2.― KOGA LIU ― ――なんで、こんな奴が! こんな、こんなホモ野郎なんかが! ――俺の方が優れてる! こんな奴なんかより! 俺の方が! 腹の底に溜まった息を全て吐き出し、ゆっくりと吸い込んでいく。これ以上はよ そう、気を落ち着けるどころか――悪い事を深く、もっと思い出す事になる。 それでは瞑想の意味がない。両目を開き、カーテンの隙間から差し掛かる鋭い朝 日を見つめた。 五時五十五分。思っていたより長く瞑想していた様だ。夜明け前に始めて夜明け 頃に終えるのが日課である。 組んだ足を解き、畳に身を放る。“里”にいた頃の習慣は中々抜けない。不規則 な生活であっても、四時ぐらいには目が覚めてしまう。 一世紀前なら、俗世に紛れて生活していた各流派の忍者だったが、混乱の世に紛 れて、各地に隔離されたコミュニティを作っていった。 それ以降の世代の忍者達は、あらゆる実戦にも耐え得るだけの業と技術こそ持っ ているが、浮世離れは免れなかった。 俺もその中の一人で、今だに苦戦している。特に他人との関りが、これ程にも難 しく、とにかく煩わしい。一欠けらも共感できない相手の価値観と、何よりも自分 の話が出来ないと言うもどかしさ。 これだけ情報化された世の中で、充分な対策も用意していたのに、いざ実践して みると、人付き合いと言う物が、こんなにも複雑な物だったと、痛感していた。 特に最近は、思う所が多い。輝紫桜町に出入りしているせいもある。 変に意識し過ぎているのもあるが、人間の種類が多過ぎる。人種の坩堝、あやふ やな性別。浮ついた顔が溢れるその奥で、鋭く強張った顔がいる。そして常に何か に見られている様な感覚。 定期的に氷野市長に連絡をするのも憂鬱だった。自分の失言とやらのせいもある が、普通じゃない性癖を持っていると知ってしまうと、この先どんな顔で会えばい いのか、まともなコミュニケーションだって、ままならないと言うのに。 それを忘れようと仕事に集中しようとしても、その仕事先が輝紫桜町。悪循環か ら抜け出せない。 起き上がって台所にある炊飯器のスイッチを入れる。流し台の傍に置いている木 製ケースから、甲賀の妙薬を一粒、口に含み、水道の水を手の平にすくって一口飲 んだ。 古くから伝わる甲賀流の筋肉増強剤である。化学合成した薬品に匹敵する程の効 果を誇るが、こちらの方が身体への負担は少ない。一時間ほどロードワークをこな して朝飯を済まそう。 部屋のドアを開き、静かに鍵を閉める。壁の薄いオンボロの団地、この時間帯は ほとんどがまだ寝ている。つまらない苦情は御免だ。 氷野市長からは、もう少し小ざっぱりした市営マンションも提案されたが、此処 は全体的に和室が多いので、気に入っていた。それに貯金も貯まる。 便利な物は身に付ける物で充分に足りる。身の回りは、古風な方が落ち着く。 今夜もまた、それとは無縁のあの街へ赴く事になる。やはり気が重い。 役所のつまらない備品管理の日々と、歓楽街で遊びながら情報を掻き集める日々 と。どっちが楽しいと問えば、多くの場合は後者になるのだろうけど。俺は相も変 わらず、この街の雰囲気に慣れる事が出来なかった。ケバケバしい赤紫の光と、感 覚を麻痺させる程の喧騒。いるだけで疲れて来る。 しかし、そうも言っていられない。この街には確実にお目当ての目標が存在して いる。“組合”の殺し屋、そしてハッカーのクラッカーインプだ。 数日前の夜、林組の事務所跡でリンチにされた林組の構成員、そして荒神会のヤ クザ共。それだけなら楽な話だった。荒神会のヤクザ共を締め上げればいいだけの 事だ。 ところが、ヤクザ共を尾行してみれば、次々と想定外の事が起きた。 クラッカーインプの別の姿、この輝紫桜町の男娼である通称ポルノデーモン。 結果的に荒神会がその男を抑えたので、見つける手間が省けたと思ったが、それ から間もなく、何者かが荒神会のヤクザ共に襲い掛かり、更に騒ぎに駆け付けた警 察のロボットまで加わって混戦状態に陥った。 その立ち回りを見て、すぐに理解した。“組合”の殺し屋だと。 手練れとは分かっていたが、“組合”の殺し屋には圧倒された。武装したヤクザ も防弾仕様のロボットもお構いなしで、蹴散らしていった。その正確無比な射撃と 身のこなしには見惚れるばかりであった。 その後、その場を逃走したクラッカーインプの追跡も見事だった。しかし、殺し 屋はクラッカーインプを追い詰めた所で、また想定外の事が起こった。 予定では、俺が間に入って双方を制しようと思っていたが、殺し屋はクラッカー インプを見逃し、その場を去ったのだ。 一体どんな会話をしていたのか、遠目にもクラッカーインプがよく喋っている様 に見えたが、たかが男娼ごときがプロの殺し屋を上手く丸め込んだとでもいうのだ ろうか。 それからは、流石の警察も動かざるを得なかったようで、街中大騒ぎになってし まった。俺の出る幕はない。 それからは的を絞り、ポルノデーモン一点に集中する事にした。男娼なんかを追 いかけ回すのは趣味じゃないが、仕事だから仕方ない。 この数日は、輝紫桜町で最も名の知れたポルノデーモンの調査に費やしている。 軽く聞き回るだけで、結構な情報が手に入った。この目の前の無料案内所も、そ の一つだ。如何にもな雰囲気、品のない店構えをしている。 意を決して店の中に入ると、店内は意外にも落ち着いた雰囲気だった。入口の辺 りは飲み屋や飲食店、そして奥に進むにつれて風俗店とそこで働く連中の顔写真が お目見えする。男女問わず色気に富んだ写真の数々、目のやり場に困るキツい空間 だった。 店の更に奥に、ポルノデーモンの写真が他より大きく飾ってあった。悪魔の名に 相応しい、ゴシックでグロテスクな額縁には、豪華絢爛な背景の中央で裸同然の男 がポーズを決めて写っていた。下には筆記体でポルノデーモンと綴られている。 その体は滑らかな曲線で華奢ではあるが、紛れもなく男の身体だった。人気と言 われるだけあって、顔立ちは美形と言う表現が一番合う。化粧っけのある目に特徴 がある。暗紫色の中でもハッキリした真っ赤な瞳孔の左目。義眼かカラーコンタク トか。男とも女とも違う独特な妖艶さ。 それにしても、気に食わない表情をしている。薄ら笑を浮かべ、愛想など欠片も なく、挑発的で小生意気に思えた。俺よりも年上だろうが、不相応に思える。 つくづく理解できない、それに尽きる。 「いらっしゃい。お探しのものがあれば……」 ようやく店員が話しかけてきた。このままポルノデーモンや風俗店の写真を眺め ているのも辛い。 早いところ本題に入りたい。 「綺麗でしょ? ポルノデーモン。もう七年前の写真ですけど、年々、色気が増し て、実物はもっとヤバいですよ。輝紫桜町じゃ伝説のナンタラ、なんて言われたセ ックスワーカーや、ホストやホステスは星の数ほどですが、ポルノデーモンは群を 抜いてハマりますよ。極上の麻薬なんかより遥かに中毒性の高いHOEですから」 店員の雰囲気からは誇張したり、出来合いの営業トークではない。本心から発し ている言葉に思えた。 これが女に向けて言った言葉なら、それなりに受け入れられるが、対象が男なだ けに、げんなりする。この店員もよくそこまで言えるものだ。 「あぁ、失礼。そっちは駄目でしたか?」 神妙な顔持ちで気を遣わせてしまった。本心がつい表情に出てしまったのかも知 れない。落ち着け、この男娼に興味がある風を装わねば。 「いや……こいつには会えるのか?」 「生憎、彼はこの街で唯一“フリー”で働いていてましてね。こちからは紹介出来 ないんですよ、この街を歩いていれば、会えるかもしれませんよ」 「らしいな、それでも“地獄の沙汰も金次第”って聞いてきたんだが……」 それらしく、マネークリップに留めた札束を、ズボンのポケットから取り出して 店員に手渡した。 街の人間の話によると、ここの無料案内所は金と交渉次第で、店などに所属して いない、路上売春をしている連中も呼び出せるそうだ。 訳有りの多い連中にも仕事の伝や機会を提供する、良心的な案内所だそうだ。 “地獄の沙汰も金次第”は、そのサービスを受ける為の合言葉だった。 「ああ、なるほど。それでは、あちらにお掛けなって、しばらくお待ちください」 金を受け取った店員は、店の中央にあるソファに案内し、いそいそと奥の部屋へ 入って行った。 一先ずソファに腰を下ろして待つ事にする。それにしても芝居と言え、まさかこ の俺が風俗を利用するとは。フワフワとした妙な緊張を感じる。 やれやれ、修行や鍛錬では得られない、人生経験とやらが足りてないのだろう。 氷野市長は多少、羽目を外しても構わないと言っていたが、肝心の俺はこの手の 事に全く無関心だった。何が楽しいのか、煩わしさ、面倒臭さしか感じない。 そう思ってしまうのは、きっと“里”にいたせいだろう。閉鎖的で隔離された村 社会の中で、年相応に盛り付いた連中を沢山見て来た。 俺には多分、早過ぎたんだろう。見たくもないものも見て来たし、知りたくもな い事も沢山あった。 息が詰まり、溜息が漏れ出た。この街の下衆な雰囲気は、ガキの頃の嫌な事を思 い出させる。 それもこれも、この数日、ポルノデーモンが悉く俺の尾行をかわすせいだ。殺し 屋やヤクザに狙われる立場で、よく売春なんかやれるなと、呆れていたが、恐ろし く勘が鋭く、それなりに用心深い。この街の裏路地や、裏口の類いを熟知している のだろう、姿を眩ますのが上手かった。まるで――幾つもの目を持っているかの様 だった。 さっさと終わらせてしまいたい。この街にいると嫌な事ばかり思い出す。 この案内所を利用するのは、痕跡を残す事になってしまうが、一番確実にポルノ デーモンを、クラッカーインプを抑える事が出来る。密室であるホテルにまで連れ 込めば、締め上げて好きなだけ情報を絞り出せる。 それにしても、何時まで待たせるのか、苛立ち始めてたところで、案内所の入口 付近が騒がしくなっているのに気付く。 男が三人、ズカズカと肩を揺らして入って来た。先頭の男と目が合った瞬間に悟 った。――こいつ等の狙いは俺だと。 「こいつか?」 「間違いないだろう……」 先頭の男とは既に睨み合っている状態だった。結構ガタイが良い、金髪のツーブ ロックの髪型に黒のダウンジャケット。チンピラな風体だが、相当喧嘩慣れしてい る雰囲気があった。 後ろにいる二人も、近い雰囲気がある。しきりに携帯端末を確認しながら話して いた。一体、どんな理由で俺に絡んできているんだ。 「何か用か?」 「まあ、いいから、ちょっと表出ろ……」 こちらの問いには答えずに、気怠そうに言うと、右腕をグッと掴んで乱暴に立た される。落ち着け、まだだ、ギリギリまで様子を見ようと、自分の闘争本能に言い 聞かせた。 案内所の店員が姿を見せないところを見ると、こいつ等を呼んだのは、あの店員 で間違いないだろう。グルか。 ポルノデーモンを尋ねる事が、何か不味かったのだろうか、身に覚えのある事な んて、それぐらいしかないが。 「最近、毎日の様に輝紫桜町に来て、コソコソ嗅ぎ回ってんだろ? てめぇ、何処 の犬だ?」 後ろの男も凄んできた。見た目からすると、荒神会の人間ではなさそうだが、何 故、そんな事まで知っているんだ。 この街に来ると、何時も誰かの視線を感じていが、どうやら気のせいではなかっ たようだ。 「人違いだ、俺は今日、初めて輝紫桜町に来たんだ!」 この状態では、しらを切っても意味がないは分かっているが、複数を相手に立ち 回るなら、段取りは必要だった。その為に時間稼ぎである。 それにしても解せない。毎日、外から沢山の人間が出入りしてるのに、その中で 俺を見つけ出すなんて。 こうなってしまっては、密偵も隠密もあったものじゃない。ここで騒ぎを起こし た時点で相当目立つ。つくづく思い知る。――輝紫桜町は嫌いだ。 「そう、まあそれも、どうでもいいんだわ……」 男が掴んだ右腕を引っ張り、外へ連れ出そうとするが、俺の身体の軸は既に固定 している。微動だしない俺を男が見る。こっちの力が予想外だったのか、面食らっ た腑抜け面をしていた。 逆にこっちが男の腕を引っ張り、真っ直ぐに伸びた腕に掌底打ちでへし折る。ジ ャケットの袖が尖り、折れた骨が腕の肉を突破る。 激痛に叫ぶのは分かってる。拳で喉を潰し、肘を振り下ろし顎を砕く。髪を掴ん で、後ろのソファへ放り、その勢いを活かして後ろの一人に回し蹴りをくらわす。 最後の一人が背後からヘッドロックを仕掛けて来るが、右腕を首筋に当てて阻止 する。後頭部で鼻っ柱を潰すと、すぐにヘッドロックが解ける。右肘で腹部と顔面 を潰して振り向く。潰れた顔からボタボタと血が滴っている。逃げる素振りを見せ たので、すかさず掴み掛って、背負い投げで床へ叩き付け、仕上げに顔を踏み付け る。チンピラ風情が。 ジャケットのポケットからバンダナを取り出して一先ず口元を隠し、チンピラ共 の携帯端末を奪っておく。 案内所の中と外で、けたたましい警報音が鳴り響く。全く情けない。忍べない忍 者など忍者とは呼べないぞ。とんだ失態だ。 ここから立ち去らねば、出来るだけ一目を避けて街を出なくては。案内所の入り 口から、更に数人が入り込んで来る。仲間がいたらしい。 壁を勢いよく二段蹴り上げて、入口に向かって跳躍する。入り込んで来た連中の 頭上で身体を捻って、飛び越えた。 早々に退散せねばと立ち上がり、視界が車道を挟んだ向かいの路地に映ったその 時、我が目を疑ってしまう。 向こうの路地の壁に身を寄せ、腕を組みこちらを見つめる男が一人。離れていて もはっきり分かる。あの暗紫色の左目。――ポルノデーモン。 僅かに数秒だったが、互いに目が合い、認識していた。奴は薄ら笑みを浮かべて いた。 あんな男娼如きに、俺の動きがバレていたと言うのか。在り得ない、一体どんな 手を使った。この場に分銅鎖があれば、突き刺して引き寄せられるのに。 しかし、今はどうする事も出来なかった。公僕の立場にある自分が、こんな所で 捕らわれる訳にはいかない。 この下らない地獄の様な歓楽街に、そしてあの悪魔に、俺は背を向けて、溶け込 める闇を求めるしか術がない。 この屈辱、絶対に忘れるものか。
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