7.― PORNO DEMON ― ヤバい、また遅刻してしまった。気が焦り、車を避けるバイクの運転も荒っぽく なる。でも考えてみたら、もう遅刻は確定してるから間に合わないんだ。開き直っ て速度を落とした。 大体、鉄志が何時も早過ぎるんだよ。十五分前集合とか、時計でもインプラント してるのか、イカれてるよ。待たして焦らすのがHOEの常套手段だってのに。何 か言い訳を考えておかないと。 車道を逸れて徐行で裏路地へ入る。待ち合わせは何時もの寂れた有料駐車場だ。 明日はいよいよ、海楼商事のメインサーバーへ侵入する、“飛び込み作戦”の決 行日だった。 マルウェアも仕込んでない状態からの外部アクセスで、どこまで潜り込めるだろ うか。そして必ず“ガーディアン”が邪魔に入る。前回は面食らったが、今回は必 ず対処してみせる。 コンディションも悪くない。昨日から夜の仕事は休んでるし、脳への負荷も抑え てるから絶好調だ。久し振りに頭痛のない一日を過ごせた。ヤミ金の支払い分も確 保できたし、今夜もゆっくり過ごして明日に備えられそうだ。 曲がり角を曲がると、道が少し広くなる。そのまま有料駐車場へ滑り込んだ。や はり鉄志の車が止まっていた。マスタングと言う外車だそうだ。車には興味がなか ったが、なんとなく鉄志に似合っていた。 少し古臭いデザインの車に、スーツ姿の鉄志。一件不釣り合いにも思えるが、落 ち着いた雰囲気があって、結構様になっているのだ。レース仕様にカスタムされて いるせいか、乗り心地は良くなかったけど。 バイクを止めてヘルメットを外す。何時もなら車から降りてて、煙草でも吸って いるのに、車は無人で鉄志の姿もなかった。 車の裏側で物音がした。回り込み、鉄志の名を呼ぼうとした口が出先で詰まる。 鉄志は地面に這いつくばる様に身悶え、うずくまっていた。唐突に視界に入って きた――在り得ない光景に、身体が強張る。 「ちょっ! 鉄志さんどうしたの!」 信じられない光景だった。圧倒的なスキルで多勢に無勢であっても、怖れなど微 塵も見せずに突き進む勇猛果敢な鉄志が、俺の目の前で小さくうずくまり、のた打 ち回っていた。 駄目だ、そんな事を考えている場合じゃない。尻込みで固まりかけた身体を無理 やり動かした。 何が原因であれ、こう言うのを間近に見るのは本当にキツかった。輝紫桜町みた いなクソな街にいると、こう言う状態の人間に出くわす事も多い。他人ならどうで もいいが、知り合いだったりすると本当にキツイ。薬物乱用、精神疾患、血塗れの ショック状態。 苦しんでいる鉄志に手を添える。傷ついている気配はなく過呼吸で窒息寸前だっ た。右手にはガッチリと握り締められた拳銃が小刻みに震えている。 外傷はなく、過呼吸、定まらない視点。――パニック障害だろうか。 鉄志を仰向けして半身を起こし、背中から強めに抱き締めてこちらを認識させて から、呼吸しやすい様に顔を少し上に向けさせる。 「鉄志さん。大丈夫、大丈夫だから。ちゃんと息は吸えてるから。ゆっくり吐いて いこう、ゆっくりね……」 俺の声がしっかり聞こえたのか、鉄志の意識が息を吸い込む事から吐く事へ向い てきた。それでもまだ正常な息遣いには程遠い。 鉄志の腹に手を押し当て、息を吐きやすく促す。身体を密着させてゆっくり呼吸 して、呼吸のリズムを合わせやすくする。 「ほら、大丈夫。少し落ち着いてきた。ゆっくり息を吐いていこう……」 徐々に落ち着いてきた。まだ苦しそうだし、視点も定まっていない、おそらく鉄 志は今の状況を把握しきれていないだろう。俺の事も認識できているかどうか。 緊張でこっちまで過呼吸になりそうだったが、鉄志を安心させる為に必死に堪え ていた。ゆっくり息を吸い、十秒間隔で息を吐くを繰り返した。 七、八分ぐらい経っただろうか。ようやく鉄志の呼吸が俺の呼吸と同じぐらいに なった。眩暈を消したくて、鉄志の右肩に項垂れる。思ってた通りだ。 鉄志はスーツのせいでスラっとして見えるが、かなりガッシリした体格をしてい た。鉄志の為か、俺の為か、密着する身体を強く抱きしめてると、場違いな多幸感 に包まれる。鉄志は握っていた拳銃を取り上げようとするが、鉄志の指は少し抵抗 してきた。それでも、隙間を見つけて指を這わせて拳銃を奪い取る。 デジタルブレインで検索しなくても、鉄志の状態は分かる。――PTSD。 それも、かなり重い状態かもしれない。年単位で蓄積されている。鉄志は戦争体 験者だ。俺なんかには到底、想像もできない酷い目に遭っている筈だ。 でも鉄志の性格から考えると、相談する相手もいない、或いはそんな相手がいて も頼らないで、自分でどうにかしようと抱え込んでいたのだろう。 そう言うところだけは、共感できる感覚だった。でも、こればかりはどうにもな らない事だよ鉄志、分かってる筈なのに。 「お前……」 身体を寝かせて膝枕をしてやると、鉄志と目が合った。少し落ち着いたようだ。 「ちょっとだけ、しくじったね鉄志さん。脳の命令伝達が上手く噛み合わなかった みたい……。でも大丈夫だよ、そうでしょ?」 額の汗を手の平で拭う。冷たい汗だった。 パニック障害の引き金は精神的なものやフラッシュバックであっても、仕組みは 脳内神経にある伝達物質のバランスが乱れて、文字通りのパニックに陥る状態。 そのバランスを整えるには薬も必要だが、鉄志のはかなり重症だ。 薬だけで解決できるレベルではなさそうだ。かと言って、今の鉄志の生きる環境 では、殺し合いの裏社会なんて環境では、心療など望めない。 気の毒に、どうする事も出来ずに気付いた時には手遅れになっていたなんて。 「何時まで続く? こんな、地獄が……」 弱々しい声、悲観に満ちた目で鉄志は俺に聞いてきた。――地獄か。 この俺に、そんな事を聞かないでくれよ、だって俺は。 「地獄住まいの俺に、そんな事聞いちゃうの?」 「お前は……どうして立ち向かえる? 何故、自分に向き合える……」 こんな時は、安心させてやれる言葉をかけるのが正解なんだけど、上手い言葉が 見つからなかった。何て言えばいい、気持ちが焦って来る。 また何時もの、鉄志の前では本音が漏れてしまう衝動が襲って来る。最悪だ。 「誰も俺の事なんか見てくれなかったから……。せめて自分の事は自分で見てあげ なきゃって、それだけだよ」 こんな事を言って何になるんだ。目の前で苦しんでいる人の前で、情けなくて惨 めな自分を曝す事に一体、何の意味があるんだよ。 「俺には、耐えられないよ。いっそ引き金を引いてしまって……」 「嫌だよ、死んじゃ嫌だよ、鉄志さん……」 鉄志の言葉に、咄嗟に身体が反応する。無意識に鉄志の額に自分の額を押し当て てる。自分を支え切れなかった。 鉄志の額は冷え切っていて、今の俺には少しだけ心地良かった。 やはり、衝動的に拳銃を握っていたのだろう。ゾッと血の気が引く、あと数分来 るのが遅かったら、俺は鉄志の死体を見る事になっていたかもしれない。 今やっと分かった。鉄志の心が見え難いのではなく――心が壊れていたのだと。 「そんなの思う壺じゃないか。はぐれ者が消えるのを見て、ほくそ笑むどうでもい い奴等の……。俺達だって、そいつ等と同じ人間なのに、人並みの感情すら抱いて も異質に思われて、欲しがる事も許されなくて……。でも引き下がれないよ、俺は 俺のまま求め続けるしかない。それしか出来ないから……」 止め処なく言葉が溢れる。その言葉に何の意味があるんだ。かと言って、壊れて 死にかけている心に、どんな言葉をかければいいのかなんて、俺なんかに分かる訳 がない。 鉄志に本音が漏れてしまうのは、鉄志の心に入り込めないから。“ナバン”で仕 込まれた手が使えないから。 それでも、そんな鉄志に何処か――惹かれているから。 「何が欲しいんだ?」 鉄志の息遣いが大分落ち着いていた。俺の口走った言葉を拾うぐらいの余裕は生 まれたみたいだった。 そのお陰で、俺の高ぶりも少し冷めて来た。本当、キツイなこれ。 「最後に薬飲んだのは何時?」 こんな状態で全く治療を受けていない筈はない。今までの鉄志の様子を思い返し てみれば、疲労感や無気力感が増していたかもしれない。先日、睡魔に襲われてい たのも、不眠症によるものだろう。 鉄志の額に触れたまま姿勢で答えを待っているが、反応がない。思い出せないぐ らい、薬の服用を忘れていたのか、または薬を切らしていたか。 「薬は何を? レクサプロ?」 「それだけじゃない……」 やっと情報が手に入った。抗うつ剤のレクサプロか。無難なところだが、鉄志の 感じからすると、あまり真剣に治療を受けていた雰囲気じゃない。適した治療や薬 の種類、分量もこれから探ってく段階だったのかもしれない。 根本的な解決にはならないけど、今は薬が必要だ。 「車の鍵、借りるよ」 スーツのポケットを探り、車の鍵を取り出す。レザージャケットを丸めて枕にし て、車のドアを開ける。そう言えば鉄志の車は左ハンドルだった。 身体を伸ばして鍵を指す。力強いエンジン音の中、助手席を大き目に倒してスペ ース広くとった。 「鉄志さん甘く見過ぎだよ。PTSDは脳と神経の問題だよ。最後には心も蝕まれ る。薬で対処出来るのに、問題に向き合ってない」 俺が鉄志に小言を言う日が来るとは。これは滅多にない事かも。 鉄志を起こして肩を貸す。車に乗る意思は持っているので、鉄志自身も何とか立 ち上がって歩いてくれた。俺だけの力だけなら引き摺っていただろう。 「強い弱いで判断するなって、鉄志さんが言った言葉だろ」 「何処へ行く気だ?」 助手席に座らせて、シートベルトを締めてやる。ついでに小言も付け加える。地 面に落ちた鉄志の拳銃を拾い上げた。味気なく、それでいて無駄のないデザインの 拳銃。とりあえず預かっておく。 「薬屋に行くんだ、当然だろ」 「処方箋がないと手に入らない薬もある」 そんな分かり切った事を今更と思った。薬屋と言っても、その辺のお上品な薬屋 なワケないだろ。 何時ものバイクならここまで二十分くらいだが、これは中々に手強い第一関門だ った。何事も不測の事態は想定すべきだが、これは想定外だった。手強いな。 「輝紫桜町に行くよ。言っておくけど、左ハンドル初めてだし、そもそも車の免許 も持ってないからね」 鉄志がこの世の終わりみたいな目で俺を見るが、せいぜい祈っててほしい。俺も 今、かなり手一杯だった。 まあ、なんとかなるだろう。順路も運転の仕方もネットで検索済みだ。 「ま、待て! おい!」 外はそれなりに晴れているのに、輝紫桜町に入った途端、鉛色になる。昼間の輝 紫桜町は気分を憂鬱にさせた。 エンスト四回、信号無視二回。ぶつけてないだけ上出来だろう。 この車は何もかもが軽かった。少し押したり回したりで敏感に反応する上に、加 速も速いから急発進、急ブレーキになってガックガクだ。 やっぱり、車よりバイクの方がいい。 不本意な急ブレーキをかけて、“サクラ・トラップ”のドラッグストア前へ到着 した。 鉄志に追われてた時、この店から裏路地へ逃げた。もう昔の様に思えるな。 「ここで待ってて、調子は?」 「内臓がシェイクされたよ……」 「だろうね、運転してた俺もゲロしそうだもん」 鉄志は大分落ち着いた様子で、皮肉を言うだけの余裕を見せたが、それでも消耗 していた。半分は俺のせいでもあるが。鉄志の車は二度と運転したくない。 ガタついてるドアが開いて店内へ入ると、珍しい奴がカウンター前で煙草をふか していた。 “サクラ・トラップ”のボス――中葉(なかば)だ。 「よう! 蓮夢、珍しいなこんな時間に。コカイン切れたか?」 眠たげな据わった目付き。メスカリン中毒の中葉は、相変わらずガンギマリだっ た。輝紫桜町で最も勢力の大きなドラッグディールギャング。それを束ねる中葉は 一言で言うなら――曲者だ。 小規模なギャングの一つに過ぎなかった“サクラ・トラップ”だったが、中葉が 仕切り始めてからは、合法も非合法も、ハードもソフトもお構いなしに仕入れては 売り捌き。更に“精製”には惜しみなく投資して、輝紫桜町の各組織からも一目置 かれる存在にまで成り上った。 その経営手腕には恐れ入るが、本人曰く“神の啓示”とやらを実践しているだけ らしい。イカれてる。 「いや、足りてるよ。アンタこそ、この店にいるなんて珍しいね」 「たまには“金庫”の中を見ておかないとな」 「ズーハンいる?」 この店の地下には、かなり広い薬品の貯蔵庫と精製所が潜んでいた。海外から仕 入れた上物の違法薬物から、医療機関から横流しされた医療用医薬品まで、幅広く ストックされている。 腕のいいズーハンがそれを客の要望通りに調剤までしてくるのが“サクラ・トラ ップ”のサービスだった。 値は張るが、病院が一つしかなく、ノーネームが多い輝紫桜町では一部の連中の 生命線であり必要悪ってヤツだ。 カウンターの奥に向かって、中葉がズーハンを呼びつける。その間にミネラルウ ォーターを二本、リーチインから取り出す。 「どうも、蓮夢さん。何かお入りで?」 「エスシタロプラムとエチゾラム、少し強めの調合で。あとCBDとTHCとかの 即効性のあるヤツが欲しい」 薬に関する知識は何時の間にか、自然と身に付いていた。俺の人生には常に麻薬 が纏わり付いている。 クソな父親はシャブの売人だった。あんなに嫌っていた筈なのに、今となっては 俺も立派な中毒者だ。感覚を鈍らせて、都合の良い快楽でも得ないと、豚みたいな 連中に身体を委ねられない時期もあったからだ。 更にデジタルブレインの弊害である頭痛は並の鎮静剤ではどうにもならない。 だから、仕方ないんだと、言い訳がましく薬に対する知識を吸収して――健全な ヤク中になっている。 「抗うつ剤っスかぁ? まぁ在庫少し、残ってますけど」 「なんだ? お前ガンジャは苦手だって言ってたのに」 「俺のじゃないよ、早く用意して」 ズーハンはタブレットを操作しながら店の奥へ消えていく。腕はいいし、機材も 最新式の物を導入しているのは知っている。そんなに時間はかからないだろう。 外へ視線を移して鉄志の車を見る。拳銃も預かっているし、大分落ち着いていた けど、それでも心配だった。 薬が仕上がるまでの間、傍にいてあげたかったが、中葉がいるせいで鉄志のとこ ろへ行けなかった。 「ところで蓮夢、最近派手に動いてるそうじゃねぇか。荒神会のヤクザや“組合” の殺し屋とトラブル起こしてるって噂だぜ」 中葉レベルになると、輝紫桜町の情報アプリ“ヘルアイズ”以上の情報を掴んで いるらしい。この街は何もかも筒抜けだな。 “サクラ・トラップ”のボスがここまで知っているのなら、他の組織も大体の事 は把握してると思っていいだろう。ホント、面倒臭いな。 「へぇ、そうなんだ……」 適当に聞き流しておく。中葉は俺にとってお得意様だけあって、ハッカーとして の俺がどんな動きをしてるかをよく知っていた。 誰とも組まない単独活動のハッカー。人それぞれ、やり方なんて自由だと思って いるが、俺は他のハッカーより行動派だった。パソコン弾くよりも脚で情報を探る タイプである。リスクは大きいが、リモートでは侵入できない領域の情報も手に入 れられる点では、情報その物の価値が大きいし、何よりもやり甲斐があった。 「外から物騒な連中の出入りも増えてきてる。まぁ、林組が潰れたのは俺達には都 合が良いけどな」 「物騒な連中って?」 「見るからに戦闘型のサイボーグや、遊びに来たって感じじゃない連中が、チラホ ラとアプリで引っ掛かってるぜ。先日なんか愚連隊といざこざ起こして、流血沙汰 にもなってる」 戦闘型サイボーグか。そう言えば最近、仕事で街を歩いているとゴテゴテとした 容姿の連中、明らかに――無茶苦茶なインプラントをしている連中を何度か目にし たな。 何時だったかの、無料案内所で俺の事を探っていた奴も、荒事の代行を生業にす る“愚連隊”の連中をけしかけて以来見ていない。 アプリの情報網と上空から監視するドローン。この二つでしっかり警戒さえして いれば輝紫桜町の中は安全だ。今のところは。 「俺の知った事じゃないね」 「ま、何にしても街がピリついてきてるのは間違いねぇさ。輝紫桜町はトラブルを 嫌ってる事ぐらいはお前も知ってるよな?」 「生憎、トラブルが大好物でね」 中葉がこんな話をしてくるのは、俺の関わっているトラブルの詳細が知りたいの だろう。大企業の海楼商事を相手取ってるなんて言ったら、どんなリアクションを するのか。 この数年、林組は細々とした事業で辛うじて生き永らえている程度の組織にまで 落ちぶれていたが、輝紫桜町では老舗と言う事もあって、影響力はそれなりにあっ た。中葉達にとっては目の上のタンコブが一つなくなった。 これを機に輝紫桜町内の縄張りでも広げるのか、その為のネタを俺から頂戴しよ うって見え透いた魂胆だな。 「はい、お待ちどうさん! 強めの調剤なんで、様子見ながら使ってください。あ とは究極のチルタイムにサクラ・トラップス製、高濃度CBDリキッド。電子タバ コ本体付き」 丁度いいタイミングで、ズーハンが薬を持ってきてくれる。トレイの上の錠剤と カプセル。大体、五日分くらいだから、その場凌ぎにはなるか。 「ありがと、幾ら?」 「三十万ってとこだな。でもまぁ、世話になった“よしみ”だ、二十八万にまけて やるよ」 ポケットに詰め込んでる紙幣十五枚ぐらいを取り出す手が止まり。中葉を凝視す る。 高額なのは分かっている。その辺の売人よりもリスキーな方法で、どんなドラッ クでも仕入れて、調合も正確で望みのまましてくれる。だから十万を超えるのは覚 悟していたが、薬の原価も大麻の相場も分かっているだけに、中葉の提示した額に 愕然とした。 「はあ? ふざけんなよ、相場の倍じゃないか!」 「何時代の相場だよ、最近は密輸業者も警戒して慎重になってるし、薬の横流しも 滞って品薄なんだ。仕方ないだろ、ビジネスなんだから」 それも知っている。最近、港区ルートでの密輸品の出入りが停滞気味になってい ると。それに関しては俺も関りがある。 中葉の息がかかった医療従事者が立て続けに捕まっているのも、ネットニュース 経由で知っていた。 中葉は俺の事を勘繰っているのか。荒神会と関わっていると言う噂から、と言う より本当の事だが、俺のせいで港区の密輸絡みが滞っているとでも。 しまった。完全に足元を見られている。かなり立場が弱い。 荒神会とのトラブルは中葉達、組織への損害。そして、この薬が俺の物じゃない と口走った事も弱みになる。俺に薬を買わないと言う選択肢がない事もバレてしま っている。 「中葉……勘弁してくれよ、“よしみ”だって言うなら」 「蓮夢、お前には何度か世話になった。その都度、お前の言い値を払った。それで 完結してる。お前のコカイン代を固定してやってるのが“よしみ”だ。甘えてんじ ゃねぇよ、金がねぇなら稼げよ……」 中葉の“稼げ”と言う言葉が耳から全身に行き渡り、動悸を乱す。その言葉で強 要されると、クソな父親やブチ切れてるシオンの事を思い出した。 深呼吸をして、気を落ち着けた。悲しい事に、俺はこの時点で金の計算をしてい る。差し迫っているヤミ金の支払い分と、この薬代。蓄えてる分では足りず、かと 言って明日、明後日は仕事は出来ない。 鉄志の状況次第でもあるが“飛び込み作戦”は明日決行する。 今夜、客を捕まえるしかない。利益をプラスにして蓄えるなら、うまく立ち回っ て二人ぐらいは捕まえて稼がないと。 明日に備えて、夜は身体を休めようと思っていたのに。儘ならない状況に憂鬱と 口惜しさ混じって身体の裏側が震えていた。 別に身体が疲れていても、脳がその時に意識を集中できていれば、パフォーマン スは維持できるけど――結局これかよ、クソッタレが。 「クソが……。ズーハン、ツケといて。明日の朝には残りを必ず払うから」 とりあえず十万、カウンターに押し付ける。ここはツケが通用しない所なのは知 っているが、それぐらいは譲ってくもらわないと。 ズーハンが中葉を見てアイコンタクトを送る。勘弁してやりましょう、と。 ズーハンに頼んだのは意図的だ。中葉と俺の関係はハッカーとクライアントの仕 事だけの関係だが、ズーハンと俺は常連客と店員だった。 親しみの度合いが違うからこそ、味方になってくれると分かっていたからだ。 この地獄で、卑しく生き抜いてきた。こういうあざとい手段はお手の物さ。 「ツケるなら“信頼の証”分かってんだろ?」 身に付けている物を担保として預ける。輝紫桜町の裏社会で、昔からある下らな い暗黙の了解。それでも、いざこれを要求されると重圧を感じるのだ。追い詰めら れている奴ほど効果がある。 でも、俺は逆だった。首のチョーカーを両手で外し、“信頼の証”として中葉に 手渡した。――必ず稼いで取り戻す。 「中葉、どうせお前はまたCrackerImpに仕事を頼む日が来る。その時は 今日の言葉、そっくりお前に返してやるよ」 「その日を楽しみに、今夜は励みな」 今は負け惜しみだし、遠吠えに過ぎないが。必ずその時はやって来る。中葉はド ラッグディールに関しては一流だが、それ以上に私生活のだらしなさで度々トラブ ルを起こしている。その時のトラブル処理がCrackerImpの仕事だ。 ドラッグ以外の事業への進出や投資のトラブル、痴情のもつれから来る密告、警 察や格上の組織に握られる弱み。全て俺がもみ消してやっている。 遅かれ早かれ、コイツは俺に泣付いてくる。その時は覚えておけよ。 薬を手にして、胸糞悪い取引を終えて店を出た。何でもいいから物に当たり散ら したい気分だったが、周りには鉄志の車しかなかった。流石に蹴れないな。 運転席に座って両目を閉じて溜息をつく。この苛々を早く済ませて、その後の来 る憂鬱も早めに済ませて、ポルノデーモンに戻る準備に入りたい。いっそ早く夜が 来ないだろうか、ネオンの明かりが混じり合って赤紫に染まる夜の輝紫桜町にでも なれば、少しはその気になれるから。
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