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第五章 1.― JIU WEI ―  なんて酷い有様だ。この長方形のローテーブルは黒の大理石柄だと言うのに、拳 銃とその弾丸が転がり。書類や図面が不規則に敷かれ、灰皿の吸殻も溢れ返ってこ ぼれていた。  最近になって気付いたが、彩子さんの部屋が今まで綺麗に整っていたのは、彩子 さん自身が警察の仕事で生活らしい事を、ほとんどしていなかったからだと言う事 を。――数日放っておくと、すぐにこんな状況だった。  そして、その散らかし屋は珍しく外で飲んで来て、今はシャワーを浴びていた。  頼まれていた買い物をキッチンへ置いて、軽い溜息を一つして、ゴミ箱を手に吸 殻を捨てた。散乱した書類を整えていると彩子さんのノートPCが埋もれていた。  一通り整頓してテーブルの大理石柄が見える様になったタイミングで、彩子さん がシャワーを終えた様だ。  世話になってるどころか、危険な事にも協力してもらっている身分なので、こう 言う事で文句を言う気はないが、女性らしからぬ、だらしなさに思えた。  それとも、そんな心にこびり付いた“らしさ”を当てはめるのが傲慢なのだろう か。だとしてもだらしない。 「あ、ユーチェン。帰ってたの」 「ちょっ! 彩子さん! なんて格好してるんですか!」  この光景も最近増えてきたな。彩子さんは辛うじて下は穿いているが、上半身は そのままでリビングにやってくる。バスタオルを首にかけて、何となく隠れてはい るが、何て言うか、勘弁してほしい。 「ん? 別にいいじゃない、今更……。って訳にはいかないか、ユーチェンはお年 頃だし。ビール持ってきてくれる?」  寝室のスライドドアを開けて、彩子さんは着替えを始めた。ドアは開けっぱなし である。  叔父もあんな感じだったな。シャワーを浴びて、パンツ一枚のままビールを飲ん で。叔父と違うのは、引き締まった綺麗な身体をしている事ぐらいだ。  念動力で横着して、冷蔵庫に入っている冷えた瓶ビールと、その冷蔵庫の上に置 いてあるワインとグラスも用意する。  彩子さんは何時も、ビールの後は決まってワインを飲んでいる。  黒いベルボトムのジャージとカーキのタンクトップに着替えた彩子さんは宙に浮 いた瓶ビールに手を伸ばすが、意地悪に瓶ビールをこちらに手繰り寄せて、先に頂 く事にした。半分ぐらい飲んでやった。 「コラコラ、未成年!」 「中国では十八から合法です。それによく叔父の最初の一杯には付き合わされてい ましたから慣れてます」  とは言え、叔父が死んでからお酒は飲んでいなかったので、数年振りの飲酒だっ た。これだけでフワフワとしてしまった。 「それで、CrackerImpからの報告は?」  インディゴのソファに深く座り込んだ彩子さんに瓶ビールを手渡す。半分減った ビールを不服そうな顔をしながらも一気に飲み干した。 「調査対象の情報をやっと渡してくれました。今までは相手を警戒させない様に慎 重にリサーチしていましたが、今後その必要はなくなったそうです。世界中の人身 売買組織が攫った人間を集めて管理してる黒幕が“海楼商事”。その目は今、完全 にCrackerImpに向いたそうです。文章越しでも珍しく興奮した雰囲気で したよ」  CrackerImpから届いた久し振りの報告。荒神会の裏に潜む黒幕の正体 だ。随分前からCrackerImpは知っていたが、私や忍者の鵜飼が荒神会に ちょっかいを出したのが原因で、鳴りを潜めてしまった。結果的に彼の足を引っ張 ってしまった。とんだ失態である。  敵の規模や影響力も未知数な状況であれば、慎重になるのは無理ない。それを理 解もせず焦って空回りを繰り返していた。  同じ時間を過ごしている筈なのに、CrackerImpには無駄が何一つもな い様に思えて、羨ましかった。 「海楼商事……。あんな大企業が、まさか黒幕だったなんて。外資でも今や日本の 貿易産業の半分以上を独占している様なところが。警察では到底、抱え切れない大 物だな」  そう、とんでもなく大きな企業だった。彩子さんは動じる事なく、その名を聞い て即座に受け入れた。  私自身、海楼商事の存在は子供の頃から何となく知っていた。貿易商だった父の 仕事内容は知らないにしても、その名が耳に入り、その名の入った書類を目にする 機会が沢山あったからだ。 「それを良い事に、世界中から好きな物を好きなだけ出し入れしている。こんな物 まで……」  密輸業者から奪った書類の中から、とりわけ厄介な物を引っ張り出した。彩子さ んはそこに描かれた図面と画像付きの資料に眉をひそめる。 「全天候型戦闘用オートマタ、強襲型ドローン。それに“高速戦車”まで……」  球体状のタイヤによる高い機動性と、分離されたボディで悪路の高低差も物とも せず、平地ならば一五〇キロのスピードも出せる有人の陸戦兵器では――破壊不能 と言われている最新兵器だった。  画像の高速戦車には、主砲とガトリング砲、対空兵器がゴテゴテと装着された上 で標準装備とされている。 「今回が第三陣とある。既にこんな兵器が日本に入り込んでいるなんて、こんな事 容認できない」  伝統工芸的な加工が施されたゴブレットグラスに、なみなみと赤ワインを注ぎな がら呟いていた。  ソファの開いているスペースに腰を下ろし、ぐいぐいとワインを飲む彩子さんを 眺めた。 「これまでに挙げた中小の密輸業者が荒神会に金を払って、利用してるコンテナ船 に黒幕が海楼商事なら納得もいく」 「忍び込んで、密輸品を押さえましょう。弟の様に、また攫われた人達がこの国に 送られてくるかもしれない……」  CrackerImpが懸念していた密輸の再開。それが遂に始まったのかも知 れない。何としても阻止しなくては。  その為に今日まで港区を走り回ってきた。鵜飼への手助けは予想外だったが。  あの女忍者も、荒神会と言うよりは海楼商事との繋がりだろうか。あの女を逃が したのは痛恨の極みだった。  念動力で完全に捕えていたのに、あの女忍者から急に発せられた、細い針で鼓膜 から脳までを貫かれる様な――超音波の様なものに念動力を解除してしまった。  あれが何かは分からないが、仮に身構えていたとしても、あの痛みと衝撃は防ぎ 様がない。  サイキックは未だに未知の力。実はそんな時代はとっくに終わっていて。対サイ キック用の対策や戦略も既に存在しているのかも知れない。そんな不安すら、覚え ていた。 「CrackerImp独りに負担を与えたくないけど、このコンテナ船について 少し情報を仕入れて欲しいところね」  確かに何千と言う数のコンテナを積んでいる船だ。忍び込んで闇雲と言う訳には いかないだろう。CrackerImpなら正規品と密輸品の識別ができるかもし れない。  早々にCrackerImpに相談してみるのも良いかも知れない。今の彼のテ ンションなら快く引き受けてくれそうな気がする。  それにしても数時間前の彼とのやり取り。カフェの店内で何度、笑いを堪えた事 か。今この瞬間にも思い出してしまうと笑えて来る。 「彼は独りではないそうです。何でも頼れる相棒が出来たらしくて、その……」  CrackerImpとのメッセージを思い出して含み笑いが言葉を遮る。 「どうしたの?」 「いえ、CrackerImpの届くメッセージがおかしくて、彼、その相棒の話 になると、何だか凄い嬉しそうで自慢気で……。それがなんか好きな男の子の話を していた友達に似ていて……。CrackerImpにも、そう言う一面があるん だなって」  最近、成り行きで組んだ相棒だそうだ。何とは言ってなかったが、とにかく腕利 きで頼りになって、カッコいいらしい。  それでいて思考は固くて鈍いけど、ごくたまに良いアイディアを提供してくれる から刺激的な存在だと、嬉しそうな雰囲気を始終文面越しに漂わせていた。  CrackerImpの物腰柔らかな気質なら、どんな相手とでも上手くやって いける様な気がする。彼は賢くて、物事を常に平坦且つ多面的に捉えている。私に もその技量や器が少しでもあったなら、鵜飼と上手くやれたのかも知れないが、あ の石頭が相手なら、おそらくCrackerImpも苦戦するだろうな。  今のところ、私は一人で戦い、彩子さんにフォローしてもらう状態がベストだ。 「だとしても、危険には変わりない。彼のやってる事は、部屋で黙々とパソコンを 触ってるだけじゃない。そんなイメージを持っていたけど……。私達を危険から遠 ざける為、無茶してる。本来なら……」  言葉を一度止めて、深い溜息の後にワインをゴブレットグラスに注いだ。彩子さ んの眼から、無力感と口惜しさが滲んでいる様に思えた。 「彩子さん?」 「この一件、あくまでジャラを助ける事が最優先なのは変わらないけど、できる事 なら、警官として組織を挙げたかった……。でも相手が大き過ぎる」  注いだばかりのワインをあっと言う間に飲み干して、また一つ溜息をする。彩子 さんが、刑事と言うキャリアに未練があるのは明らかだった。正しい事の為ならば 未練なんてないと言うが、それは詭弁だ。  警官も刑事も、誰でもなれるものじゃない。彩子さんは雰囲気で分かる。叩き上 げで刑事まで登った人だと。  残念ながら、既存の崩壊した法律を目安に成立してるこの国の警察では、巨大な 外資系企業に物言うのも限界がある。彩子さんには言わないし、きっと私以上に当 事者なら分かっている筈だ。――腐食し切っている事も。  この問題を解決するにはアウトローとして行動するしかない。自分と言う、主観 極まりない良心を唯一の依り代として。  私にとっては慣れた感情であり、それしかないが、今の彩子さんは天秤を失った 状態だ。警察と言う、正義の一つの基準を。私には図り兼ねるストレスがあるのだ ろう。 「まずはこのコンテナ船を押えないと。CrackerImpの足を引っ張らずに 済むのなら尚更ね」 「あと、四日で着港……」  それでも、彩子さんは前へ進もうとしている。私と同じ道を。テーブルにまとめ た書類に目を通している。私も幾つかの資料を手に取って眺めた。でも頭に入って こなかった。  私のせいでと、罪悪感を覚えるのは容易くて何の意味もない。本当に考えないと いけないのは、私が彩子さんに何が出来るかだ。  そう、何も考えてなかったな。ジャラを救った後の事を。目先の事に集中しなく てはならないが、考えなきゃいけない。もう私と弟だけの問題ではないから。   「少しもらってもいいですか?」  ゴブレットグラスに手を伸ばすと、彩子さんは反射的にハッとしたが、何も言わ ずにグラスを差し出してくれた。ワインを飲むのは初めてだった。  葡萄の香りが心地良い、少し多めに飲んでみた。香りとは裏腹に渋みが口の中を 襲って来る。そのあと少しづつ香りと甘みが舌を包んでいく。 「葡萄ジュースみたいな味がするとでも思った?」 「ちょっと期待してました……」  しかめた顔を見て、彩子さんは笑っていた。まだ私には、その良さと言うものが 分からなかった様だ。  お酒を美味しいと思った事はない。しかし憧れはある。母や叔父も、お酒が好き だった。そして幸いにも、楽しく嗜む人達だったから悪い印象がないのだ。 「そう言えば、あの本。まだ読んでるの?」  彩子さんは残りを飲み干し、三杯目を注ぎながら聞いてきた。あの本と言うのは LGBTQ+について書かれた本の事だろう。  時折、彩子さんはその本に何が書かれていたかに興味を示して聞いて来るのだ。 「いえ、途中で読むの止めました」 「どうして?」 「何か、違う気がして……。あの本は読み進める内に、だんだん押し付けがましく なっていって。彩子さんの言う通り、言葉に捉われて人にラベルを貼るものじゃな いなって思いました。LGBTQ+やSOGIEと言う知識や考え方は、知ってお くべきだと思います。でも最後には結局“私とその人”の関係なんだなって。ある 人も言ってました“相手の事を知って、自分を知ってもらう”事が大事だって」  言葉の意味を噛み締め、考え抜いて、人を思い描いて、心に向き合って。何周も した先に見出だした私なりの答えだった。  ありきたりかも知れないが今の私にはこれが精一杯だし、心底これに尽きると思 っている。  すぐに実践するものでもないし、結局のところその時その時に、受け止めるしか ないんだ。 「成長したね、ユーチェン」  酔いに頬を染めた彩子さんの目はどこか満ち足りていて、高揚に笑みを浮かべて いた。 「日本に来て数ヶ月。歓楽街で知らない価値観を見せ付けられて、忍者に鼻っ柱を へし折られて、この力の在り方を知って……。成長と呼べるかどうかは分かりませ んが、少し変われた様な気がします。中国では弟の為に凶暴な妖になるんだと、そ れしか考えてませんでした。でも、それじゃ通用しない。私は、人だから……」  家族を失って叔父と共に形成してきた自分は、かけがえのない財産だ。あの頃は 狭い世界を広げる事なんて出来なかったし、無我夢中で力を振りかざして正気を保 つので精一杯だった。――きっと叔父もそれ知ってて私を放任していたんだ。  何時もまでも現状維持と言う訳にはいかない。私にとって幸いなのは、そんな現 実を突き付ける厳しく強い者と、傍で受け止めてくれる温かい人達が傍にいてくれ た事だった。 「ねぇ? ユーチェン」  三杯目を飲み干したグラスを置いて、彩子さんが顔を近づけて来た。不思議な雰 囲気、整った顔立ちは美麗そのものだったが、その目は強く雄々しい。 「貴方から見て、私はどう見える?」  彩子さんの手が、私の髪に触れた。時折、彩子さんは私の髪に触れる。本人は無 意識の行動の様だが、始めの頃は驚かされた。  始めは優しく撫で下ろして、その後は毛先の辺りを弄ぶ。  どう見える、か。ずっと気になっていた事だった、彩子さんの事。何処か心の奥 底で感じていた違和感。始めの頃はそれが日増しに大きくなっていき、不安に思う 事もあった。 「酔ってるんですか? 彩子さん」 「そう、かなり酔ってる」  彩子さんの顔が迫って来る。身体を反らそうとしても逃げ切れず、ソファに仰向 けになってしまう。  彩子さんも身を乗り出している。まるで押し倒された様な状況だ。 「空港で初めて貴方を見た時、陽葵が帰ってきたって本気で思った。ちょっと可愛 く若返った陽葵が帰って来たって……」  間違いなく、彩子さんは酔っているし、私も少し酔ってきていた。今のこの状況 に大して慌てていないのは、酔いのせいなのか、信頼のせいなのか。  今更、分かり切っている事だ。彩子さんが私に母を重ねている事は。  彩子さんの事以上に、私が気になっている事は――彩子さんと母が、どんな関係 だったのかだ。 「私は……母の代わりに成れるんですか?」 「代わりって、どんな代わり?」 「分かりません、でも友達の在り方だって人それぞれだって、今なら解かります」  母親の若い頃の話を聞くのは、娘として複雑な気分になる事もある。それでも記 憶にある母との時間が少ない私にとっては、知りたいと願っている。  同時に知るべきでないのかと、踏み止まろうとしている自分もいた。きっと彩子 さんも母も、今の私には刺激が強い。何となくそう思う。 「その事について、どう思う?」 「私は構わないって思ってます。それに、彩子さんの事を信じてますから……」  彩子さんといい、ポルノデーモンといい。私があたふたして翻弄されてる様を見 て楽しんでいる。  彩子さんがからかってこんな事をしているのは分かっている。でも、本当に構わ ないって思っているのも本心だった。  このまま、どんな事になっても私は構わない。ワインのお陰だろうか、酔いに気 持ちも大きくなっている。  彩子さんの眼。鋭くて頼もしくて、力強い眼。若い頃の、今の私と同じぐらいの 頃の母は――この目を、どう見つめていたのだろうか。 「嗚呼、いけない、いけない! 本当に酔っちゃったみたい! 警察でも新人君達 によくセクハラだって言われてたんだっけ。いけない、いけない」  本当なら、私が慌ててジタバタとすれば良かったのかもしれない。でもそうする 気力もなかった。やっぱり酔っている。  彩子さんが変に取り繕うとしているのを見ていると、逆に申し訳なくなった。 「ちょっと早いけど、もう寝ようかな。四日後に備えないと……。おやすみなさい ユーチェン」  身体を起こして彩子さんはそそくさを寝室へ向かった。寝室のスライドドアがゆ っくり閉まるの見て。姿勢を起こした。  身体を起こして改めて酔っていると実感した。私も寝た方がよさそうだ。 「おやすみなさい、相棒……」  グラスに残っていていた一口程度のワインを飲み干して呟いた。ぼんやりとした 視界、重くのしかかる眠気。――早く大人になりたいな。  まどろみに堪えながら、私は今以上の成長を望んでいた。

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