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2.― CRACKER IMP ― 「ごめん……聞いてなかった……」  右手の甲に何か書いてある。多分、自分で書いたものだ。“メモを書けメモを読 め”と書いてあった。左手に持っているメモ帳の事か。  タクシーに乗っていた。モヒカン頭の若いドライバーが何かを聞いてきたらしい が、頭に入ってなかった。  そもそも何故タクシーに。何処へ行こうとしているのかも分からない。思い出そ うとすると、頭痛が一層酷くなった。  そうか、俺は――壊れてしまった様だ。  辛うじて正常だった俺が書いたメモを読む。デジタルブレインの重篤なシステム エラー。二機のAIと自分の脳との間で上手く情報伝達が出来ていない。規則性の ない記憶障害が起きているらしい。思考も混乱している。  メモには龍岡の元へ行き、用意したファイルを手渡す様にと記されていた。  吐き気がする。自分の置かれた状況を理解できない反面、本能が危機を訴えかけ ているけど、それすら実感がない。――狂ってる。 「アンタ、顔色悪いぜ。しんどかったら横になってな、着いたら起こしてやるよ」  モヒカンドライバーのお言葉に甘えて、身体を横に倒した。メモに書いている情 報だと、このタクシーはアプリで呼び寄せたタクシーだ。何故、ドライバーも指名 しているのか。  このモヒカンに見覚えがある気がするが、思い出そうと色々考えたくても何も出 来なかった。  AIの助けが不充分だと何も出来やしない。死んでるけど生きてる、まるでゾン ビみたいな脳だ。 「そう言えばさ、俺、仕事辞めたんだ」 「お! そうかい、ご苦労様。だったら尚更、早く元気にならないとな」  自分で何を話しているのか、イマイチ理解できてなかった。しかし、自分から会 話をしたと言う事は、このモヒカンと俺は一度会っていて、共有した話題を持って いる事になる。  AI達が補助してくれているらしいが、統制が取れず状況を把握出来ない。 「やってみたよ、傍にいて欲しいって言ってみたんだ。でも、やっぱり上手く行か ないよね……」  俺じゃない俺が、俺の身体と口を勝手に使って話しているのを見ている様で胸糞 悪い。しかし、この会話は俺自身がしたいと願っていたものなんだ。だからAI達 が代行している。  止められない。俺の脳はAI達との中間にあるシステムが壊れ、伝達する事が出 来ない。  タクシーの運転手との会話だ。悪い事もないし、不味い事もないが、俺の全てを AI達に乗っ取られた様な気分だ。 「諦めるのかい?」  諦める、何を。脳から脊髄にかけてビリビリと痛みが走る。 「今までなら仕事を理由に、簡単に諦める事が出来たのにね。それが出来なくなっ たから厄介なんだよ」  脳裏に、鉄志の顔が浮かんだ。この会話はテツと関係したものなんだろうか。  テツに会いたい。それとも、もう会えなくなってしまうのかな。何も分からない まま、気分だけが沈んでいった。 「何度も挑戦するんだね。アンタ賢そうだし、輝紫桜町の人間ってのはタフだ。そ うだろ?」  モヒカンの激励が適切なのかどうかなんて、記憶も思考も分解されて漂ってる様 なヤツに、理解できる訳がなかった。って言うか、何でこんな知った風な事を言え るんだ。歳不相応に思える妙な貫禄。――おもしろい奴だけど。 「他人事みたいに……」 「他人事さ」  バックミラー越しのモヒカンは目を細めて笑っている。ホント、敵わないなコイ ツ。笑えるよ。  身体中痛い。今日まで自分が何をしていたのか、そもそも何故此処にいるのかで さえ、曖昧になってきている。自分が何者なのかも認識が薄れていく。  思考が身体にインプラントされた、あらゆるデバイスに負荷をかけている。かと 言って止める事も出来ない。視界もノイズだらけで目を瞑っていても忙しなく蠢い て気持ち悪い。  それでも、心に何かが引っ掛かっているんだ。グチャグチャな思考の中で、執着 している。  このままじゃ終われない。まだ終わっちゃいけない。メモに頼って惨めに足掻い ているのは理由がある筈なんだ。  病院へ、龍岡の所へ辿り着ければ。それまでは何とか持ってくれ。  地獄の様に長く感じた数十分。ようやく輝紫桜クリニックへ辿り着く。モヒカン の手を借りて、タクシーを降りる。  代金の計算も出来ない。適当に渡してタクシーが去って行く。モヒカンと何かを 話していたが、もう認識出来ていなかった。  輝紫桜町で唯一の病院。コの字型の七階建て。相変わらず人の出入りが激しい。  病人も怪我人も、死体も――此処しかない。もうすぐ、もうすぐだ。  しかし、脚がもう言う事を聞かなかった。破裂しそうな程の頭痛に立っていられ ず、その場に跪き両手で頭を抑え込む。視界はノイズだらけで何も見えない、焦り ばかりが増していく。――このまま死んじゃうのかな。  這ってでも、まだ終われないんだ。身体を倒し這いつくばろうとしても、身体が 何かに支えられて、倒れる事が出来なかった。  ノイズだらけの視界で見上げても。覚えのない顔しかなかった。  いや、違う。俺の名前を呼ぶその声が鼓膜を震わす、低めで愛想のなさそうな聞 き慣れた声。この心を俺は認識していた。――鉄志。 「酷い状況だ。蓮夢がファイルに詳細を記してくれから、対応は出来るが……」  この天井、何処だっけ。それよりも鼻に入り込んでくる消毒液の匂い。座らされ ている椅子の感触の方に覚えがある。何時も定期検査に座っている、サイボーグ専 用のメンテナンスチェアーだ。  よかった、龍岡の部屋に辿り着けたんだ。  龍岡とテツが何かを話していた。視界のノイズは残っているが、さっきよりは収 まっていた。思考の混乱も少し落ち着いている。二人をハッキリ認識出来ていた。  左腕に繋がれたケーブルの先を追うと、俺の補助端末と龍岡のデバイスが接続さ れている。それが思考の補助をしているのか。負荷を恐れて接続しなかったが、そ の方がボケにならずに済んだのか。  倦怠感があるが、身体は動かせそうだ。半身裸の状態で椅子に座っている状態。  記憶の方は改善が見られなかった。思い出そうとすれば、頭痛が酷くなる。 「治せるんだな?」 「直して後どうする? 蓮夢に頼りきってる感じだな。また利用する気か?」 「利用なんかしてない。俺と蓮夢は共通の目的があって相棒関係だ」  頭痛が更に強まった。何かを言い合って揉めている二人の会話から状況を読み取 ろうとすると、負荷がかかった。  考える事も許されない。こんな簡単に思える事すらも儘ならない。 「相棒だと、聞いて呆れる。こんなになるまで酷使させて、何が相棒だ!」  ノイズが強まる。早く二人を止めないと、これ以上余計な負荷とストレスをかけ られない。  でも声が出す余裕もない。破裂してしまいそうな頭を両手で必死に抑えるので精 一杯だった。気付いてくれよ。 「釈明はしない。そうだ、蓮夢の力がなければ目的は果たせなかった。無茶を止め られなかったのは、俺の責任だ……」  違うんだよ、テツが悪いんじゃないんだ。俺が、俺が、思い出せない。俺が自分 の意思でやったんだ。それしか方法がなかったんだ。  「頼む……。蓮夢を、助けてやってくれ」  思い出せ、思い出すんだ。龍岡に話す為に壊れた頭の中を掻き回した。使い物に ならない自前の脳みそだけで、どこまで検索出来るのか。  思い出せ。俺は何故、こんな目に遭っている。自ら望んでやった。自分の為、誰 かの為――それは誰。 「龍岡先生……」  やっと声が出せた。視界が赤く染まっていく。頬を伝っているのは涙ではなく焼 け爛れた神経のカスが混じった血だ。  龍岡が気が付いて左目から流れた血を拭ってくれた。 「蓮夢、俺が分かるか?」 「俺が自分でやった事なんだ……。テツが守ってくれなかったら、俺は目的を果た せなかった。無茶するしかなかったんだよ……。世界中から攫われた人達がこの国 にいる。このままだと“怖ろしい事”に利用される……。止めないと……」  自分で何を言っているか正確に理解している訳ではない。それでも何の為に無茶 をしたのか、少しだけ思い出す事が出来た。  AI達がいなければ、使い物にならない筈の生身の脳だけど――まだ可能性は残 っているらしい。 「まったく……」 「心配だから来てみた。病院は此処しかないからな。倒れた時は焦ったぞ」  断片的な記憶。繋ぎ合わせる事が出来ない今の状況で、テツや龍岡が自分にとっ て大切な人達であると言う認識だけが、辛うじて残っている。  話しかけてくれたテツに何かを言いたいけど、何を言うべきなのか、その情報を 引っ張り出せないのが辛かった。 「そっちはどう?」 「俺の方は心配ない。今は治す事に専念しろ」  AIがテツに訪ねる。何が“どう”なのだろうか。俺の中に引っ掛かっていたも のをAIは定型文の様に代弁してくれる。  しかし、テツの言葉を正しく認識出来ない今の俺には、何を実感すべきが分から なかった。  正気と狂気が交互に切り替わっていく。どんなドラッグよりもブッ飛んだ状態だ った。制御出来ない。 「蓮夢、出来る事なら時間をかけて修復すべきだし、その後もしばらく入院しても らいたい。だが、お前の望みは違うんだな……」  俺とテツの間に入って龍岡が状況を話して来る。当然、ほとんどを理解する事が 出来なかった。  龍岡の目線がゆっくりと俺の右腕に移る。右腕の裏にも、手の甲に書いていた様 に何かが書かれている。ボールペンで何重にも重ね書きされいて、少し血が滲んで いた。――“全て承認しろ”  そう書いてあった。嗚呼、そうだ。  あの時の俺は、それを決める事が出来なかったから。今のゾンビみたいな脳みそ でも、それだけはハッキリ覚えていた。  俺はサイボーグになりたいか、生きたいかのか、このまま静かに終わりを迎えた いのか。俺には決める事が出来なかった。  でも今回は、数時間前の壊れる前の俺は決めていた。これは俺の決断なんだ。 「龍岡先生。俺にはまだ、やる事があるんだ……。俺がやらなきゃダメなんだ」  龍岡の手を握る。思う様に力が入らないのがもどかしかった。  もう一方の手も使って、龍岡の腕にしがみ付く。 「でも、それが何か分からくなって認識できないのが苦しい……。早く直して、お 願い……辛いよ……。全てを承認するから……」  自分の置かれた状態がどれだけ危ないのか、正しく理解なんて出来てない。今は まだ、分からないと言う事を認識出来ているけど、何れそれすらも認識出来なくな るだろう。それが堪らなく恐ろしいんだ。  確かな事は、数時間前の俺は覚悟を決めていたと言う事だ。どんなに苦痛で過酷 であろうとも全てを受け入れて、再び挑もうとしている。  その気持ちだけは、こんな俺でも理解できていた。 「分かった……荒療治だが二十四時間で修復させる」  項垂れる頭を龍岡は優しく上げて、姿勢を戻される。頭、顎、首を固定されて一 切動けなくなる。白衣のポケットから金属製のケースを取り出した。  ケースの中から糸の様に細い金色のドリルを二本引き抜く。何をする気だ。  その後も龍岡は手際よく身体を固定していく。腕も胴体も足も。  間違いなく手荒い処置が待っている。周りの空気が重くなって、緊張で呼吸が荒 くなっていった。 「何をするんだ?」  テツの言葉に答える事なく、龍岡は椅子の後側へ回る。その先には手術用やサイ ボーグ用の薬品が保管されているのを知っていた。 「眠っていても、思考は止められない。それが人口脳神経にダメージを与え続けて いる。だから特殊な麻酔を脳に直接投与して、“H.D.B.S.”を強制シャッ トダウンさせる。完全なオフラインと仮死状態。これで負荷はなくなり、効率良く ナノマシンが破損個所を修復する事が出来る」  頭の後でガチャガチャと何かをセットしている。ポコポコと液体が流れる音がし た。  今の俺に何をするのか、聞いたところでちゃんと理解出来ないだろうけど、心の 中は不安と恐怖に圧迫されて、吐き気が込み上げて来る。テツが俺に向ける不安そ うな顔も、見ているとかなりキツい。  後ろでの作業を終えた龍岡が視界に戻ってくる。淡々とした表情。  冷たく思えるけど、緊張を圧し殺して集中しているのが伝わってきた。龍岡は本 気で俺を直そうとしている。  椅子に座り、作業台の上にある端末を操作すると、椅子のメンテナンスアームが 起動する。やっぱり、酷い目に遇いそうだ。 「その間にOSを初期化して、蓮夢が事前に用意してくれたバックアップを使って システムを復旧させる。一日あれば、身体的な回復は九十六パーセント、機能面は 完全に復旧する」 「ちょっと待て、それを頭に直接……」 「脳にインプラントする時は、もっとデカいドリルを使うぞ。気になるなら部屋を 出て待ってろ。気が散る……」  気が遠くなってきた。始めるならさっさと始めて欲しい。このまま気を失ってし まった方が楽なのかもしれない。  しかし、テツの心配そうな表情を見ていると、そっちの方を何とかしないとって 思ってしまう。――世話が焼けるな。  ほとんど動かせない左手をテツに向かって伸ばした。 「蓮夢……」 「不思議だよね……。テツの事は、まだ覚えてる……。心に残っているんだ……」  テツが左手を握ってきたので、握り返した。感覚はほとんどない。せっかくテツ に触れられてるのにな。  頭の後ろでは甲高い回転音が鳴り始め、全身の皮膚がざわめく。  血の気が引き、凍えてしまいそうだ。なのに、脳も心臓は激しく脈打ち焼けてし まいそうな苦しさだ。――怖いよ、テツ。 「大丈夫だ、蓮夢。大丈夫だ……。早く戻って来いよ、お前と話したい事が、山程 あるんだ」  糸の様に細いドリルでも、数センチ突き刺さるだけで、想像を絶する激痛が全身 を駆け巡ぐった。頭蓋骨に響く振動、メキメキと音を感じる。龍岡のヤツ、合図も 何もなく始めてくれたな。  ガタガタと震える身体。強張った筋肉が軋んで、千切れてしまいそうだ。  右の側頭部から後頭部から押し上げてくる様な圧迫感。前頭部と眼球が飛び出し てきそうな感覚に襲われる。ジワジワと頭部全体に熱が伝わってくる。  視界が眩い光に包まれていく。シオンに撃たれて真っ黒な闇が覆ったあの時とは 雰囲気が違う。アレよりマシかもしれないって思えた。  それとも、お迎えってヤツでも来るのかな。もしやって来たなら、お呼びじゃな いよってブッ飛ばしてやる。  俺は、ここで止まる訳にはいかないんだ。

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