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 イワンの右腕がピクリと動いた。身体を後ろへ反らしながらグロックをホルスタ ーから引き抜く。しかし、それ以上の動きは実行できなかった。――先手を取られ た。  少しでも動けば左目に何かが突き刺さる。何を突き付けられているんだ。 「鉄志は“組合”の貴重な人材だ。これ以上は許されないぞ」  秋澄がイワンに向けて銃を向けていた。それで悟った――俺はもう負けている。 「取るに足らないこの国の“組合”だろ……」  秋澄の首筋に真っ黒な針の様な物がゆっくり伸びていく。伸びているのは、イワ ンの指だった。  だらんと垂らした右手の人差し指が俺に、親指が秋澄に向かって細く鋭い針の様 になって――伸びていた。  こんな事も出来るなんて、サイボーグのテクノロジーは俺の理解を超えている。  ここで殺されると言う事はない。観念して銃を下ろした。湧き上がって来るのは 悔しさよりも、既存の理屈や経験がまるで通用しないサイボーグへの恐怖だった。 「世界は……“トランス・ヒューマン”の時代が来たんだ」  聞き慣れない言葉がイワンから放たれた。“トランス・ヒューマン”。それにし ても、時代だ世界だの、聞いてるだけで倦怠感を覚える話だ。 「ドローンが破壊し、オートマタが掃討して、最後に人間が仕上げる。俺達の知る 戦場はもう通用しない。新しい軍を編成しなければ生き残れない」  大規模な爆撃、生き残りの炙り出し、典型的な殲滅作戦の基本図。俺や秋澄が戦 場に立った時から、この図式は変わらない。  右も左も分かってなかったあの頃は、大体の事はロボットがやってくれるから自 分達は安全かもしれないと甘く考えていたが、現実の戦場は目も当てられんぐらい お粗末なものだった。  計画通りに進行する事なんてない。どんなに強力なドローンや索敵能力に長けた オートマタでも、所詮は鉄屑に過ぎない。常に期待には程遠い働きだった。  時が経つにつれ、敵も味方も同じぐらいのドローンやオートマタを投入する様に なっていき、戦場は人間とロボットが入り乱れる混沌とした修羅場になり、不毛な 消耗戦、そして結局は持続的に戦える資金力が物を言う。  つまり、どんなに犠牲が多くても、幾らでも代えの利く“組合”が勝つのだ。 「“組合”とてそれに出遅れているぞ。鉄志、俺と手を組め。今更“組合”に執着 してても消耗品で終わるだけだぞ」  イワンの針の様に伸びた指が、ヒュンと一瞬で元に戻る。一体どんな仕組みにな っているのか。  荒神会の元会長、波江野を殺した謎の殺し屋に戦闘型サイボーグと、最近になっ て対処の難しい敵ばかり相手にしている。  イワンの言う通り、時代が変わってきたのかも知れない。そして奴の発した言葉 もまた、その変化の表れなのだろうか。それは“組合”の人間が口にするには、危 険なものだった。 「お前の言い振り……。“組合”を裏切るつもりか?」 「勘違いするな。“組合”に分からせてやるだけだ。俺の構想する軍隊を、世界の パワーバランスを支配できる新世代の力をな」  寸前で“組合”の為と言う話で留めているが、それが叶わなければ何時でも見切 りをつける。そういう含みを感じていた。 「下らねぇ……。勝手にやってろ」  ソファへ座り、舌打ちと共に吐き捨てる。俺がイワンの下に付いて、また戦場で 戦う。冗談じゃない。  だが、俺の拒絶など“組合”がその気になれば、いとも容易くかき消せる。今の イワンには、それが出来るだけの力があるのだろうか。  このシケた日本で、正気を失って死ぬか、戦場の消耗品に逆戻りするのか。俺の 未来に光はなさそうだな。 「鉄志、この島国は何れ形を失う。世界中の権力者が実験場にするだろう……。そ の時、お前は何処にいる気だ? “組合”か? あの男娼の所か? お前は支配さ れて搾取される側じゃない筈だ。よく考えておけ……」  そう、搾取されると目に見えていた未来から目を背けて、俺や秋澄は“組合”と 言う選択をした。秋澄はそれなりに上手くやれているが。  結局、俺は底辺の弱者として何もかも搾り取られてしまう運命の様だ。溜まりに 溜まったツケを払う事になるのか。  蓮夢の様に、そんな現実を俺は受け止める事が出来るのだろうか。幾ら腕っぷし が強くても、逃げ回ってきたこの俺に。  イワンは秋澄に帰るぞと首で促したが、秋澄も再びソファに座り込んだ。 「一人で帰れよ、俺は飲んでく……」  勝ち誇った様な笑みを浮かべて、イワンは静かに部屋を出た。実力も意識も俺達 では遠く及ばないレベルにイワンはいるらしい。  世界に取り残された、この惨めな島国の人間には理解できないのかも知れない。  それにしても、秋澄。お前ってヤツは。 「お前も少しは喋れよ、何黙ってんだよ」  一応、イワンに銃を突き付け、ポーズはつけていたが、会話には参加せず、ろく に援護もしない。  おそらく、イワンだけで俺を誘っても乗らないと踏んで、強引に秋澄を連れてき たのだろう。  秋澄は苛立ってる俺など気にもせず、カウンターに繋がる小窓を開けて、バーテ ンダーを呼びつけた。 「酒を頼む、カネマラの十二年をストレートで、お前はジンだよな?」  本音を言えば、帰って寝てしまいたいが。こうも腸が煮えくり返っていると、反 って悪い状態になりそうだった。  蓮夢に対してどこか忍びなさを感じるが、潰れるまで飲んでしまおうか。 「タンカレーのナンバーテンをロックで、ライムを一絞り……」  注文の酒は数秒で、小窓に付いた小さな棚の上に置かれる。カットグラスのゴブ レットは細身で、秋澄の好物であるアイリッシュウィスキーがなみなみと注がれて いた。  霜が付くほどキンキンに冷やされたオールドグラスに注がれたジンが、瞬く間に その冷気を吸い取ってく。 「俺が割り込んで、お前は冷静になれたのか? リーダー同士の話に兵士は割り込 めない」  差し出されたグラスの中で揺らぐ氷を見つめる。その答えはノーだ。  分かっている。仮に秋澄がどこかで止めに入っても、俺はイワンに躊躇なく引き 金を引いていただろう。 「もう兵士じゃないだろ」  秋澄とグラスを重ね合い、ジンを一気に流し込む。ハーブの余韻、微かなライム の香り。煙草を吸う蓮夢が脳裏を過る。アイツの煙草はクセが強かった。 「“組合”に入れば、人生が約束される。代りに永遠の忠誠を。か……」  秋澄がボソリと呟いた。その言葉の重みを考えもせずに、“組合”に飛び込んだ 生き残りの二人か。  実力主義な部分はあるが、確かに豊かな人生を保証してもらっている。それは間 違いない事実で、収入で言うなら秋澄にも変わらないぐらいなのに。何故か満たさ れないのだ。何故、俺は――壊れてしまったのか。  この飼い殺しは永遠に続く。俺の価値は修羅の最もたる処、戦場での敵の数減ら しに過ぎなかったのに。  俺とイワンの差はそこにあるんだろうな。戦い続ける事を止めた俺と――戦い続 けるイワン。 「イワンの考えは、その掟に反してる様な気がする。何を考えているのか?」  自分の惨めさを実感したところで、今更どうにもならない。イワンも“組合”に 属して長い方だ。だから充分に理解している筈だ。“組合”を抜け出せば世界中に 散らばる殺し屋達に命を狙われる事を。  俺を含め“組合”の殺し屋共の、最も重要な仕事は――裏切り者の排除だった。  イワンは裏切り者と見なされても、おかしくない事を言っていたが、何よりもそ んな無謀な行為も辞さないと言う断固たる意志があった。  それとも、世界の変革はそれぐらい目前に迫ってきているのだろうか。 「様子を、見るしかないだろうな」  すぐに答えが出ない。最近はそう言うのばかりだ。仕方のない事だと分かってい ても、もどかしい。  何度なく思っている事を繰り返すが、ここまで大事になるなんて、想像もしてな かった。ヤクザの幹部を一人仕留めて終わりの筈だったのに。  今は巨大企業とその裏の大きな闇を覗く為に、外部の人間と手を組んで畑違いの 仕事をこなしている。しかも、その相棒と言うのが一癖も二癖もあるハッカーなの だから。  きな臭い。イワンとその背後の“組合”の介入といい、海楼商事の操る荒神会を 始めとした駒の質。その全てが想定外だった。 「この国で何が起きている? 俺と蓮夢は何を追っているんだ……」  ジンを飲み干して一息入れた。かなりの酔いの周りが早い、思っている以上に疲 いるのかも知れない。  煙草に火を着け、不意に秋澄の視線に気付くと、どう言う訳かニヤニヤと笑って いた。 「何だ?」 「いや、別に。飲もう、久し振りにな」  秋澄は何時の間にかウィスキーを飲み干して、俺の分も含めておかわりを頼んで いた。  確かに秋澄と飲むのは久し振りかもしれない。何年振りだろうか。それ以前に誰 かと酒を飲み交わす事自体が久し振りだった。 「飲みに誘う事をしなくなったよな……。お前」 「もう、立場が違うからな」  日本に帰って来て、秋澄に再会できた時は本当に嬉しかった。戦場を離れたのは 正解だったと心から思った。よく飲みに誘っていた。  それから先はじわじわと毒が回っていく。戦場ではリーダーとメンバーの関係だ った秋澄は日本の“組合”において重要な役職に就いていた。オーダーか、リスト アップされたターゲットを、淡々と殺すだけの俺とは大きな差が生まれていた。  次第に秋澄と昔の話をするのも辛くなっていった。生き残った事への安堵や喜び はみるみると消えて、虚しさと生き恥の様な自分、方々に散らばる罪悪感。  こうして仕上がったのが、重篤なPTSD患者の自分だった。二杯目のジンを煽 る。その鋭くも芳醇な香りと味わいすら、今は薄れてる。ただ習慣の様に好きだっ た酒だから飲んでいる様な感じだった。 「俺は気にしないけどな、たまには人と飲め。独り酒もやり過ぎると毒だ。一人ぐ らい当てはあるんだろ?」  その当てとは蓮夢の事を言っているのだろうな。アイツもめげずに事ある毎に飲 みに誘って来る。  そう言えば、この店で遠慮もなくグイグイと酒を飲んでいたな。バーボンを好ん でいるのが意外に思えた。あの酒の飲みっぷりだと、結構な“ザル”だ。俺も酒に は強い方だから、何となく分かる。  スカートは履かないにしても、女物の服を着たり化粧もする。始終色目を使って ても、機嫌が悪いとチンピラの様な目付きにもなる。  ビビットピンクのウィッグを絡めて、可愛い物に興味を持ちながら、携帯端末は 厳ついアウトドアモデルで、パワーのあるスポーツバイクを軽快に乗りこなす。  そしてオンラインデバイスを見つめる暗紫色の鋭い眼光。その眼の奥で静かに燃 えている気高い使命感。その原動力は――うらぶれた心。  複雑で不思議。そして、どこか人を惹き付ける様な魅力を持った俺の相棒だ。 「なぁ、秋澄……」  根元まで吸い尽くした煙草は灰皿へ押し潰して、グラスに揺らぐジンを飲み干し てしまう。 「アレだのコレだの無視して、人を見るのって、本当に難しいな……」

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