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00001110.― CRACKER IMP ―  数列の水辺に心を浸し、重ね合わせた醜い心を貪っているんだ。それは均一で優 劣も存在しない世界。  それが、俺にとってのデジタルの世界。以前の事は忘れてしまった。  あの街で、頭を撃ち抜かれ“変わってしまった”俺は、多くの事を“0と1”で 簡略化できる様になったのだ。まるでパンセクシュアルの理屈みたいに。  心と身体の汚れすらも、たった二つの数字。それしかない、意図も容易く割り切 れる筈なのに。  この世界には無駄は存在しない。全てに意味があって成立するんだ。もっとも単 純で完璧な世界――それなのに。  何故、此処には空間がある。こんな、こんな不効率の塊が海楼商事の核心、アク アセンタービルの中枢だと言うのか。三次元の――サイバースペース。  アクアセンタービルを構成するハニカム構造のネットワーク。総合管理、海楼商 事、ビル運営システム全般、その他テナント向け。  あの時、漫画喫茶では辿り着けなかった“総合管理”のエリア。ここを乗っ取れ ば、文字通り全てが手に入る。  その重要なエリアがこんなゲームやSNSの様なチープな空間に集約されている なんて。しかし、圧倒的な没入感があった。  焦って集中し過ぎたか。完全に意識を――持っていかれた。  デジタルブレインと半同化状態になって、感覚的に端末の操作、ネットワークへ の干渉が可能になったが、何時も心の何処かでブレーキをかける様にしていた。  集中し過ぎると、身体全ての感覚が消えてコードの中に自分が溶けていく様な感 覚に陥いるのだ。戻れなくなるんじゃないかと不安になる。心と身体の分離。  焦りと重圧が勇み足になって、気が付くと此処にいた。来てしまったと言うべき か。  しかし、この状態が一番パフォーマンスが高いのも事実だ。今は後の心配よりも やるべき事を優先しよう。  肉体的、物理的な感覚が失われている。ボコボコにされて犯された身体の感覚を 一時的にでも忘れられるのは悪くないかもな。  何にしても、これは想定外な状況だった。この空間において、データ化された俺 は現状はただの“点”に過ぎない。  実体化する為のプログラムを急ぎ構築しなければ。サイバースペースを効率よく 動くなら“アバター”が必要である。  AIや端末のコード入力だけで成立できる物を、わざわざ仮想空間を作って管理 しているのは不効率に感じる。一体何の為に。  でも考え様によっては、俺みたいなのには有利かもしれない。俺は実態を持つ人 間だから、直感的な動きには強い。  簡易的だが、身体を作る事に成功した。平面で二進数のコードが丸見えの人影の アバター。まるでゴーストだ。  随分と物寂しい風景だ。一面吸い込まれる様な漆黒で、真っ赤な点が星々の様に 散りばめられている。時折、青い光の筋が遠くまで伸びては消えていった。  行き止まりもない広大な空間だが、壁をイメージすれば、透明な壁ができた様な 感覚になる。その見えない壁に手を当てれば、アクアセンタービルのあらゆるセク ションにアクセス出来た。物理的な制約がある様でなく、感覚がある様でない感覚 はまさにゲーム感覚で、あやふやな世界だった。  アクアセンタービルのセキュリティと運用プラグラムを見付けた。逃走の際に必 要になる。このシステムは“留めて”おこう。  先ずは総合管理のソースにハッキングして全てのシステムを掌握しなくては。検 索ソフトを使ってソースの位置を特定した。  ここから数キロ先にあたる位置。通常のハッキングなら向かうなんて発想もない だけに不便を感じる。  移動する。方法は走るか、飛ぶか。こういう場は発想が物を言う。仮想現実なら なんでも出来る。制約や固定観念に捕らわれず、自由意思のままに――テレポート で一瞬だ。  景色が一変する。そこは幾つもの赤い壁がそびえ立ち。谷底の様な歪な起伏があ った。妙におどろおどろしい雰囲気。  本当におかしな空間だ。その中の特に大きな壁に触れてアクセスする。特製のマ ルウェアを流し込めば、アクアセンタービルの全システムとデジタルブレインを同 化させられる筈だ。急がないと。  目的の物がすぐ目の前にある。しかし、それに触れるべきかどうか、決め兼ねて いた。ここまで何もなく辿り着けた事自体が気味悪い。――“ガーディアン”は何 処にいるんだ。  高度なセキュリティAI。或いは信じ難い別の何か。何れにしても、俺より格上 の強敵。  必ず何処かに潜んでいる。そう考えると、このソース自体が怪しく思えてきた。  かといって、このまま何もしない訳にはいかない。右手をかざし、壁に触れ様と した時、違和感が全身を巡った。動けない。  目を凝らして見ると、細い糸の様な物が全身に絡み付いていた。抗えば余計に付 着していく。まるで蜘蛛の糸だ。  下らない茶番に思えたが、どうやらこれが“ガーディアン”がハッカーのCra ckerImpを迎え撃つ為に仕掛けた罠。  なんて事だ。このサイバースペースその物が、俺をハメる為に構築された空間。  サーバーに直結したその時点で――俺は罠にかかっていたんだ。  頭の上を何が蠢いている気配がした。  目の前を細い脚、鋭い鉤爪が流れていき、全身に覆い被さる。黒光りするボディ にグリーンのラインが怪しく光輝いている蜘蛛型のドローン。仮想現実に過ぎない が、迫力がある。  コイツが“ガーディアン”のアバターなのだろうか。考える間も与えず蜘蛛の前 肢が肩と胸を突き刺し、首筋に噛み付いてきた。ある筈もない痛みや衝撃をじわり と感じた。  視覚的な情報が邪魔して、正確な対処が儘ならなかった。  噛み付かれた首筋から、コードを流される様な感覚に襲われる。不味いな、この ままだと、デジタルブレインのシステムを破壊されてしまう。  気をしっかり持て、集中して本来の視界に戻さないと。蜘蛛型ドローンなんかい ない、身体は拘束なんかされてない。ここは重役会議室内のサーバー、本来この目 に入るのは自分の両腕だけ。視界がノイズだらけになる。AI達のタクス状況を確 認する。それだけに集中するんだ。  仮想現実とノイズを突き破り、隙間から微かに見える自分の左腕。ここまで見え れば充分だ。サーバーに接続したプラグを指に絡めて引き抜く。目の前が一瞬で闇 に包まれ静寂に包まれる。  ぼやけた視界、劈く耳鳴り。生体機能の調整を含め、AI達がせっせとタスクを こなしていた。状況を理解するには、もう少しかかりそうだった。 「……蓮夢! 蓮夢! しっかりしろ!」  耳鳴りのお陰で怒鳴り声も籠ってぼんやりしている。徐々に状況を把握し始めて た。まだAI達に呼び掛ける余裕はないが、状況の整理だけは出来そうだった。 「お前……やったのか? こ……サイボーグ……」  少し離れた場所で重々しい長机を倒している鵜飼が何かを言っている。多分、さ っき倒したサイボーグとオートマタの事だろう。どうでもいい。  “ガーディアン”のサイバースペースから強制的に出られた理由。仮想現実から 自力で現実に引き戻れた。厳密には双方を正しく認識して割り切って思考できたの が原因と言うべきか。  どうやら頭の中のAIの一つが、俺の命令を無視してタスクを中断していたらし い。ログデータに記されていた。丁度、あの壁に触れる手前、怪しいと感じた辺り からだった。  あの時、AIが機転を利かせて待機モードに入り、俺の状況の監視していたらし い。いや、見守っていてくれていたんだ。――長い付き合いだもんな。  再起動が済んだ様だ。脳神経にかなりのダメージがある。顔に触れてみると鼻や 目から出血していたのが確認できた。テツが心配そうな顔をして、身体を支えてく れてる訳だ。  予想外の攻撃を受けたが、致命傷ではない。“ガーディアン”は俺を仕留め損ね たのだ。――ヤツにとっても痛手の筈だ。  あのサイバースペースは“ガーディアン”が作った物だ。何から何まで不利な状 況だろう。しかし、あそこを越えないと辿り着けない。  仮に“ガーディアン”をあの世界で追い詰められたとして、どんな不条理が起き るか。  でも、大丈夫。少し分かった気がした。“ガーディアン”の事が。スペックも技 量も格上である事に変わりはない。決して油断は出来ないが。――知恵比べなら。  身体の痛みや頭痛がハッキリしてきた。現実の俺はボロ雑巾だ。今は仮想空間に 逃げてしまいたいところだけど、早急に準備を済ませなくては。その為に集中した かったが、目の前でテツと鵜飼が何か言い争っていた。まったく、こんな時に。 「二人ともうるさい! 今考えてるんだ……」  屈強な御二方が一瞬で静かになる。  その場に跪いて、ゆっくり呼吸を整えた。腰にぶら下げたまま、腕に接続してい た補助端末を開いてその場に置く。  モニターには、幾つものコードが滝の様に流れ込み、保存と削除を繰り返してい る。並みの端末なら即座にクラッシュしてしまう程の膨大なデータ処理だった。 「テツ、俺がこの部屋に向かってから、どれぐらい経った?」 「十五分少々だ」  サイバースペースに一時間以上は居た様な感覚が残ってる。やはり現実の時間と 意識のみの世界では、かなりのズレがあるようだ。 「状況は?」 「オフィスで待ち構えていた連中は殲滅した。これからが敵の総攻撃になる……」  鵜飼が机を倒しているのはバリケードの代わりと言う訳か。扉も内側から閉じて いた。本当にジリ貧の籠城戦が始まるんだと実感が沸いた。 「何分、持ち堪えれる?」 「お前が望む限りだ」  リーダー気質なテツの言葉は頼もしくて、根拠はなくとも受け入れられた。幼馴 染みや戦友達が、テツに信頼を寄せて戦っていたと言うのも、納得できる。 「出来れば十分以内だ。鉄志の残弾も心許ない。俺に弾切れの心配はないが、鉄志 の方がなぁ……」  皮肉で挑発的だけど、鵜飼がテツの事を気に掛けてくれているのが伝わった。刀 と銃でも二人の技量が高いから成立している。  現実的な話もありがたい。十分か。時間の感覚がおかしくなるけど、出来るだけ 早く“ガーディアン”を何とかしないと。 「いざとなれば、敵から奪う」  テツの様子からは安心感を得られるし、嫌なヤツだけど鵜飼にも。この作戦に向 き合ってくれている。だからこそ――絶対に成功させる。  俺がやるんだ。俺がやらないと。俺にしか出来ない唯一の事を。 「了解。テツもここまで本当に感謝してる。鵜飼にも、ありがとう……」  テツは身を屈め、俺の左肩に手を添えた。左手でテツの手を握る。テツの目から 不安と期待、両方を感じ取った。  保証してあげれるものなんか何もないけど、信じて。と、この目で応えるしかな かった。  鵜飼も右肩をポンと叩いて背を向けた。意外だな、嫌われているのは間違いない けど、励ましてくれるなんて。右肩は突き刺されたせいで痛むので触って欲しくな かったけど。サイボーグやオートマタを倒した部分で、少しは見直してもらえたか な。そう言う事にしておこう。  テツからもらった最後のモルヒネを動脈へ流し込む。もはや気休めにしかならな いけど、僅かでも痛みと言うノイズが減らせるなら。 「これから“全て”を使ってハッキングする。運動器官も視覚も聴覚も閉ざす。目 の前で敵が銃を向けてきても、一切見えないし動けない。二人を信じるよ……」  震える手でおぼつかないザマだが、サーバーに接続したままのプラグを再び左腕 に差し込む。早速“ガーディアン”がマルウェアを送り込んできた。予想通りだ。  クソウザいマルウェアを弾いて、侵入を再開する。  さぁ、集中しろ蓮夢。俺は腕利きのハッカー、CrackerImpだ。  “数列の水辺へ身を浸し どこまでも深く落ちていく”  “コードを食い破り望みのままに解き放て……”  心で唱えておく、おまじない。さっきしくじったのは、きっと、これをやってお かなかったからだろう。だから今度は大丈夫。  ドクン、胸を突き破る様な衝撃。意識を持っていかれるのではなく、今回は自ら 解き放ったのだ。こんな衝撃を感じるのか。  さっきとは違う景色。どす黒い石畳に赤錆びた扉が幾つか点在し、見上げれば崩 れ去った天井から真っ赤な空を覗かせていた。――廃墟、古城のイメージか。  俺を誘い込む為にわざわざ手の込んだ舞台を用意したのか。それとも俺のサイバ ースペースへの理解と解像度が上がったのだろうか。  非現実的な景色だが、限りなく現実的な質感を神経が読み取っていた。  殺伐とした地獄の様な世界。そう表現でもしているのだろうか。チープな発想だ な。――俺は本当の地獄で悪魔呼ばわりされて生きているんだ。  “ガーディアン”お前の底が見えてきたよ。さっさと姿を現せ。子供騙しな茶番 の続きを付き合ってやるよ。

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