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2.― KOGA LIU ―  おっと、資材を運ぶドローンの風に身体を流される。五階建て二〇メートルのビ ルに五〇センチの踏板だ、中々スリルがあった。安全第一、会社の決まり事ではあ るが、こう言う入り組んだ足場を見てると無性に駆け上がりたくなる。  このビルには漁業組合と貿易管理局が入るそうだ。近場には市場も設け、港区を 管理する拠点となる。人と企業の出入りをスムーズにして、犯罪組織が幅を利かせ られない様にする狙いがあった。  市にとって悩みの種だった海外の犯罪組織や、その傘下にあったギャングの類い も粗方消えた。俺と言う荒療治のお陰である。  後に残っている大物は荒神会のみ、あと一息と言うところまで辿り着いたと言う のに、その荒神会のバックにいる黒幕の圧力によって、賛同する企業や組織が撤退 してしまった。  この拠点が出来たところで味方がいなければ効果は薄いが、この建設会社の先代 と言うのが、市のお得意さんらしく、ここの建設作業だけは継続していた。まさに 要である。  噂では荒神会の息のかかった連中が因縁をつけてきて、幾つかトラブルを起こし ているそうだ。それが俺には丁度良かった。  九尾の黒狐に正体を掴まれ、役所には近づきたくなかった上に、しばらく港区の 監視が中心になるので、ここは丁度いい隠れ蓑になっていた。  割と気に入っている。力仕事だが、椅子に座ってパソコンをいじり、黙々と備品 管理をして、呆けるよりは充実感があった。 『おい! 原田! 社長が呼んでるってよ。下行けるか?』  レシーバーから鬱陶しい大声が舞い込んでくる。そう言えば、タイミングが合わ ず社長さんにはまだ会えてなかったな。  “飯豊テック”の飯豊雄也。若干二十歳で会社を継いだやり手の二代目だった。  俺の一個上で今は二十五歳だった。大したものだ、その若さで社長とは。大きな 会社じゃないが、俺には到底真似できない。  一気に下りてしまいたいところだが、安全第一、規則に従った手順で足場を下り ていく。  下に降りると、現場監督の菅原さんと、外車を背にした如何にもな風貌な男が立 っていた。ネイビーのスーツをラフに着こなしていた。仕事柄もあり体格もガッシ リしていた。  少々、強面ではあるが、表情は明るく気さくな雰囲気で握手を差し出された。軍 手を取り、気休め程度に手の汚れを落として握手に応える。 「原田君だろ? 悪いね、入って早々現場入りしてもらって。履歴書見たけどあっ ちこっちで仕事してたみたいだね、即戦力はありがたいよ」  たかが働き手一人に大袈裟な気もするが両手でしっかりと握手を交わした。  当然、偽物の履歴書である。今時、確認を取る様な会社も企業もない。非効率な 通過儀礼の様なものだ。  高卒から、幾つかの建設会社や派遣会社を転々とした経歴を持つのが“原田”の 設定である。  資格の類いはないので重機は使えない、力仕事なら経験もあるからお任せあれと 言った、若い労働者だ。 「こちらこそ助かります。直ぐにでも働きたかったので、迷惑かけない様、一生懸 命やりますんで、よろしくお願いします」 「堅い、堅い! もっと肩の力抜いてけよ。こちらこそよろしくな。俺も時々現場 入りするから。社長だなんて言っても、俺もまだまだ勉強中だし、みんなに助けて もらいながらやってるんだ。この仕事は市長さんから期待されてるものだから、し っかりやってこう」  さっぱりしていて、好感の持てる男だった。歳も近いせいなのか、俺もその好意 を素直に受け入れられた。 「ありがとうございます! 飯豊社長」 「あ、それNG。社長って言うのはなしだ。名前で呼んでくれていいから。気が重 くなるんだ、社長って響きがさ」  すぐに伝わった。社長と言う言葉を聞いた瞬間に、右目がピクリと反応した。表 情こそ抑えているが不快感を抱いている様だった。  若くして上に立つ者の重圧と言ったところか。それなりにストレスは抱えている らしい。 「ああ、気を付けます。雄也、さん……」 「そうそう、そんな感じでよろしく頼む。にしても凄い筋肉だな、バッキバキじゃ ないか。なんかやってるの?」  雄也が両手で肩や腕、大胸筋部分に触れ、マッサージする様に揉んできた。  別にどうと言う訳ではないが、触りすぎじゃないか。程度には思った。まあ、役 所でもおば様方に時々触られる事もあって、慣れているが。 「まぁ……筋トレを日課にしたり、たまにジムでボルダリングとか」  勿論、それだけじゃなく、甲賀の秘薬も一役買っている。子供の頃からその為の 身体作りも徹底してた。国の混乱と共に、忍者に求められるものも膨れ上がってき て、もう俺達ぐらいの世代は特に鍛え上げられていた。  現代科学との融合、合理化と効率化によって、現代の忍者はおそらくどの時代よ りも高い身体能力を獲得している事は間違いないだろう。 「ボルダリングか! 俺もやってるんだ、今度勝負しようか?」 「是非、お願いします」  社交辞令であってもらいたいものだ。雄也はいい人である事は間違いなさそうだ が、あまりガヤガヤとした人付き合いは苦手だ。  もし、勝負するなら、さり気なく負けたりするのが筋なのだろうか。やはり面倒 だな。 「随分、ご機嫌じゃないですか雄也さん。なんかいい事でも?」 「最近、シザクラでお目当てのを捕まえる事が出来る様になってな、お陰でリフレ ッシュしてるワケ!」  新入りと社長の挨拶が一通り終わると、菅原さんが雄也と話し始めた。菅原さん まで雄也の事を社長と呼ばないのなら、本当に社長と言う呼び方はNGらしい。  それにしても気になるのは“シザクラ”と言う言葉だった。――輝紫桜町を意味 する隠語だ。紫桜。 「かぁ! 若いねぇ! でも程々にしてくださいよ」    どうやら下衆な会話になりそうだった。モテそうな容姿だし、羽振りも良いのだ ろう。プライベートな話だし興味もないが、入れ込んでる女でもいるだろう。 「原田、お前昼まだだろ? 言って来いよ」 「すみません、休憩頂きます。失礼します」  助け船だな、雄也に一礼してその場を後にする。氷野さんが信頼してるだけあっ て、雄也の人柄も含めて悪くない所の様だ。だからこそ、守らなくてはならない。  一先ず、ここを拠点に港区を監視していく。今後、氷野さんがどう動くかに関わ らず、この建物は無事に完成させてもらわないと。人の出入りを増やし、正規品の 流通を増やせば、密輸を追いやる事が出来る。その最初の要だ。  プレハブには同じく休憩している連中がいるが、今日は一人で食べたい気分だっ た。プレハブには近寄らず、歩いて数分のコンビニへ向かう。  入って間もない事もあって、出来るだけコミュニケーションを取る様に努めてい るが、肉体労働よりも遥かに疲れた。どうしても独りになりたい時がやってくる。  こう言う潜入の際には、円滑なコミュニケーションを取り、紛れ込む為の術は学 んではいるが、どうにも苦手だった。  人嫌いと言う訳ではないにせよ、俺の人間不信は相当根深いらしい。子供の頃に 受けた傷は一生物だ。  風除け室が付いたコンビニの二重扉を開き、昼時の店内へ入ると、同じ様な格好 の連中が多く利用していた。  取り敢えず、腹持ちの良さそうな弁当を適当に選んで早々に会計を済ませた。コ ンビニの商品をゆっくり眺めていると、あれもこれもと目移りしてしまうし、余計 に腹が減る。  出入口を出て、建物の横にある駐輪スペースに腰掛ける。さっさと食べてしまっ て仕事を片付けてしまおう。  割り箸を割ろうとしたタイミングで、お茶を買い忘れてしまった事に気付く。も う面倒だった。 「お疲れ様」 「おう……」  買い忘れたペットボトルお茶を差し出され、受け取った。ホットなのがありがた い。と、差し出した相手の顔を認識していながら、当たり前の様に受け取ってしま った。  欲しい物が手に入って満たされる気分と、奇襲に身構え強張る筋肉、状況を把握 しようと回り始める思考。それらが凄まじい速さで混ざり合い、全身を駆け巡って 展開されていく。結果として身体を大きくのけ反らせ、お茶を放ってしまう。弁当 は蓋のお陰でどうにかぶち撒けずに済んだが、中身は修羅の庭と化していた。  何故、コイツが此処にいるんだ。――九尾の黒狐。  間抜けな俺の様を見て、堪らず噴き出して大笑いをしていた。 「なにそれ、漫画みたいな反応! ちょっと、おもしろ過ぎる!」  腹を抱える様に大笑いをしている。自分の無様さを取り繕う余裕もなく、動悸の 乱れを整える事に集中していた。全く、格好がつかない。  ブルーのハーフコートを羽織り、背中まである髪は根元と先の二か所を髪留めで まとめている。年相応の屈託のない笑顔を見せていた。あの重々しい漆黒の化物に は程多い、普通の少女の雰囲気。そのギャップのせいか、笑われている事への怒り を抱く気も失せていた。 「黒狐……」 「今は、只のユーチェンよ。今日は丸腰。ま、やろうと思えば……」  ユーチェンは当たり前の様に隣に座り込むと、放り投げて転がっているペットボ トルの方に右手をかざす。ペットボトルがスクッと立ち上り、ふわりゆらりと浮か び上がって目の前にやって来た。  こうして改めて念動力をまじかに見ると、実に摩訶不思議な力に感じた。 「やれなくはないけどね」  ペットボトルのキャップが素早く回転して外れた。横目に見るユーチェンは早く 受け取れと言う顔をしていた。  ペットボトルのお茶を受け取り、一先ず頂く事にした。  今日は本当に戦う気はないらしい。前回は口じゃ穏やかな話をしていても、薄っ すらと張り詰めた殺気を常に感じたものだ。この状況と、これぐらいの気配ならば 会話もし易い。 「どうして此処が?」 「あの建設現場、市長が特に力を入れている施設なんでしょ? 漁業組合と貿易管 理局。それに自警団の駐屯地にもするなんて噂もある。犯罪組織への抑止力になる 大事な施設で数日前に起きた、派手なボヤ騒ぎ……。公僕の忍者であるアンタが警 戒してるんじゃないかと踏んだのよ。大当たり!」  前回、ユーチェンが俺の忍び装束に仕掛けた発信機は、外さずに敢えて付けたま まにしている。俺の動きを見せてやれば、黒狐の行動パターンは限られてこちらと しても読み易い。それが吉と出るか凶と出るか。  次にまた会うとすれば、今まで通り闇夜の中でお互いに本来の姿でとばかり思っ ていたが、予想外の再会になった。  大した推理力だ。こちらの立場と、港区の状況と情報を照らし合わせて割り出し た言う訳か。 「私、諦めないから。刃に切り裂かれ、猛毒を流されても絶対に……」  緩んでいた口元をキュッと結び、真っ直ぐこちらを見ていた。先程の年相応さは 失せ、とても強い目をしていた。  容易の想像できた。あの黒と赤の狐の面の中で、この目が殺気を放っているのだ ろうと。 「攫われた人達の中にお前の身内がいるのか?」  ユーチェンの視線が僅かに泳いだ。やはりそう言う事か。 「生きてると言う確証は……」 「生きてる……。でなきゃ、私はこんな生き方していない」  漠然としていて説得力がないが、ユーチェンの言葉からはおびただしい程の、悔 恨と執着、或いは信念か。そんな感情が情念の如く燃え上っている様な気がした。  普通の少女なんかじゃない。理由や動機は何であれ、ユーチェンは修羅道を行く 者だ。今日に至るまでの道のりが、壮絶なものであったと物語っている。 「裏口だが、市の命令で行動させてやる事もできるぞ」  酒の席での話だったが、鷹野の案をユーチェンに提案してみた。身勝手に動かれ て困るのであれば、管理下に置いてはどうかと言う案だ。  俺自身はこの案には賛成しかねるものがあるが、ユーチェンの言い分を尊重する のなら、この案は悪い話ではない。 「お断りよ、アンタと組むのはやめる。私は私の道を行くわ。アウトローの道を」  あれだけ俺にこっぴどくやられたにも拘らず、ユーチェンは挑発にも思える様な 薄ら笑みを浮かべてみせた。俺が良く使うアウトローと言う言葉を引用して。  それにしても、今までの黒狐とはまるで別人の様な余裕の見せ様だ。それまでは 焦燥感や警戒心を、感情を剥き出しにして荒ぶる事で覆い隠していたと言うのに。  この短期間で一皮剝けて成長したとでも言うのだろうか。益々、油断ならない存 在になりそうだ。 「なら、もう少し隙を減らす事だ。大振りな技ばかりで守りも疎か……。その手足 は飾りじゃないだろ? もっとコンパクトに動くんだ。ナイフの一本でも持ってた らどうだ?」  今となっては後の祭りだ。俺がユーチェンの提案を拒絶したのが原因だが、今後 も黒狐は俺達の与り知らぬところで活動を続ける事になった。あの時はそう思えな かったが、今の彼女には期待が持てるのだが。  餞別代りのアドバイスを送ってやった。九つの念動力に頼り過ぎず、心技一体を 心がければ、ユーチェンには常人には到達できない領域の強さを獲得できる筈だ。  そうなった時は、流石の俺でも戦いたくない脅威となる。 「考えておく……」  ユーチェンは静かに答えると、立ち上がって数歩前に出る。潮風が彼女の黒い後 ろ髪が靡かせていた。 「一つ忠告。今後、荒神会にちょっかいを出さない方が良い。今度連中を警戒させ たら、何もかも闇に消える。今は泳がせておいて」 「するとどうなる?」 「私のコネクションが有意義な情報を手に入れられる。約束してくれるなら、その 情報を提供してあげてもいい」  お互い釘の刺し合いだな。余計な事をするなと言ったところか。  しかし、手を出すなと言われても、それでは俺の仕事にならない。とは言えここ で拒んで見せれば、前回の二の舞を踏む事になる。  慎重に動くべきだと言う事は言われるまでもないが、俺が動く時は黒狐は監視し ている事を加味して動かないとな。 「敵でも味方でもない俺達の口約束に、信頼性があるとでも思うのか?」 「少なくとも、私もアンタも悪人じゃない」  ユーチェンは静かにその場を後にした。悪人ではない、か。かと言ってお互い善 人と呼べるかどうかも怪しいものだが。  ふとユーチェンが手にぶら下げていた買い物袋に目が行った。遠目に見ても弁当 類の容器が重なっているのが分かる。――黒狐には仲間がいるらしい。  俺も黒狐も迂闊に動けないもどかしい状況が続く中で、互いのコネクションに期 待しつつ、静かに行動して監視し合う事になりそうだ。まさに狐憑きだな。

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