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序章~忍者の噂~ 「遂に出たんだよ、この街にも! 忍者が出たんだよ!」  先輩殿は朝から話したげな雰囲気を出していたが、唐突な話題だった。 「忍者って、最近ネットとかでよく噂になっている奴ですか? 確かにそれっぽい 画像や動画見ますけど、眉唾じゃないですか?」  人気の少ない窪んだ駐輪所の階段に先輩殿と腰掛けながらの、ちょっとした職務 放棄。おサボりの最中だ。  一応、この会話で先輩殿が気持ちよく話せるように、軽い否定から入る。  バーカ、違ぇんだよ! と先輩殿が気持ち良く話し出せるように。 「バーカ、違ぇんだよ!」はい、来ました。「この目で見たんだよ! あれは間違 いなく忍者だったんだよ!」  その興奮した口調とは裏腹に、先輩殿は手慣れた感じで手際良くジョイントを作 っていく。  呆れたものだ。曲りなりにも警察官だというのに。とは言え、自分もそのおこぼ れを楽しみにしてる口だったりするが。でなければこんな薄汚い駐車場で先輩殿の 話に聞く耳など持つ筈もないだろうが。  ライターで炙られたジョイントから漂う香ばしい草臭さ。高校に通っていた頃も しばしば嗅いでた臭いだが、始めたきっかけはこのろくでもない先輩殿の影響だ。  学生の頃に堪えていた数々の誘惑も、大人になってしまうと徒労に過ぎなかった と思い知らされる。 「一昨日の話だけど、巡回してた時に、ホント偶然だったんだけど、雑ビルと居酒 屋の間の裏路地から聞こえた小さな物音が気になってよ、様子を見に路地の奥の方 に入ったら……」  先輩殿はジョイントを咥えたまま、両手をパンッと合唱して見せる。  「正に鉢合わせってヤツさ、距離にして五メートルそこら! 薄暗かったが確実 に睨まれてたぜ」  それだけで忍者である。と言う根拠は何処に? と怪訝そうしていると、先輩殿 から待望のジョイントが回ってくる。控え目に吸い込み喉にチリチリと絡み付く煙 を深く押し込んで余韻を楽しんでから、ゆっくりと吐き出す。 「全身黒ずくめでよ、マスクして頭巾と言うよりはフードっぽかったな」  先輩殿にジョイントを返す。確かに忍者といった風貌だ。  こういう時に参考になるのは、大体にして今まで見てきたアニメやゲームの情報 が脳内で補完してくれる。最初、忍者という言葉を聞いた時は、子供向けアニメの 世話焼きな忍者くんを連想していたが、今はしっかりとスタイリッシュなシルエッ トが形成されていた。  「顔は見えなかった。マスクとバイザーかなんかしてて目は怪しく緑色に光ってや がった」  現代技術も取り入れる忍者。随分使い回された様なネタにも思えるが、忍者は侍 の様なプライドよりも、任務完遂の為に手段を択ばない合理主義だったとも聞く。  手裏剣なんかよりもサイレンサー付きの銃でも使うのだろうか。忍者と言うより エージェントやらスパイの様な感じで、少々味気なく感じるな。 「それで、どうなったんですか?」 「壁を蹴り上げて、パイプやらなんやら、掴めたり足場になそうところをどんどん 上って行って行き止まりを乗り越えていった。あっという間だったな」  今度は軽快なパルクールの様な身のこなしか。先輩殿の話し振りからは冗談では ない事は確かだが。妙な気分にもなる。  インターネットもテレビも、現実とは思えない他人事で、下らない雑学が右へ左 へ流れていくだけの物で、実感のないものの筈なのに身近にそれが来ると不気味さ すら感じる。 「確かに忍者って感じですね。この街も益々物騒になってきてるなぁ」  ため息交じりに言葉が漏れた。俗に言われる“日本崩壊”から一世紀程経ったが 未だに、この国は立ち直れてない。  世界中を混乱に陥れたウィルスを引き金に、経済も医療も崩壊し、政治機能すら も停止したこの国の貧困と治安は、底なしに落ち続けた。ここ半世紀程で何とか回 復傾向と言われてはいるが、歴史的に見ても今の日本はかつてない程、変わり果て てた言う。  実感の様なものはないが、この一〇〇年少々で世界が大きく変わってしまった事 は確かだ。 「噂じゃ忍者ってのはデカイ企業や政治家なんかが雇い主になっているって言うじ ゃねえか。こんな北側に需要があるのかね?」 「日本中無法状態ですからねぇ。自分等も、なんでこんなご時世に警察やってんの か、分かんなくなりますよ」  再び回ってきたジョイントを吸い込み、煙を真上にふわりと吐き出す。忍者の雇 い主か。  現状、我々警察も含めて形ばかりの政府機関の意向などはお構いなしに、国内外 の企業がシノギを削りあい、反社会的な組織が幅を利かせている。本来、国として 機能していれば許される事ではない。しかし、その様な勝手をした者のみが生き残 れるのが日本の現状だ。  国や法律に頼る者から消えていく。自己責任の名の元に自律して行動してきた事 で、この国の人達はなんとか消えずに済んでいるのだ。 「警察なんかで世の中どうにかなるもんじゃねぇだろ。給料分働いて、たまに職権 で美味しく頂いとくのさ」  先輩殿へジョイントを返す。悪い人ではないが、やはりろくでもない人だ。  この街の警察官ならこれぐらいが丁度良いのだろうか。東北エリアでも最大を誇 る、この大歓楽街、輝紫桜町キシオウチョウなら。  ここへ来て半年少々。欲望と堕落にまみれ、雑多で猥雑なネオンの煌めきが止ま ないその雰囲気に慣れる気配は、今でも微塵もない。 「うわぁ、引くわぁ……悪徳警官だね」唐突に上から発せられた男の声にびくりと 衝撃が走った。「お巡りさんがこんな所でおサボりしてていいの? しかもそれダ メな奴じゃん」  見上げた先にいるのは、柵に両腕を置きながらこちらを見下ろす男だった。  長くボリュームのある七三分けの黒髪にははビビットピンクのウィッグを絡めて いて、黒とピンクのスカジャンをわざとらしくはだけさせて肩を露出させていた。  この輝紫桜町で“ポルノデーモン”と呼ばれている男娼だった。 「今時、こんなもん限りなく白なグレーじゃねぇか。それよりもお前の持ってるヤ ツの方がよっぽどアウトだからな」 「さぁて、何の事やら……。身体検査でもしてみる? 優しくしてよね」  柵にもたれてスカジャンを更にはだけさて見せる。女物のトップスだろうか、肩 どころか背中まで大きく露出している。中性的な顔立ちのその表情は、常にこちら を小馬鹿にしている様な不敵な笑みを浮かべている。気色悪い。 「ったく、何時から聞いてたんだ?」 「忍者がどうのこうのって話から。おもしろそうな話だね」  大分、最初の方から聞いていたらしい。上の方など気にもしていなかったが、そ れにしても盗み聞きをしてながら、この馴れ馴れしい態度。まったく鬱陶しい。  この歓楽街にいると、嫌でもこう言う連中が視界に入ってくるがとにかく嫌だっ た。色々あるのかも知れないが、それでも嫌悪感の方が勝る。 「お前には関係ない話だ! 向こうに行け、ホモ野郎!」  当然の事を言ったつもりだが、周りの空気が凍り付く様な雰囲気に包まれる。  背を向けるポルノデーモンの左目はカラーコンタクトか義眼なのか、ほぼ暗紫色 の眼球に赤い瞳孔。その目と睨み合っているが、表情は意外にも柔らかく、こいつ 何言ってんだろ? と言った調子できょとんとしていた。 「俺ホモじゃないし」  どの口が言っているのだ。金の為とは言え、想像したくもないが男に抱かれてい る奴がホモではないと、意味が分からない。 「おいおい、良くない言い方だぞ。勘弁してやれよ」  意外にも先輩殿がこの男娼を庇った。そうなってしまっては、こちらからはもう 何も言う事はなかった。でもだ、だってだと、こんなのにムキになって反論する事 もあるまい。 「そうそう、クソみたいな口の利き方は良くないよ、おつむの程度がバレるぜベイ ビー」勝ち誇ったの様な鼻持ちならない笑みを浮かべながら、根元まで吸い尽くし た煙草をこちらにはらりと投げ捨てた。「忍者捕まえたら教えてね、紺ちゃん」  そう言ってポルノデーモンはこっちに向かって中指を立てながら去っていった。  先輩殿の苗字、紺野からくる愛称なのだろうが、馴れ馴れしいを通り越して親し さすら感じる。まさかとは思うが先輩殿はソッチ系なのだろうか。 「ったく、何なんスか? アイツは」 「伊藤ちゃんよぉ、お前はこの辺来たばかりだから知らないだろうけど、アイツは あれでいいんだよ……」  先輩殿は笑いながら言い、吸い終えたジョイントを地面へ磨り潰した。  大歓楽街、輝紫桜町。つくづく妙な所だ。

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