鉄志が乗る訳ないなんて 百も承知だよ。でも俺は何時も心の奥底では本気だった。でなきゃ輝紫桜町でセッ クスを売り物にはできない。 夜の事を考えれば、そんな事してる場合じゃないけど、ひょっとしたらと期待が 芽生えてきた。 「お前、ホントお構いなしだな……。そんな事で気が晴れるか、そもそも、俺が男 とする訳ないだろ、馬鹿も休み休み言え」 芽生えた期待は、あっという間に枯れてしまう。まあ、そんなもんだよね。 予想通り、呆れてウンザリした表情をしている。でも声のトーンが僅かに上がっ ていた。俺の気持ちは別として、このまま押してみるのも悪くないかも。 「えぇ、別にいいじゃん。そんなクソダルい事に拘るだけ損だよ、楽しませてやる ぜ、俺はこの街一番のHOEなんだ。俺は気にしないよ、相手がどんな人でも、良 い人なら大歓迎さ」 「安っぽい事言うな、男とやる趣味なんてない」 磁石の反発の様に、鉄志は近づくと近づいた分、離れていった。 やっぱり輝紫桜町の外にいるストレートなんて、そんなものか。でも、俺はこん な事では引き下がらない。 息を殺し、身を潜めていた十代。自分を探し求めて、やっと見つけた自分を弾か れた二十代と。春斗程じゃないけど、それなりに打たれ強くなっているんだ。 「“オトコ”とやる趣味は持たなくていいよ、俺の事見て判断してよ」 「馬鹿が! 絶対にごめんだ!」 照れなのか、本当にキレたか、鉄志がドアを開けて外へ出た。動いてる鉄志を見 るのは、今日は初めてだった。――少し元気になったかな。 シートに凭れて、天井を見つめる。やっぱり、拒まれると少し傷付くな。 所謂、ノンケだとかホモフォビアだと分かってる連中をからかって毒づかれても 何も感じないし、楽しいぐらいなのに。純粋に自分の事を見て欲しい相手に、性別 とかセクシュアルで隔たれると、何だか悔しくなる。 鉄志は車に寄りかかってリキッドを吸っていた。この場を離れて会話を断ち切っ て、その後はどうする気なのか。結局、何か話さないと先に進めないのに。 見え透いているな。俺がああ言われても引き下がらないって知っているから、俺 が何か言うのを待っているんだ。――クールな様で実は不器用な奴。 煙草を取り出し、車から降りて反対に回り込み、鉄志の隣に強引に凭れる。こち らを見る鉄志などお構いなしに煙草に火を着け、一筋の煙を空へ飛ばした。 「はぁ……なんかここまで拒絶されると、流石にヘコむ。鉄志さんにとって、俺っ てそんなに魅力ない? 結構“全方向”にモテるんだけどなぁ……」 横目に鉄志を見つめると、ばつが悪そうに目を合わせる。この際だから鉄志の目 をじっと見つめた、その奥にある何か感じ取りたくて。 死んだ様な目をしている。仕事の事と、後は薄っぺらい会話ばかりを重ねて、本 当に見るべきものをお互い見ていなかったんだなって、ここに来て痛感した。 「綺麗だよ、お前は……」 知ってる。そう思われる様に着飾っているし、ガキの頃から容姿には評判が良か った。そしてそれを、ずっと武器にして生きている。その度に――自分が嫌いにな るんだ。 「気立ても良いし、頭も切れる。俺の相棒としては勿体ないぐらい優秀だよ。でも それとこれは別だ……」 視線を公園で遊ぶ子供達に戻して、リキッドを吸い込む。そこまで良く言ってく れるなら、全然オーケーだと思うのに。拘るところかな、性別なんて。 って、俺の理屈を無理にはめ込むのも勝手なんだって事は分かってるけど、やっ ぱり納得できない。 「“ナバン”にいた頃。シオンはよく海外から権力者を輝紫桜町に招いてはもてな していた。そういう人脈で組織はどんどんデカくなっていく。時にはどっかの国の 軍隊ごと招く事もあってね、“ナバン”のHOE達は全員駆り出されて、ご奉仕す るのさ」 不意に思い出した昔話を鉄志に話した。鉄志も兵士だ、その手の経験ぐらいはあ るだろうけど、輝紫桜町でやってたヤツは強烈だった。最強にエゲつない欲望が渦 巻いた酒池肉林の地獄絵図。鉄志に詳細を話したら、ぶっ倒れるかもな。 「初めて会った時は、瞬き一つしない死んだ目をしていても、身体を通して心に触 れてやると、結構生き返るもんだぜ。鉄志さんは下衆だって思ってるかも知れない けど、どんな関係でも抱き合えば情の一つや二つ、沸いてくるもんさ」 俺にとってセックスって行為は、強制から始まった嫌悪の対象だったけど、それ しか選択肢がないなりにも、色んな事を学んだし経験した。金ありきの関係であっ ても、決してネガティブなものだけじゃない。そう、信じたいだけかもしれないけ ど。 「俺は特にそういうタイプなんだ。安っぽい提案なんかじゃない。鉄志さんの助け になってあげたいだけだよ……。俺には出来るんだから……」 煙草を捨てて、鉄志の前に立って左頬に触れた。右手から低めの体温が伝わって きた。背の高い鉄志の目を見つめる為に上目遣いになる。この身長差は、凄くベス トな位置関係だった。客ならこれでイチコロなのにな。 嗚呼、ヤバいなコレ。厄介な事に、そんな舐めた思考も押し負けてしまうぐらい の高鳴りが襲い掛かって来る。 鉄志の為とか言いながら、俺は俺で求めている。――身勝手に。 「自分を慰み者みたいに言うな……」 意外にも、頬に触れた手は払いのける事もなく、握り返されてしまった。哀れみ とは違う、鉄志の眼差しに心が打ち震えている様な感覚に陥る。と言うかこのまま だと本当に震えてしまいそうだった。 「真面目だね鉄志さんは、行き場のないヤツが最後に流れ着くのが、この輝紫桜町 って名の地獄さ。空を見上げる事も忘れ、底のない底を覗くだけ……。目先の快楽 に溺れて愉しんだヤツの勝ち。ほんの火遊びだろ?」 もう少し手を握ったままでいたかったけど、その手を外し踵を返す。軽口を叩き 頭の後ろで手を組んで、公園と高層ビルに囲まれた灰色の空を眺める体になる。 鉄志に悟られない様、小さく深呼吸をしながら。 「その火遊びで、身も心も擦り減ってるじゃないか。本当にそれでいいのか?」 「擦り減る夜もあれば、満たされる夜もあるさ。何て言うのかな……続ける理由は なくなったけど、止める理由が見つからないんだよね……」 そしてここに来て、また本音が漏れてしまう。だが今となっては、止めれない状 態である。一向に金は貯まらないどころか、差し迫って金が必要な始末だ。 結局、俺は輝紫桜町の貧乏なHOEなんだ。昔は変われると思っていた、この生 き方は俺が望んでいないものだから、何時か抜け出してやると。ところが何時の間 にか本質そのものが、それに染まってしまっていた。 最近、気づいた事だ。身体を売る事も、電子空間から盗み取る事も、俺の本質だ から。他の者にはなれる訳ない。そう思う様になっていたのだと。 「全く、心配してやってるのに甲斐のない奴だ」 鉄志は俺に何を期待しているのだろうか。気遣ってくれるのは嬉しいけど、だか らって何か出来る訳でもないのに。 言葉なんて幾らでも、何とでも言える薄っぺらいものだよ。本当に俺が欲しいも のは言葉なんかじゃない。 「世話の焼けるアンタに言われたくないね。“メンタル雑魚・キラー”さん」 振り向いて鉄志に言ってやった。 「雑魚って……。その雑魚に頼ってるのは誰だ? “チンピラ美人”め」 「それ貶してるの? 褒めてるの?」 「知るか」 下らない罵り合い。鉄志の口から飛び出した“チンピラ美人”は傑作だな。お 互いに変な事を言い合ってると認識して、ヘラヘラと笑い合う。 笑う余裕があるなら上等だった。鉄志はきっと、大丈夫だと思う。 「ところで、こんな時に聞いて悪いけど、明日はどうする?」 「やるさ、中止も延期もしない……。効いてきたかな? ぼうとしてきた……」 空を見上げて、少しフラフラしてたが、鉄志は決行と即答して見せた。その言葉 を俺は信じるしかなかった。 鉄志がいれば百人力だとか、無敵だとか甘く考えていたが、そうも言っていられ ないな。かと言って、プロを相手に俺に出来る事はたかが知れている。街のチンピ ラや酔っ払いを蹴り倒すのとは訳が違う。今後は俺も、常に銃を携帯しておこう。 「結構、落ち着くだろ。しばらくここで休んでから、運転した方がいい。薬は病院 で処方される物よりやや強めに調合されているから併用はせずに、レクサプロ以外 は必要を感じた時に飲みなよ、デパスは眠剤としては優秀だよ」 鉄志の肩をポンと叩いて、その場を去る事にした。 「何処へ行く?」 「中央区に戻るんだよ、バイク取りに行かないと」 地下鉄を使って中央区へ、バイクでとんぼ返りして準備すれば夜には間に合う。 乗り気じゃないがマッチングアプリのアカウントも解放して、客を呼び寄せる様 にしておかないと。確実に稼ぐならそれしかないが、また乗っ取られて、クソみた いな客をマッチングさせて来るかもしれない。 それでもいい、やるしかないんだ。腹を決めて、今夜からノンストップで突き進 んでやる。 「すまなかったな」 呼び止める様に鉄志の声が響く。立ち止まるけど、振り向けなかった。 「助けたら終いまで。ってヤツさ、と言ってもまだ終わってないけどね……」 少し早歩きで鉄志から離れていく。最近ではこの瞬間がとてつもなくキツイ。 ハッカーと殺し屋。意義のある行いを鉄志と一緒に考え、話し合い、共有し合う 時間。この数年、得る事のなかった充実感だった。 そして夜は現実に引き戻されるのだ。この大歓楽街の粋がったHOEである自分 に、誰もが求めて止まないポルノデーモンに。――孤独な蓮夢に。 その事実を、あとどれぐらい受け入れる事が出来るのか。いや、受け入れなきゃ いけない。 何故なら、俺の抱いている感情には――破滅が目に見えている。
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