8.― DOUBLE KILLER ― 締まりのない、散々な一日になってしまった。戦場と裏社会で約二十年、蓄積し てきたプライドもズタズタになった。そしてまだ、この忌々しい一日は終わらなか った。 蓮夢に介抱されたその後、どうにか家に帰って一眠り、一段落できたと思ってい たが、俺は今また輝紫桜町に来ていた。それも、この街が最もケバケバしく輝く地 獄の大歓楽街になる夜にだ。症状が悪化しそうだ。 蓮夢も鬱になった経験があると言っていたが、よくこんな所で生活できるなと感 心してしまう。昼は陰鬱で夜は猥雑。汚れた欲望が渦巻く、この大歓楽街で。 医者と同じ事を言っていたのを思い出す。――問題に向き合っていないと。 知りもしない医者からご尤もな事を言われるよりも、蓮夢の言葉には重みと説得 力を感じた。 何時も大事な局面において俺は選択を誤り、時には目を背ける事も多々あった。 それで難を逃れられたのなら、まだマシと言えるが、結局痛い目に遭ってばかり だった。 どこで間違えてしまったのか。いや、きっと最初の選択から誤ったのだ。現実か ら目を背けてきて、そのツケが回ってきた結果が今の俺だ。 その事実にだって目を背けて来た。それ故に、“複雑な相棒”の、現実に真っ直 ぐと向き合って、歩みを止めない姿が眩しかった。 初めて会った時は、取るに足らない輝紫桜町の男娼に過ぎなかった蓮夢の存在は 今、俺の中で確実に大きな存在になっていた。 「鉄志さーん!」 遠慮のない大声に他人のフリをしたくなるが、呼び出した手前それは出来なかっ た。嬉しそうに弾んだ声なんか出して。 昼間とは打って変わって、夜の姿は相変わらず人の目を惹く姿をしていた。丈の 短い黒のエナメルジャケットに、どんな構造をしているのか、黒いハイネックのボ ディースーツはレオタードかハイレグの様にV字に下半身の肌を露出させ、暗めの ダメージジーンズも、腰の際どい所まで下げていた。 「凄い格好だな……」 「どうよ! すげぇエロいだろ。お気に入りなんだコレ」 得意気な表情を浮かべて、妖艶に身体をうねらせて見せる。恥じらいの欠片もな いなと思う反面、自分をよく見せるのが上手いなとも思う。 ここまでくると、モデルレベルかもしれないな。とは言え。 「イッタ! 何すんだよ!」 無防備に露出させた、腰の肌をつねってやった。 どういう訳か、そうしてくれと頼まれてる様な衝動に駆られたのだ。 「悪い、特に意味はないんだ……」 「いやいや、サディスティック」 つねった所を摩りながら蓮夢は呆れた表情をしていたが、俺にはそれが愉快に思 えた。蓮夢の言う通り、サディストなのだろうか。 昼間、蓮夢と別れた後、どうにか車で帰って気絶する様に眠りについた。そして また輝紫桜町で蓮夢と会っている。不思議な安堵感を覚えていた。 「すまなかった、夜に連絡すべきではないって、分かっていたけど」 「いいんだよ、俺の方こそごめん。預かっていたのすっかり忘れて持ち歩いちゃっ てた。はい、商売道具」 モスグリーンのバンダナにくるまれたグロックを受け取る。夜、目が覚めて初め て持っていない事に気付いた。腑抜けにも程がある。 苦しくてそれどころではなかったが、勢い任せに引き金を引こうと本気で考えて いた。蓮夢が数分遅ければどうなっていたか。今はそう考えると、背筋が凍り付く 思いだった。 「でも、明日も会うんだし、その時でもよかったんじゃない?」 「そう言う訳にはいかない。一応、プロとして。って言うのもあるが、ないと落ち 着かない。殺し屋は自分の痕跡を残さない様、努めないとな」 グロックの代わりなら、幾らでも持っている。ただ私物が他人の手にあると言う のが、何よりも落ち着かなった。蓮夢に限って何かあるとは思えないが、自分の使 っている銃は、常に自分の手元に身に付けておきたかった。 身に付けるで気付いたが、蓮夢に首筋に何時ものチョーカーがなかった。必ず身 に付けて大事そうにしていたのに。尋ねる気はないが、少し気になった。 「そんなもんかねぇ……。じゃ、会ったばかりで悪いけど、客との待ち合わせがあ るから、これぐらいで」 男娼の蓮夢を見るのは、これで三度目か。俺から逃げ回っていた夜と、雨の中取 っ組み合った夜。今夜は表情が明るく、この歓楽街の活気と賑わい、原色が混ざり 合って赤紫に染まる街に映えていた。――ポルノデーモンか。 「おい」行こうとする蓮夢を呼び止める。理由もないのに。「大丈夫か?」 「迷惑はかけないよ……。でも、どうしようもないんだ。金がないと何も出来ない だろ? 俺は、それもこれも全て受け入れているから」 俯き気味に、何事も金次第と言うのは意味として理解はできるが、“組合”の飼 犬である俺には無縁の現実だった。 ガキの頃、俺が出来なかった選択を選んだ蓮夢は、自分自身の両脚で立ち、自分 の現実に向き合っている。 「なあ、せっかく夜の輝紫桜町に来たんだ。遊んでいきなよ、気晴らしでもしてい ったら? マジな話、鉄志さん張り詰め過ぎだよ。もう限界来てるって自分でも分 かってるんだろ?」 気付くと蓮夢は俺の目の前まで来ていた。自分の顔がどんな顔をしてるかなんて 考える余裕もないが、蓮夢の言う通りなのだろう。 自分をコントロールする事すら、最近では儘ならない。本格的に壊れてきている のは明白だった。 「俺が嫌なら、好みの子を紹介だってできるぜ。たまには身も心も満たしてあげな いと……」 何故、そんな切なそうな顔が出来るのか。上目遣いの暗紫色の目が、心の奥まで 入り込んで来る様な感覚に陥る。否が応にも罪悪感を覚える。 俺は蓮夢の事を受け入れたいと口にした時、どこまで受け入れるのかと聞かれた が、今分かった。――俺には受け入れられない。俺の器では無理だと。 「気持ちだけ、ありがたく頂いておくよ……。でも、その気にはなれないってのが 本音なんだ。正直、好みなんてないし、会って間もない人間に興味も湧かない」 やはり俺は、そういう人間だ。もし、俺と蓮夢にもう少し時間があれば、或いは 受け入れられるのかも知れないが、それは無理な話だ。 元々、生きてる世界が違う。今こうして二人で行動している今の状況が、特殊な のだから。 「その割に性別とかは拘るんだ?」 見透かした様な視線から、目を逸らしてしまった。どうして俺は何時も物事を正 面から受け止められないのか。 「なんてね、メンタルやられてる奴にイジワルしても仕方ないか。鉄志さんの事を シオンに似ているって思っていたけど、あれ撤回。シオンは完璧だったからね。憎 たらしいぐらいに……」 そっぽを向く様に蓮夢が離れていく。何かと“ナバン”のボスだった男、シオン と比較されるのは不本意に思っていたが、蓮夢から見て、俺はそんな奴以下になっ てしまった。 シオンは蓮夢を金儲けの道具にしていたが、蓮夢の全てを受け入れ認めていた。 酷い扱いを受けていても、未だに蓮夢は憎み切れないで依存している。どうして そんな奴なんかにと思うところもあるが、中途半端な薬より、強烈な毒を好む様な 感じは、蓮夢らしいと言えば蓮夢らしいのかも知れない。 「俺は格下げか?」 「そうだね、最初に決めた力関係は破棄。これからは五分五分の相棒になる。鉄志 さんには色々助けてもらおうって思ってたけど、俺も鉄志さんの助けになるよ」 本当に色んな表情を見せてくる。その眼差しと決意は力強く、そして疑い様もな い確かな説得力が感じられた。 蓮夢がハッカーと言う分野以外の所で、どれだけの実力があるのかは分からない し、確実に俺より劣る要素はある。それでも――心強い、そう感じたのだ。 「その関係に見合うぐらいの働きはしてみせるよ」 「期待してる。もう行くよ、ごめんね」 「蓮夢!」 悪いとは思うが、また呼び止めてしまう。まったく締まりがない不器用さに嫌気 がさすが、今度はハッキリとした理由があった。 「ありがとう。今日は助けられた、借りが出来たな」 「初めて、名前で呼んでくれたね……」 静かに笑みを浮かべて、今度こそ蓮夢は背を向けて、輝紫桜町の奥へと消えてい った。言われて気付いたが、確かに名を呼んだのは初めてかも知れない。 これ以上にも増して、互いの存在が大きくなっていく。俺の既存の知識や経験で は通用しない事は明白だった。 自分の為と言うよりも、蓮夢の相棒として、自分の抱えている問題に向き合わざ るを得ない様だ。 先ずは明日だ。蓮夢からは既に明日の計画の詳細をもらっている。自分の役割に しっかり集中しなくては。 人混みを掻き分け、輝紫桜町の正門を出る。バンダナからグロックを取り出して ホルスターへしまった。 そう言えば、荒神会の元会長の件を蓮夢にまだ話せてないな。尤も大した収穫は なかったし、アクアセンタービルから情報を盗むという点においては、価値のある 情報ではない。やはり、散々な一日だ。 車を駐めている駐車場へ辿り着くと、隣に見覚えのある黒のSUVが駐まってい た。――“組合”の車だ。 助手席には秋澄が乗っていた。目が合い、秋澄が車から降りてくる。 「珍しいな、お前が図書館以外の所にいるのは」 秋澄の表情はいやに曇っていた。不安そうに車に視線を移す。“組合”の車でわ ざわざ俺を待ち伏せていたんだ、ただ事ではない事は間違いなさそうだが。後部座 席の窓がすうと下がり、秋澄の浮かない顔の理由が分かった。 「イワン……」 「鉄志、ちょっと付き合えよ」 今日、俺は昼間に死にかけたんだ。そして非合法なルートで手に入れた薬でどう にか繋ぎ留められた状態なんだぞ。 それだけじゃない、相棒にはセックスの誘いまで受けた挙句、その相棒に拳銃を 預けっぱなしで輝紫桜町にわざわざ取りに来て、男娼となった相棒を見送って。 そして今度は秋澄とイワンと三人でホテル“宮”のレストランバーにいる。頭が パンクしそうだった。 多種多様な人々でごった返し、雑多で猥雑な輝紫桜町から一気に世界が変わる。 時間帯もあり、レストランは富裕層で賑わっていた。バーカウンターに隣接して あるVIP用の個室からは品の良さそうな賑わいが僅かに聞こえる程度だった。 キャラメル色の革張りのソファに腰掛けているとオーナーの高橋自ら、黒いラウ ンドトレーで酒を持ってきた。どうして、俺達がイワンに合わせないとならないん だ。銀細工の装飾が施されたショットグラスは悪くないが、肝心の酒はウォッカだ った。 ショットグラスになみなみとウォッカが注がれる。オーナーの高橋の視線を感じ て目を合わせた。 「あのう、鉄志さん。本日はお連れの方は……」 「今日はいない。安心しろ」 すっかり蓮夢にビビっているな。俺もあの時は凄さよりも恐怖を感じた。不可解 なものを目の当たりにする恐怖だった。 人間の脳がデジタル化され、無制限にオンラインの海を泳ぐのだ。イルカの様に 柔軟でしなやかにハッキングする。そして、シャチの様にシステムを食いちぎり破 壊する。 あまり考えたくないが、こんなところで酒を飲んでるこの瞬間に、俺の相棒は何 処の馬の骨とも分からない奴に身体を売っている。どうする事も出来ないが、それ が何処かもどかしくて、居たたまれない。 「それじゃ、再会にでも乾杯するか?」 イワンの声で我に返る。気付くと高橋もいないし、目の前にショットグラスが置 かれていた。 イワンがグラスを掲げた瞬間に、俺はショットグラスの中のウォッカを一気に飲 み干して、グラスを逆さにテーブルへ叩き付ける。 「喜べイワン。乾杯する手間を省いてやったぞ。用があるならさっさと話せ」 こんな事に付き合わされている事自体が不快なのに、乾杯などする訳がない。 「特に用なんてない。任務の件だってお前の事を信用している。必ず良い結果を出 してくれるとな」 イワンはウォッカを流し込み、更にグラスに注いだ。 定期的な報告は欠かさず行っていた。蓮夢が用意してくれた“それっぽい”報告 書やデータのお陰で、組織やイワンからの横槍や催促を受ける事もなく、順調そう な雰囲気を保てていた。 常に時間を大切に使って、効率化に努めて走り回っている蓮夢に比べれば、俺達 “組合”の方はのんびりしていると言えた。 「それにしても、お前が本当に男娼なんかと手を組むとはな……。用心しろよ、オ カマに感化されて性癖が歪まない様にな」 上機嫌にウォッカを煽り、猥談を楽しむ様な下衆な笑みを浮かべている。イワン の挑発的な言動に腹を立てるよりも、違和感の方が強かった。 この手の会話なんて俺自身、過去に何度となく仲間達と酒を片手に交わした事が ある様な、他愛のない会話に過ぎないのに。 男娼もオカマも、以前まで俺も蓮夢に吐き捨ててきた言葉だった。その悪意ある 言葉がどこまで俺の本心だったのか、今はただ――後悔しかなかった。 秋澄に目をやるが、黙々とウォッカを啜っている。歪んだ性癖、知っているのは 俺だけだが、秋澄が今何を思っているのかと、考えるだけで息苦しくなった。 元々、イワンには腹が立っていたが、更に腹が立ってきた。そして自分自身にも 腹が立つ。 当たり前の様に、何も考えずに、愚かな言葉を交わし合っている。当然の様に自 然と溢れ返る差別と偏見が混じり合う様を、まざまざと見せ付けられた。 「蓮夢はオカマじゃない。中性でありたいと言うスタンスをとっているだけだ。あ る種の表現だよ。お前の頭の程度では理解できないだろうがな」 こんな奴に説明したところで何にもならないのは分かっていたが、言わずにはい られなかった。 とは言え、今の俺だって蓮夢を理解できるのかと問われれば、微妙である。無関 心さのツケは未だに回ってくる。 「理解が必要か? 本来の人間の在り方から逸れている様な、はぐれ者のスタンス なんかが……。世界のシステムにとって、ただの悪影響に過ぎない」 「俺は必要だと思ってる」 イワンは自分の考えを突き通そうとするが、俺も譲る気はなかった。不毛だと分 かっていても続けた。 その先の展開も既に予想がついていた。俺は今――殺気立ってる。 「システムの話をするなら、同一は脆弱だ。多様性を高めるべきだ。アイツと組ん で、俺は良い刺激をもらっている。相変わらず、お前は独断主義らしいな」 「選択を誤らない独断なら、問題ない。膨大な情報量を処理して思考できる、優れ たAIの合理性から作戦を形作る。そして優れた人間が行動する時代だ」 ほらな、俺の逆鱗に触れて来た。さっきからイワンは完璧を追求する中で、遠回 しに俺達を否定している。奴の言うシステムとやらに、俺と蓮夢は不要なバグに過 ぎない。そう思っているのだろう。 誤りのない独断なら問題ないだと、どの口が言っている。 「仲間を囮にして切り捨てるのが合理的だと言うのか!」 ソファから腰を上げて語気を強める。辛うじて拳銃には触れていない。 結局、この話を蒸し返す。俺とイワンの間にあるものは、これに尽きる。 あの頃の北米は狂っていた。今も大して変わっていないらしいが、他国の締め付 けに反発するテロ組織に、正規軍を超える程の軍事力を持った麻薬組織。無法状態 の紛争地域だ。 その敵陣の真ん中まで先行させられ、現地の情報を流した後は音沙汰無し、四方 をあらゆる敵に囲まれ、戦闘と逃避を繰り返す状況が五日も続いた。生き地獄だ。 この五日間の俺達の粘りと犠牲が、結果的にイワン達の作戦進行を助ける形にな った。“組合”は目的を果たしたのだ。 俺達は始めから捨て駒として放たれた。イワンの独断専行によって。 忌々しい過去だが、決して色褪せる事はない。イワンに対する殺意は、あの頃か ら今に至るまで何一つ色褪せてはいない。 「そんな過去も時代も、とっくに終わっているんだ。取り残され、死にかけたこの 国で、お前の目は節穴になったか鉄志! 俺を撃ちたいか? 撃てよ、殺さない程 度なら容認してやるぞ、やってみろ……」 イワンも立ち上がった。そう、ここで殺せば“組合”の掟に反する。嬉しい提案 だよ、殺さない程度なら撃ってもいいとは。その勝ち誇った顔が軋むぐらいの目に は遭わせてやる。殺さなければ、後の事は何とでもなる。 当然、イワンも無抵抗と言う訳じゃないだろう、この挑発に意図は分かり切って いる。俺を捻じ伏せて誇示したいのだ。 この距離だとナイフも有効な攻撃手段だ。イワンは間違いなくナイフを持ってい るだろう。白兵戦では無敵の男だ。俺が銃に手をかけるよりも早く襲って来る。あ のサイボーグ化された右腕の性能は未知数だが、間にテーブルがある分、踏み込み はもたつく。イワンの一振りを身を反ってかわせば、その間に銃口を向ける時間は 作れる。 二発だ、肋骨の外側と鎖骨の辺りに一発づつ撃ち込んでやる。
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