6.― PORNO DEMON ― 今日は一日中雨か。億劫だな、夜には控え目になって欲しいけど。 でも、丁度良かったのかも知れない。今日は海楼商事のリサーチに外に出る予定 ではなかったし、どの道この雨では、森林公園も人が少ないだろう。それでも“エ イトアイズ”だけは公園近辺を巡回させている。 輝紫桜町の俺のアパートから、アクアセンタービル周辺。彼方此方の無線信号を 経由しながら、補助端末のAIに大体の事を任せて、俺は数十分おきに確認してい た。 作業効率はかなり落ちるが、やらないよりはマシだ。地道な餌撒き作業をやらせ ておいて、俺はさっさと目の前の機械いじりを終わらせてしまおう。 高さ一.五メートル、ガラス張りのメタルラックの中に詰め込んだ、剥き出しの 精密機械を、規則性を失った蜘蛛の巣の様に繋ぎ合わせるケーブル。上、中、下段 に冷風機のファンを設置し、反対側には換気扇を一つ。アパートの大家に黙ってブ チ抜いた壁の穴に向かって通気ダクトを通してる。 一個人どころか、大手企業でも大袈裟なぐらいの大型サーバーも、ようやく完成 目前と言ったところだ。 手の届かない様な、高価なパーツは後回しにしつつ、半年ほどかけて組み立てて いたが、この数週間で一気に調達できた。龍岡への借金を一気に返済できたお陰で もある。 あとは計画的に闇金から金を借りて、方々の闇市からパーツを仕入れた。そっち の借金も利息を含めて、今日中に返済できる。これでまた、貯金ゼロか。本当に金 のかかる脳みそだ。 でもコレさえあれば、この機械仕掛けの脳のパフォーマンスを維持して、龍岡の 持つ機材に依存せずに済む。お互いの負担を減らす事ができた。 龍岡の借金を返済した後の自分の人生なんて、ちょっとしたオマケに過ぎないと 思っていたが、今はまだ、CrackerImpの案件が残っている。 まだ立ち止まれない。ポルノデーモンには、まだまだ稼いでもらわないとな。 この大歓楽街の、ただのHOEに過ぎなかった自分。ハッカーの自分、そしてサ イボーグの自分。その全てにウンザリしてきてるのが本音だった。どんなに醜い奴 等が俺を汚していっても、この心だけは汚れない。そう言い聞かせて頑張って来た けど、ふと気付くと、俺はこの先の未来を何一つ見通せていなかった。 何時の間にか、背負ってしまったものへの、責任を果たす事しか考えていなかっ たのだ。もう、俺を縛り付ける者はいない、迷惑をかける相手もいない。Crac kerImpの今の依頼以外に、生きてる理由がなかった。 本当は、この心だって既に汚れきっているのかも知れないな。これから俺は、ど うなってしまうのか。そんな辛気臭い考えが何時も頭を過る。 何一つ、気が晴れない。酒を飲んでも、ドラッグをやっても、ましてや好きでも ない奴とヤるセックスなんかでは。 かと言って金にならないセックスを求める程の余裕もない。――ホント、クソな 気分だ。 「あぁ、しんど……」溜息とシケた言葉が漏れ落ちる。 サーバーの方は、正常に動いていた。初めて作ったにしては上々だ。早速、腕の コネクターと接続して、あれこれと仕込んでやる。人間の脳と、二機のAIの速さ にしっかり付いて来いよ。 悪くない感覚だが、早速サーバー内が熱を持ち始めた。思ったより、そうなるの が早い。最高峰のCPUと、これだけの大量のメモリを積んでいても、やはり人間 の脳の処理には及ばないか。 早々に冷却システムが作動して、サーバー内の温度をみるみる下げていき、二十 度前後をキープする。手間をかけた甲斐があった。 俺自身は、もっとパフォーマンスを上げられるが、これぐらいの加減で使った方 が良さそうだ。概ね、充分な速さだろう。数時間かかる作業が五、六分で済んでい るのだから。一先ず良しとしよう。 ソファに置いてあるドラッグケースに手を伸ばし、買ったばかりのコカインを吸 い上げる。何が上物だよ、ズーハンの奴、適当な事を言いやがって。 沈みがちな気分が少し落ち着いてきたところで、他のタスクにも意識を向けてみ る。“エイトアイズ”の視界を除いてみると。やはり雨のせいで、森林公園にはほ とんど人がいなかった。それでも数人に餌を撒いたようだ。 今日はこれで打ち止めだな。帰りの距離を考えると、バッテリーも心もとない。 “エイトアイズ”は帰路に就かせる。 さて、これからどうやって海楼商事を、アクアセンタービルを攻略するか。 アクアセンタービル内にはジムやレストラン等の一般利用施設もあり、そこに入 り込み、探りを入れる手もあるが、頻繁に出入りすると目立つ。明確な理由がない 限りは利用を控えるべきだ。 そこから直接忍び込んで、海楼商事のサーバールームへ行けないかと色々と考え てはみるが、入り込める隙間はどこにもない。俺の専門外だし、それ以前にあのビ ルの構造が――特殊だった。 では俺の専門の方はどうか。当然だが、独立したサーバーにオンラインを通じて 侵入できるルートは少ない。ところが先日、偶然にも一か所だけ、侵入可能なルー トを見つけた。つまり罠である。 おそらく入り込めば、こちらも筒抜け状態になって、居場所はおろか、下手をす れば、こちらがクラッキングされかねない。この選択肢は保留中だ。何らかの準備 と、姑息な手段でも考えないと。 そして、苦肉の策。“組合”の殺し屋さん。鉄志との共同戦線。 どうにか、殺されずにあの場を凌いで、今後も立ちはだかる事を想定して、手を 組まないかと提案したが、多分嫌われちゃっただろうな。ヤバい組織の殺し屋って 肩書さえなければ、素敵な雰囲気の人なんだけどな。 この街で、色んな人間を見て来たけど、あそこまで断固たる意志で、躊躇や葛藤 を素早く乗り越え、圧倒的なスキルを最大限に発揮できる奴は見た事がない。 もし、味方になってくれるなら、どれだけ心強く、安心できるか。 あれから“組合”についても調べてみたが、俺が予想してた以上に危険で強大な 組織だ。戦争も裏社会も、この世の争い事と名の付くもの、全ての需要に応える世 界規模の秘密結社だ。差し詰め――闘争御用達のイルミナティ。 アクアセンタービルで会ってから三日経つが、連絡はない。今日も来ないだろう な。午前中か午後一と言う、指定した時間帯はとっくに過ぎてしまった。 これだけ大きな組織に対して、絶対負けないと、大口を叩いた事は、ちょっとだ け後悔してるが、それでも、俺の能力には興味がある筈だ。あの感じだと“組合” はまだ、何の情報も掴んじゃいない。 傭兵、暗殺、諜報工作員に用心棒と、穏やかじゃない連中を育成して斡旋する組 織が何故、人身売買の組織に興味を持っているのか。共に裏社会の組織だが、畑違 いだ。 少なくとも、正義を行うなんて事はないだろう。何らかの利用価値があるからこ そ、探りを入れているのだ。 クライアントさんの弟を含めて、攫われた人達を救うと言う目的に対して、最悪 “組合”と言う組織が障害になる可能性もある。鉄志を通して、その辺も探りを入 れておかないと。 鉄志をこちらに取り込むのは難しいだろうな。組織とHOEでは、どうやったっ て、釣り合わない。安っぽい色仕掛けなんかに、なびくタイプでもなさそうだし。 そう言えば、そろそろクライアントさんにも何か報告をしておかないとな。 荒神会は完全に息を吹き返している。表立った動きはないが、海楼商事も警戒を 強めている筈だ。今後、連中の考えられる行動は、荒神会を筆頭に、引き続き港区 の支配を継続する事だろう。 市が再開発の為に躍起になって、警察と有志と共に抵抗しているが、その力も通 用しなくなっていく頃だ。海楼商事の方が金も影響力もある。必ず圧力をかけて来 るは目に見えていた。 俺の方は総本山の海楼商事を攻める事で手一杯な状態だが。今、危惧しているの は連中が――密輸を再開するかもしれないと言う可能性だ。 奪ったデータを逆に奪われたのは痛手だ。今でも納得できていない、荒神会の連 中が車の中でメモリーを起動した時、メモリーに仕込んだセキュリティが作動しな かった事を、いや、作動してる筈のクラッキングプログラムが、一瞬で書き換えら れ、無効化された事だ。 その手のソフトウェアは存在しているが、あそこまで臨機応変に、そして高速で 対応できる様なものは存在しない。未だにそのからくりが分からなかった。 海楼商事の独自プログラムだろうか、もしそうなら、中々に手強いAIだ。 俺が海楼商事から情報を奪うまでの間に、荒神会が港区での活動を本格的に再開 されたら、流石にキャパオーバーになる。 どこまで頼りに出来るか、刑事の坂内彩子にもコンタクトをとって、情報を渡す べきだろうか。それも早い内に決めないと。 腕のコネクターを外し、有線から無線接続へ切り替える。これである程度、脳内 にソフトウェアやアプリを詰め込まなくて済む。脳への負荷も減らせる。 いずれはこのサーバーにも、俺の創ったAIではなく、龍岡のAIを搭載したい が、今はとてもそんな金は用意できない。 あと数分もすれば、“エイトアイズ”も帰って来る。輝紫桜町の中でも油断なら ない。最近は常に“エイトアイズ”を飛ばして警戒していた。数日前もいやにガタ イの良いチンピラっぽいのが、無料案内所で俺の事を探っていた。 情報SNSの“ヘルアイズ”と“エイトアイズ”の監視から目が離せない状況だ った。 煙草に火を着けて、ソファに深く腰を下ろす。そこに放り投げてた携帯に目が行 った。こっちの問題にも対応しないとならない。 現実に引き戻される様な虚しさ。そう、俺は唯一無二のサイボーグで、多くを思 考して、何かをやり遂げたところで、所詮は――輝紫桜町のHOEなんだ。 やらなきゃならない事が余りにも多過ぎて、結局マッチングアプリの問題を先送 りしていた結果がこれだ。とうとう最悪の客に捕まってしまった。 アプリの不都合なんかじゃなく、単なる“乗っ取り”だったが、今は稼ぎ時なの もあって、中々アカウントを消す事も出来ない。確実な利益の為には、呼び水を断 てなかった。自業自得ってヤツさ。 この客だけはどんな手を使ってでも避けたかった相手だったのに、“乗っ取り” は、ご丁寧にも、この客にメッセージを送りつけていて日取りまで決めていた。 お門違いなのは承知だが、こう言う時に鉄志から連絡でもあったら、この客をか わす事口実も作れたかもしれないのに。でも何もないなら金を稼いだ方がいい。そ れしか選択肢がない。 “エイトアイズ”を回収したら、バッテリーを交換して、着替えて、闇金の返済 に行って、そのまま、夜はこの身と心をすり減らす。すり減らすだけの心が、残っ ているかどうかも分からないけど。 そして夜が明ければ、また数列の海に身を浸し、答えを追い求めるのだろう。 ヒステリックに叫びたくなる。――もう、限界だよ。って。 雨降りの輝紫桜町は、濡れた地面がネオンの光を反射させ、ケバケバしさが一層 増す。目が痛い。そしてビッチな服装には少し肌寒かった。 予報では雨は朝方に止むらしいが、俺には関係ない。正門裏のこの路地は元々雨 を凌げるし、もうじき客が来る。最悪の客と一晩中ホテルに缶詰めだ。 今夜はどんな目に遭うのか、平手打ちぐらいなら我慢できるが、グーで殴られる のは勘弁だな。 扱いの難しい客だった。下手に出ても、フランクに接しても、何時も逆上されて 乱暴される。レイプの様なセックス。屈服させ踏みにじる事に快楽を見出す、不安 定な心の持ち主。 どんなに羽振りが良くても、ぞんざいに扱われるのは、身も心も本当に堪える。 昔の俺なら、“ナバン”に飼われてた頃なら、耐えられただろうか。きっと、耐 えられるんだろうな。従うしか選択肢はなかった。若かったし、それしかないって 本気で思ってた。 こうして今、嫌だ。って思う事は自然なのか、ただの我儘なのか。それすらも分 からなくなる時がある。昔と違い、今は見えるものが多くて、信じるものもないか ら。 しかし、結論は稼ぐ為には仕方ない。稼がないと生きていけないだ。それは今も 昔も変わってない真理である。 七年かけて“億”の借金を返済し、それ以降の稼ぎは闇金への前借りで消えた。 働けども、働けども。と、この街で死ぬまでずっと、この言葉を使い続けるのだ ろうか。根元まで吸い付くした煙草を投げ捨てた。 正門を行き交う連中を横目に眺める。今夜は先客がいるから、通りから少し離れ て、それを眺めている。仕事帰りの飲み仲間、遊び好きのチンピラ共に、派手好き のパーティ狂い。シラフを装うジャンキー。そこにチラッと紛れているカップル。 そんな連中を尻目に、嫌だ、嫌だって思いながら客を待ってると、十代の頃を思 い出す。人の身体を、舐める様に見る目も、遠慮もなく触ってくる手も、快楽を覚 え始める自分に、人肌の温もりに気を休めてしまう瞬間に、何もかもが大嫌いだっ た。 自分は何故こんな事ができるのか、自分がなんなのか、他人に自分を見せてはな らないと、身構え続ける日々。それが堪らなく辛かった。 パンセクシュアルであると認識したのは、輝紫桜町に流れ着いて、しばらく経っ てからだった。それを教えてくれた人の事を思い出すと、無意識にチョーカーのク ラブを摩っていた。 初めて自分にしっくりきた感覚。長年付き纏っていた、ドロッとした胸糞悪いタ ールに埋もれてる様な感覚から、一気に身軽になれた気がしたのを覚えている。 同性とか異性とか、そんな事を気にする事なんてなかった。俺はただ、自分の心 に正直で在ればいいって、俺はおかしくないし、独りじゃないって思えた。 それまでは、淡々としたセックスと言う作業に過ぎなかったものに、僅かばかり の彩りが生まれた。俺も楽しめる様になったし、上っ面で一時の情であっても、存 分に味わい、心を満たす様にした。 その分、通じ合えなかった時の――反動も大きくなってしまったが。 今夜は間違いなく通じ合う事がない客の相手。分かり切っているから嫌なんだ。 ジャケットに突っ込んであるドラッグケースとシガーチューブを取り出す。太い 葉巻を一本入れる為のシガーチューブは、シャブを詰めた小瓶と注射器を入れるの に便利だった。 今、悩んでいる。ケースの中にあるラブドラッグか、シャブを打つか。どっちも 後が面倒だし、こんな気分じゃ最後にはバッドになるのも、目に見えてる。でも何 かキメてないと一晩、乗り切れる自信がなかった。 この数年、コカイン一択でどうにかセーブ出来てたのに。ヤバいな、また手当た り次第、乱用する引き金になりそうな予感がする。 どうしよう、どうしよう。嗚呼、久し振りにシャブやりたい、早くやりたい。生 身の脳がやかましく騒いでいた。 ホント、イカれてる。自分の脳を、自分の脳で達観してる様な感覚だ。お陰であ る程度、踏み止まれる様になったが。 駄目だ駄目だ。考え事が多くて溢れて来る。したい事としたくない事が混ざり合 い、ぐちゃぐちゃに掻き回してくる。 そろそろ客と約束してる時間だ。もう一本、煙草でも吸って落ち着けないと。い い加減気、気持ち切りを替えろ。俺は輝紫桜町のポルノデーモンだ。この地獄に相 応しいビッチを演じなくては。 「おい」 安物ライターの火が、煙草に触れるか否かのタイミングで、呼び掛けられた。ぶ っきら棒な言い方に身体がビクついたが、客ではなかった。いや、もっと最悪かも 知れない。 表通りの光で逆行してても、はっきり分かった。身体のラインに合ったスマート なスーツと、バランスの整った立ち姿。 嘘だろ、よりにもよって、何でこんな時に。 「鉄志さん……」 裏路地の暗がり、ネオンの赤と青の明かりが混じり合う淀んだ赤紫に染まった鉄 志は、少し雨に濡れていた。 鋭い目付き、精悍な顔立ち。その視線は、何故か俺の下半身の方へ移っていく。 ヘソ出し、肩出しのトップスに、内股の側も破れた黒のダメージデニムの姿。嫌 でも釘付けになるのも当然か。鉄志の表情がみるみる呆れ顔になっていく。 「何見てんだよ、そんなに気になるかい? 中のモノが……」 派手に裂けたデニムにいやらしく手を入れ、少し広げて見せる。そうする為に裂 いたところだ。と言っても今日の下着は、なんて事ない物をはいてるので、刺激は 控え目だろうけど。 相変わらず、愛想のない雰囲気だ。どうせ下らない偏見の目を向けているのだろ う。オスだのメスだのって。 こう言う時、俺は何時もお構い無しに相手を挑発する癖がある。堂々として見せ 付けてやるんだ。これが俺の普通だって。 変な目で俺を見る、お前等が変なんだって、徹底的に抗う。相手が根負けするま で抗い続ける。 もっとも、鉄志はやり辛い相手だった。反応も薄く、それほど嫌悪感も露骨じゃ ない。 今はどちらかと言うと、俺の方が辛かった。こんな時に会いたくなかったと、こ の場から消えてしまいたい気分だった。 「話がしたい、ちょっと来い」 輝紫桜町に遊びに来たついでに、俺に会いに来てくれた。とはいかないか。やは り、用があるらしい。ホント、苛付く。 「俺の話、聞いてなかったの? 事前に連絡してくれって、それも午前か午後一で って、言ったよね?」 名乗りもしないし、情報も共有しない。尤も、現時点で“組合”は情報らしい情 報も持っていないのだろうけど。 鉄志は俺の事を信用していないし、対等どころか、真っ当に取り合う程の価値な んかないと思っている。常にそう言う態度だった。力関係と主導権を緩めないよう 徹底している。 それは仕方ない事だと思っていた。俺だって立場が逆なら、そうしてると思う。 でも、流石に今回ばかりはふざけんなって、言ってやりたくなる。 「そこで油を売ってるだけなら暇だろ」 マジでキレそう。どうして、そんな事を言うんだよ。 でも、堪えるしかない。鉄志にはどうしたって敵わない。武装したヤクザとオー トマタを、最低限の動きで一掃する様な化物だ。 煙草に火を着けて、壁に凭れる。煙を鉄志に向けて吐き出す。これぐらいの抵抗 しかできなかった。 「お生憎様、今夜の俺は予約済みだよ。鉄志さんの方が魅力的だけど、今夜は勘弁 してよね」 実際、どうしようもないんだ。暇なんかじゃないし、油を売って今ぐらい金を稼 げるなら、とっくの昔にやってるよ。 これ以上、鉄志に話す事は何もない。好きなだけ蔑んで、呆れて帰ればいい。 何で、こんな時に来るんだよ。本当なら待ちに待った再会だったのに。進展が期 待できる状況だったのに。どうしてこんな時に。 再び煙草を口へ近づけようとした、その瞬間、煙草を持つ右手首をグッと掴まれ た。言葉で蔑むだけでは飽き足らずに、また力づくで来るのかよ。 どいつもこいつも、俺を人として扱わない。――ホント、マジでキレそうだ。 「ふざけるな、その尻軽な火遊びとこっちの件と、どっちが大事なんだ!」 俺は咄嗟に、右手にあった煙草を握り潰した。一瞬の熱から激痛が皮膚を劈く。 その痛みのお陰で、どうにかキレずに冷静さを繋ぎ留めた。ここで勝ち目のない 殴り合いをすれば、僅かな可能性すら失ってしまう。 堪えろ、堪えるんだ。 「どっちが大事? 海楼商事の件さ、当たり前だろ。なら、聞くけどさ……」 脳は激しく落ち着け、堪えろと信号を発している。AIから来る信号だ。それで いい、正しい判断だよ。俺の生身の脳もそれに同意してた。 しかし、抑えが利かずに言葉が続きそうになっている。幾ら脳が合理的に思考し てても――心は抑え付けられなかった。 怒りと悔しさと、卑屈で悲観的な感情が、腹の底から脳天にまで押し寄せて、込 み上げてきて、途方もない苦痛が全身を包み込んでいた。止められない。 「俺にコンタクトするのが、そもそも遅いんじゃない? そっちこそ今まで何やっ てた訳? アンタはいいよ、気楽なもんさ、その気取ったスーツを着て、二、三日 を浪費出来る余裕もあるんだから。俺は一日だって無駄には出来ない。金も稼がな いと動けないし、掻き集めた情報を纏めながら、次を考える。仮眠して、ヤクで誤 魔化して、したくもない奴に股を開いて……。アンタに何が分かるんだよ! 俺の 何が!」 鉄志が掴む俺の右手首は、今にもへし折れてしまいそうなぐらい、力が入ってい た。痛いよ、何もかも。 鉄志の胸ぐらを掴むこの左手も、殺気立った鉄志の目も。どうして、こうなるん だよ。どうして心が見えないんだよ。 なのに何故、俺は鉄志に自分の心をぶち撒けているんだ。抑えが利かない。 「分からないな、分かりたくもない!」 鉄志の胸ぐらを掴む手はあっさり解かれて、壁に押し戻され叩き付けられる。ガ ッシリした力だった。俺の力では太刀打ちできない。 このまま崩れ落ちてしまいそうな身体を、辛うじて両手で支えている。項垂れる 頭を必死に堪えて、鉄志を睨んだ。 いや、睨んでなんかいなかった。鉄志は俺を見て、たじろいでいる。 理由は分かっている。俺は今、すごく情けない顔を鉄志に見せているからだ。も う、堪え切れなかった。怒りや悔しさがなかったら、きっと声を出して泣いていた んだろうな。 「同意した相手を拒むのは、この街じゃご法度なんだ。俺にはケツ持ちする組織の 後ろ盾もない、何処にも属してないから。これでトラブルになると、関係ないとこ に、あちこちに迷惑がかかる……。他の迷惑なら気にしないけど、これだけは駄目 なんだよ……」 これだって鉄志に言わせれば、知った事じゃないのかも知れないけど、今夜ばか りは、いや、しばらくはHOEを続けないとならない。馬鹿だよな、他人の偏見に ムキになって言い返したところで何になる。それで理解してもらえた試しなんて一 度だってないのに。 何を言われようが、どんなに蔑まれようが、金を稼がないとならないんだ。その 現実は変えようがない。 うなだれた頭を上にあげて、深呼吸する。ばつが悪い沈黙を紛らわすのは雨音だ けだった。 「なぁ、こうしようぜ。仕事が終わったらすぐ連絡するよ。そっからは全部空ける し、そっちの都合があるなら、それ従うから……。頼むよ……」 鉄志の胸に手を添えて哀願する。不本意だし、惨めだけど。俺には、それしか出 来なかった。ホント、自分が嫌になる。 「終わるのは何時だ?」 「俺は時間じゃなく一晩で売ってる。夜が明けるまでか、客がいいと言うまで。遅 くても、八時までには連絡できるよ……」 他の奴等と比べても、鉄志の心は見え難い。それでも話の通じる人で、辛抱強い 方だと思っている。 冷静にちゃんと話せてれば、こうはならなかった筈だ。でも、今の俺は、とても そんな気分にはなれなかった。 「分かった、待ってやる。済んだら連絡してくれ」 俺の手を払い、呆れ返った表情を鉄志は俺に向けてきた。そんな目で見られる事 なんて、何時もの事じゃないか、何て事ない。慣れてるし何も感じない。その筈な のに。 張り裂けてしまいそうな程、胸が痛かった。こんな事で心が塞ぎ込むなんて、輝 紫桜町のHOEとして失格だ。 終わった後、また鉄志と会わないとならないのか。一体、どんな顔をして会えば いいんだよ。 「ありがと。もう行ってよ、荒っぽくてキレ易い客なんだ……。アンタと話してる とこなんか見られたら、早速殴られちまう」 また少し、雨が強くなってきた。けたたましい雨音と、喧騒の中に鉄志が消えて いく。 もう、両足で自分を支えてられない。このまま崩れ落ちて、いっその事、消えて なくなりたかったけど、それは叶わない願いだった。 ひたすら続いていくんだ。何故なら此処は――地獄だから。
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