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第二章 1.― JIU WEI ―  私は野狐禅やこぜんだ。黒衣の隙間から覗く太陽の光が、その様を暴いて、曝している様 に思えた。  彩子さんの住むマンションの一室で、天井に突き刺したフックにかけられ、大き く広げられた黒衣は、丈夫な革素材と言えども、大分年季を感じさせるぐらいのく たびれ様だ。  あれだけの派手に大立ち回りをしたのは、本当に久し振りだった。身体は酷く疲 れ切っているが、興奮が収まらず、眠れそうになかったので、黒衣の手直しをしな がら紛らわしていた。徹夜を経て、朝日を浴びるのも久し振りだった。  結局、何も得られなかった。強いて得たものがあるなら今、私の心を埋め尽くし ている、無力感と敗北感ぐらいだろう。  “だから言っただろ、お前は子供だ。どうしたって大人には勝てない時がある”  亡き叔父の言葉が頭を過る。  “知恵を付けなさい、時に人を蹴落とせるぐらいの、人の世はえげつないんだ”  叔父の事を思い出す。そう、正にえげつない人だった。この人が本当の父の兄な のかと、何度も疑ったものだ。  父と母、そして弟を失い、独りになった私を父方の親族のほとんどは受け入れを 渋った。日本人の血が混じったサイキックは疫病神にしか見えなかったらしい。  亡き叔父と過ごした三年間。それが今の私を形作り、生きる理由を与えてくれた のだ。 「起きてたの? ユーチェン」  彩子さんの声で現実に引き戻される。彩子さん目の下にはクマができている、明 らかな疲労を見せていた。お互い散々な夜になってしまったようだ。 「眠れなくて……。でも、そろそろ横になろうと思ってました」 「腕の怪我は大丈夫なの?」  絆創膏三枚で雑に処置した右腕に彩子さんが触れる。右腕の刺し傷は三センチ程 度、浅いものだった。あの忍者が放った手裏剣が刺さった時は、かなりの衝撃を受 けたが、実際は大したものではなかった。  とは言え、あの変幻自在の分銅鎖の刃なら、こんなものでは済まなかっただろう けど。 「この黒衣はガルーシャ、エイの革を何重にも重ねて作られているんです。とても 丈夫なんですよ」  一〇〇年の耐久性とも言われ、カルシウムを含んだ石の様な肌触りのエイの革に 包まれた黒衣は、朝日に触れて静かな光沢を放っていた。遠目に見れば高級感すら 感じるが、近くで見ると歪な丸の集合体が少々気持ち悪かった。 「何時もこれを着て戦っているの?」 「叔父のアイディアなんです。念動力を使う際、その場に相応しい物質がない時の 為に、何時でも何処でも、確実に、使い慣らした物を念動力で操れる様にと」  ワイヤーを外し、解いていた尾の一つを手に取って彩子さんは言った。尾の部分 は更に強度の高い、カーボン繊維でできており、その先端は鋼鉄製。切断する事も 撃ち砕く事も、容易には出来ず、そして直撃すれば骨を砕く。  黒衣の手入れを進める私を他所に、彩子さんは黒衣を食い入るように眺め触って いる。子供の様な、一見お茶目にも思える姿を見る限りでは、怒っている感じでは なさそうだ。今はまだ、少しだけ彩子さんに気不味さを感じている。  日本に来てから、私の念動力は何度か彩子さんに見せていたが、具体的な事はこ の衣装も含めて話していなかった。 「九尾の狐は日本では神獣とされる場合もあるけど、あなたの場合はそれではない ようね」  今度は狐の面を手に取っていた。面は表情を硬くして、多少の加工を加えている が、単純に顔を隠す目的だけの物だった。  彩子さんの言う事は分かる。中国では九尾の狐は人食いの化物であり、国をも傾 ける邪悪の権化である。勿論、私の九尾の狐に対するイメージもそれだ。 「私の念動力は一度に九つの物体を動かせる。二人でどんなデザインにするか、話 し合って毎日、夢中になって作っていく内に少しづつ立ち直れたんです。両親の死 から……。そして弟を見つけ出すと言う、サイキックとして生きる目的を見つけま した」  彩子さんから受け取った面を机に置いて、九本の尾を念動力で黒衣へ収納する。  九本の尾の先端がぶつかり合い、カチャカチャと音を立てる。カーボンの布地部 分は綺麗に折り畳み、黒衣のフックに引っ掛かる。全て折り畳んだ後はワイヤーを 巻いて通し、固定される。引っ張るだけで直ぐに解く事が出来るが、複雑な構造に なっている。念動力を使えば、それなりに簡単に戻せるが、慣れない時期は手こず って、戻すのに三十分以上かかる事も多かった。 「叔父だけでした、私の事を受け入れてくれたのは。でも叔父は父とはまるで生き 方が違う人でした。丁度、輝紫桜町の様な、歓楽街と貧困街がひしめく様なところ で密輸品を取り扱う商売をしてました」  叔父は何でも調達できる人だった。これが欲しいと言ったものは、わざとらしい 仕草をしてみせても、素早く苦を見せる事もなく調達してくれた。  手広いコネとハッタリを武器に、器用に立ち回る。そうして、たくましくダウン タウンを生き抜いてきた人だった。  今となっては、自分の家系の歴史を知る術はないが、叔父が言うには、弟である 私の父が大きな企業へ就職できたのも、そんなコネクションがあったからだと言っ ていた。当の叔父は行儀の良い会社は性に合わないと言って、その生き方を変えよ うとしない変わり者でもあったが、そんな叔父の価値観や柔軟性は、良くも悪くも 公平で、壊れかけていた私の心に、新たな力を吹き込んでくれた事は確かだった。  持って生まれた力を使わないのは、ただの甘えだと叔父は言った。手持ちの札以 外に信じられるものはない、どんな境遇に置かれてもそれが真実であると。 「あなた、輝紫桜町には……」 「入り口前を通っただけです。でも、親近感のある雰囲気でした」  やはり彩子さんは、私の口から出た、輝紫桜町と言う言葉に目ざとく反応してき た。そうなる事は想定済みなので、素通り程度と言っておく。  この調子だと、男達に襲われかけて挙句、男娼に助けられた。なんて、とても言 えないな。 「そんな酷い所で暮らしていたの……」 「そうですね、酷い所でした。常に緊張感があって、この力を使う事に躊躇を感じ なくなるぐらいには。叔父と暮らした三年間で私は強くなれた」  吊るした黒衣をよけて、ベランダの窓ガラスの前に立つ。密集するビル群の隙間 から溢れ出る、黄金色の朝日を浴びた。瞳を貫く様な鋭い黄金色は疎ましいが、同 時に温かみもある。  叔父と過ごした三年間。それまでの生活から一八〇度変貌した生活。友達と言え る者はなく、外の同年代からは育ちの良さを妬む敵ばかり、通信教育で学ぶ教室の 代わりはアパートの狭いベランダか、ベットの中か。家事と自炊を覚え、時には叔 父の晩酌に付き合う日々。  当然、そんな叔父と――危ない橋を渡る事も度々あった。 「でも、力だけではどうにもならなかったようね」  彩子さんの言葉は正に図星だった。返す言葉もない。  「残念だけど、あのSSDには何の情報もなかった。それどころか接続したパソコ ンまでウイルスに感染して駄目になったわ。あなたの協力者であるクラッカーイン プの抜け目ない常套手段ね。警察としては歓迎できない協力者ではあるけど」  薄々そんな予感はしていた。考えてみれば、元々荒神会の情報を教えてくれたの は、他でもないCrackerImpなのだから。根こそぎ奪って、荒神会を引っ 掻き回したのだろう。 「ここ二、三年ぐらいで、その道ではかなり名が売れてきてる凄腕のハッカー。で も、それだけの腕を持っているのに、集団サイバーテロや詐欺行為等には手を出さ ない、スキル誇示の昔気質な変わり者。あまり儲けてる感じではなさそうね」 「そうですね、変わっているけど、親切なハッカーだと思います」  確かに儲かってはいないだろう。私の事情と未成年である事を理由に、彼は最低 報酬の半額で、この仕事を引き受けてくれたのだ。そして何らかの仕事も掛け持っ ていて、この社会に紛れている。  今も彼は、私達よりも更に先の情報を集めているのだろうか。  CrackerImpは、何時も私の話をよく聞き、深入りこそしないが、親身 になってくれた。頭の回転が速く、形に捕らわれない柔軟性を持っている。叔父と はまた違う魅力を、感じていた。  CrackerImpも、叔父も、そして彩子さんが羨ましい。自分の成すべき 事をしっかり見据えて、直向きに、地に足の着いた行動がとれる人達が。  それが大人だと言うのなら、やはり私は未熟者以外の何者でもない。 「叔父さんは今、どうしてるの?」 「死にました。酒場で、どうでもいい様な喧嘩であっさりと……」  窓ガラスに置いた手が拳を握っていた。あの時と同じ感情を思い出していた。  何が原因だったか、本当に思い出せない。それぐらいに、どうでもいい理由だっ たのは確かだが、余りにもあっけない終わり方。  聞きたかった事、教わりたかった事、せめて言いたかった今生の別れの言葉。叔 父の死に抱いた感情はただ一つ。悔しさだけだった。 「それからの二年間は、独りでひたすら弟の行方を追いかけてました。Crack erImpは叔父の知り合いだった、香港のハッカーからの紹介でした。彼のお陰 で弟の行方が一気に見えてきたんです」  私にとって師であった、叔父の死もまた私を強くしてくれた。僅かばかりの財産 を他の親戚共から守りながら、何とか独りで生活していた。  時にはこの力を振りかざして、誰かを不条理に陥れる事も辞さなかった。何時し か、私に近づく者は誰一人いなくなった。それが良くなかったのだろうか。  何事も自分を中心に考える様になっていたのかも知れない。その決め手は、常人 には持ち合わせない才能、サイキックが使える自分だけだと。  CrackerImpや彩子さんの言葉をよく考えもせず、自分の力を向けるべ きところへ向ければ、全て上手くいくと。  しかし、現実はどうだ。向けるべき時に力を使えずに男娼のポルノデーモンなん かに助けられ、苛立ちの矛先を忍者に向ければ、返り討ちにあう。一体、何をして いるんだ、私は。 「きっと……あと、もう一息なんです。それなのに私は、自分の力に溺れて、傲慢 になっていた。何でもできるだなんて、自惚れて……」  分かった様な風で何も分かっていない。自惚れているだけ、私は――野狐禅だ。  胸が苦しくて窒息しそうになる。右手の握り拳が震えて、やっとの思いで息をす れば、今度が視界が一気に潤み、情けなく頬を伝っていく。  それを抑えようとすればする程、身体が震え、呼吸も乱れていく。震える様に漏 れる息にひたすら悔しさを覚えた。 「今は、クラッカーインプからの情報を待ちましょう」  頭の後ろから聞こえる彩子さんの言葉と同時に、背中から彩子さんの体温を感じ 取る。私の息遣いは、今だに震えていた。  涙を拭おうとするが、彩子さんは離してくれなかった。抱き寄せられた腕が少し 緩んだ次の瞬間には、振り向かされ、更に強く抱きしめられる。彩子さんからは僅 かに汗と薄れた香水の匂いがした。  頭を数回、撫でられる。その心地良さについ身を委ねそうになる自分を堪えてい た。私はもう、そんな年齢ではないと思っているからだ。  彩子さんの優しさに、これ以上甘える訳にもいかないと思っていても、彩子さん の手は止まらなかった。頭を撫でたその手は、そのまま私の頬を伝う涙を親指で拭 う。否が応でも彩子さんと目が合い、私は反射的に目を背けてしまった。  彩子さんの顔をこれだけ近くに見るのは初めてだった。こんなに綺麗な人だった のかと、今更ながら思った。その目は鋭く、精悍な顔立ちながらも、大人の女性と 言う色気の様な物も纏っていた。強く真っ直ぐな目の奥にある、深い情の様な感情 を私は直視できなかった。  頬に触れていた手は、何時の間にか顎に触れていて、ゆっくりと視線を上げられ る。  彩子さんの目から私は逃れなくなる。鼓動が激しく脈打っているのは、噎び泣き のせいなのか何かも分からなくなった。今にも触れてしまいそうな距離。 「普段は大人しいのに、時折、衝動的に突っ走って意固地になって……そう言う所 が、陽葵によく似ている」  私の知る母と、彩子さんの知る母が、大分印象が違うのは仕方がない事。娘と友 達と言う立場の違いもあるからだろう。でも、確かに大人しいと言う印象だけは共 感できた。母は何時も物静かで、笑顔の絶えない人だった。叱られたり、喧嘩した 思い出がほとんどないのは、私が普段は大人しい性格だったからなのだろう。  彩子さんにとって、亡き友人である私の母、陽葵の面影を私に重ねて、何を想っ ているのだろうか。 「とにかく、今は焦っても心を消耗するだけよ。一眠りしてから次の行動に移りま しょう」  彩子さんの額が私の額に触れる。正直、このままキスでもされるのかと思うぐら いの緊張だったが、流石にそんな事はなかった。  一眠りか、確かに疲れがどっと押し寄せてきた。今横になれば数秒で寝れそうな 勢いだ。軽率な行動への後悔は消えないが、彩子さんと話し、心に溜め込んでいた ものが流れた事でほんの少しだけ、身軽になれた様な気がする。 「次の行動?」  一眠りをする前に、彩子さんの言う次の行動について聞いておこう。今の私は尚 も込み上げてくる焦りを抑える事で、精一杯なのが現状ではあるが、他に何か、C rackerImpからの情報を待つ以外の事でやれる事があるのなら、それに全 力を尽くしたい。  自分に成すべき事がある、少しでも前進してると言う実感。それだけが、私の唯 一の原動力であるからだ。 「あの忍者に心当たりがある……」

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