4.― JIU WEI ― 胸の高鳴りが止まらない。嬉しいと言う訳でもなく、驚いてはいるが、ふわふわ とした、とても不思議な感覚だった。 気付けば、日も暮れかかってる。街角にある、ありふれたコーヒーチェーン店の 店内でPCを開き、久し振りにCrackerImpと会話をしている。日本に来 て、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。 彼との会話は楽しい。勿論、ほとんどは仕事の話ではあるが、CrackerI mpは他愛のない話であっても気さくに、そしてよく考えて答えてくれる。良い気 晴らしになった。 『あなたもこの街にいるなんてすごい偶然ね』 『俺もあの刑事さんの事を調べてた時は驚いたよ 案外世界は狭いかもね』 何気なく何処にいるのかを尋ねた所、CrackerImpは意外にもあっさり と話してくれた。日本は小さな島国だが、それでも凄い偶然だ。 『でも会いたいとかは無しだよ 一応ハッカーのルールってヤツ』 『私達の動きもあなたは把握してるの?』 『ストーカーみたいな事はしないよ』 私は一旦、席を離れカウンターで紅茶のおかわりを注文した。故郷に様に茶館が あれば理想的だが。せめてコーヒー屋もお茶の種類を増やしてほしいものだ。 紅茶を受け取り席に戻ると、新たにメッセージが入っていた。 『最近ちょっと忙しかったけど これからは今まで以上に情報を集められるかもよ』 『期待してるわ』 待たせてしまったので、とりあえず短く返答する。 『とにかく荒神会はこの街でもかなり危険な組織だから用心しなよ 刑事さんに任 せて』 『心配無用よ私も念じるだけで色々できるから』 以前の会話から引用して、念じると言う言葉を使った。実際、私は本当に念じれ ば色々できるのだが。 CrackerImpの返信が来ない。こう言う、間の様なものがあると、実在 を感じる。PCの画面の中で流れていく文字。その向こうで、その人は何かを思っ ていて、何かを考えているのだろう。 またはさっきの私の様に、何かをしているのかもしれない。 『まだ話せそう?』 『ごめんね これから仕事なんだ』 『CrackerImpの副職? ちょっと気になるわね』 『むしろ本業だよ 何をしてるかは聞かないでね』 確かに、これだけ腕のいいハッカーなら、違う分野でも活躍していそうな感じも するが、CrackerImpの本業とはどんな仕事なのだろうか。彼への興味は 尽きない。 CrackerImpはどんな人なのか。文章越しに感じる彼の掴み所のなさが 魅力的でさえある。私より年上である事は確かだが、時に無邪気で人懐っこい雰囲 気。そして男性的であり女性的な雰囲気を感じる事もある。不思議な人だ。 『悪いけど切るよ何かあったら何時でもどうぞ』 『何か分かったら連絡して、お仕事頑張ってね』 PCを閉じて椅子に深く凭れ、紅茶を飲む。メニューには御大層にオーガニック と銘打っているが、イマイチ香りのない味わいだった。 窓の外を見てみると、日も暮れてきて人々の歩みもどこか忙しない。 荒神会か、今は彩子さんも警察の仕事の傍らで情報を集めてもらっている。いっ その事、すぐにでも乗り込んで、誰でもいいから締め上げて、弟のジャラの行方を 聞き出したい。 カウンターにお代を払い、店を出る。同い年ぐらいの女の子達がはしゃぎながら 歩いてる姿を見ながら、方々に対す苛々が募る。――普通になりたい。 今はまだ、それを望んではいけないと分かっていても、こうなってしまった原因 を呪わない日はない。 母が若い頃の時代は、サイキックに対してこれと言った優遇はなかったが、私や 弟がサイキックだと判明した頃には、国から多くの補助や優遇を得られる様になっ ていた。 私の父は貿易関係の仕事をしていたそうだ、母の方は詳しくは聞いた事はなかっ たが、大学を卒業して香港の方へ移り住み、デザイン関係の職に就いていた。家庭 は裕福だった。 何故、サイキックである事を申告したのか、充分満たされた環境だったのに。一 部の人達からは、私達サイキックこそが人類を新たなフェーズへ導ける存在だと謳 っているが、そのお陰で、私のこの様はどうだ。亡き父や母に、そして世の中のシ ステムに対して、お門違いな恨みを向けている始末だ。 今はまだ先の事を考えるても答えは出ない。希望は捨ててないが、かと言って前 向きな思考を保つ事も出来ない。あるのは焦りだけだった。 ふと気が付くと、辺りもすっかり暗く夜になっていた。特に当てもなく街を歩い ている。 家族を失ってからは、父方の親戚をたらい回しにされていたから、知らない土地 を当てなく歩いて散策するのは慣れている。寧ろ、それが好きだったりもするが。 彩子さんからは夜は出来るだけ、一人で出歩かない様にと言われている。門限ら しいものは特に設けてはいないが、それがあるなら、そろそろ帰るべき時間帯だろ う。 彩子さんにはとても良くしてもらっている。ほとんど仕事で長く過ごす事は出来 ないが、一緒にいる時は、正に疑似的な親子の様に過ごしている。意外に厳しく頑 固な所もあって、彩子さんは母と言うより、父に近い感じだ。 今日も帰りは遅いだろう。もう少しこの国の、この街の夜と言うものを散策して みるのも悪くない。この国に来て一ヶ月、それぐらいの余裕がやっと出てきたのだ から。 視線の先にある、一際賑やかでカラフルに輝ている方へ向かってみる。 高層ビルで方々を囲まれながらも、そこだけはまるで、退廃的な別世界の様だっ た。八メートルはあるだろうか、錆び付いた大きな門が大きく開いて、中から光が 漏れて溢れている様だった。その色は統一感など微塵もなく、自分勝手に主張し合 うネオンライトが混ざり合い、品性の欠片もない、おどろおどろしい光だった。そ れ故に、好奇心が沸いてきた。 大きく開いた門の、人の出入りは盛んで、とても賑わっていた。門の傍まで来た 時に私はハッとした。――輝紫桜町。 日本に一ヶ月、場所の名前などほとんど覚えていないが、此処の名前だけはしっ かり覚えていた。 彩子さんが何度か、いや何度も念を押す様に、輝紫桜町だけには近づかない様に と言われていた。それで輝紫桜町と言う言葉は、はっきり覚えている。 その巨大な歓楽街は今や行政や警察すらも匙を投げた街と言われ、大小様々な犯 罪組織がのさばり、貧民街も抱える無法地帯として名を轟かしていると言う。 欲望と堕落に満ちた、地獄と言う比喩に相応しい街。それが輝紫桜町。 しかし、どう言う訳か私は、その危険と分かり切っている大歓楽街に強い興味を そそられていた。こんな世界に――見覚えもある。 これではまるで、光に吸い寄せられる蛾の様なものだ。寧ろ、その蛾の気持ちが 分かる気さえする。 街に溢れる赤紫と青紫の光が私を包んでいた。気付くと私は、門を超えて輝紫桜 町の入り口に立っている。出入りする人々を避け、一先ず門の右端へ移動した。 「客一人で五十万からかぁ、いいなぁ、あたしもやってみたいなぁ……」 「バーカ! 一晩中好きにしていいよ。なんて言えるかお前? すげぇリスキーだ ぞ。変態だらけのこの街で、しかも後ろ盾もなく」 「まぁ、確かに……」 門の裏側は狭い裏路地になっていた。そのすぐ横で屯っている男達の会話が耳に 入る。 男が二人、缶ビールを片手にやり取りをしていた。その対象となっている者は大 きなゴミ収集箱に足を組んで会話を聞いていた。そっと横目でその三人を見て、普 通ではないと、すぐに気付いた。 一方はあからさまに女装している。もう一方は健康的な褐色肌にへそ出しのトッ プス。 ゴミ収集箱に座っている男もジャケットから肌をはだけさせ、よくよく見るとア イシャドーもしていた。首筋に付けたチョーカーにはトランプのクラブを象ったメ タルプレートが七色に輝いている。 この輝紫桜町に入って早々に男娼を見る事になるとは、如何にも歓楽街と言った 所だ。 「ポルノデーモン様でないと出来ない事だぜ、と先輩を持ち上げてみました!」 「何アピールだよ……てか、お前等、自分のナワバリ行けよな、こっちも仕事中だ ぞ」 座ってる男は煙草を吸いながら呆れ気味に言う。ポルノデーモンと呼ばれている らしい。通り名の様なものか、口にするのも恥ずかしくなる様な呼び名だ。 そのポルノデーモンは、よく見ると両目の色が違った。右目は普通だが、左目は 暗紫色の眼球に真っ赤な瞳孔。義眼だろうか、悪魔の目だと言われれば、その雰囲 気はある。 「でも、そんなに稼いで何をしてるんですか? 貯金?」 「貯金? あるわけないだろ、全部、借金とヤクでブッ飛んでるんだよ。足りやし ないよ」 「「ハァ……働けども、働けども!」」 全員が口裏合わせをしているかの様に同じ言葉を発し、大笑いしていた。見苦し い連中、一体、何なのだろうか。 結局、彼等の会話の一部始終を聞いてしまった。 それにしても、気になるのは、ポルノデーモンと呼ばれているあの男だ。一見周 りと共に笑い合っている様に見えるが、私には分かっていた――その目は笑ってい ない。 心は此処に在らず、その目の奥には憂いと悲壮感を漂わしていた。よく分かる。 決して他人は話せない、大きな秘め事を長年、抱えて疲れ果てている者の目、そ のものだった。 私も長年自分の力を隠して生きている。その事に時折、押し潰されそうになる事 があった。 そんな彼の目を横目に見ていると、ほんの一瞬、その暗紫色の目と合った気がし た。見過ぎていたかもしれない。一先ずその場を去る事にする。 「そこの後ろ髪が綺麗な未成年さん!」 やはり見ていた事に気付かれていたか。反射的に立ち止まってしまった。この状 況で無視も出来なくはないが、明らかに私に向けられた言葉だ。どう見てもこの場 で未成年は私しかいない。 軽く振り向いて横目に男達を見る。気が張り詰め、身体も少し強張る。 「悪い事は言わないよ、夜の此処は危険だ。ロクでもない奴等しかいないから」 ポルノデーモンが言った。柔らかな口調だが、何処か男らしさに欠ける、軽くて なよっとした雰囲気。 周りの男達も物珍しい感じに、こっちを見ていた。鬱陶しい、関わりたくないの に。 「それは、貴方達の様な人達かしら?」 けたたましい雑踏の中、私と男達の間の空気が凍り付くのを感じる。いざとなれ ば、念動力がある。下手に凄んでくれば、男共が宙に舞い上がって終わりだ。 ポルノデーモンの様子を見る。冷静そのものだった。それどころか、この空気に なるのを想定していたかの様な不敵な笑みを見せている。それでも、相変わらず口 角の上がり具合に対して、その目はやさぐれ歪んでいた。 ポルノデーモンはふっと鼻で笑い、左手に持った煙草をはらりと捨てた。その手 で支えて凭れると、更にジャケットがはだける。肩から鎖骨、首筋まで、まるで見 せ付けているかの様に挑発的に、そして何処か自虐的で妖艶に私を見下し、ビビッ トピンクのウィッグを付けた黒髪を掻き上げた。 これが男とは到底思えない程の、色気の様なものを見せ付けている。 しかし、その意図は伝わった。ポルノデーモンは私の挑発に対して――挑発で返 したのだ。 「この街じゃ、俺等なんかよりも、もっとロクでもない連中がゴロゴロ転がってる ぜ、此処に興味があるなら、お昼にでも遊びに来なよ」 「ご忠告どうも……」 心配してくれるようだが、余計なお世話だ。どのような事情が在ろうと、売春で 生計を立る程、身を落とした者達の話を、これ以上聞く必要はない。 それでもまだ僅かに視線を感じる。あの暗紫色の目は、私を見ているのだろう。 夜の輝紫桜町は今までに見た日本の景色の中では、最も活気あふれていた。今の 時代どこの国も大な小なり、疲弊しているのに。 歩道をはみ出し、車道を歩く人々を避けるように徐行する自動車。 店の並び具合も遠慮もない、飲食店の隣に風俗店があるかと思えば、花屋や雑貨 屋、激しく音が漏れてるクラブやカジノも並んでいる。娯楽の坩堝と言った所だ。 だが、驚かされるのは、その雑多な地上から空を見上げた時だった。 この大通りの左右の建物一つ一つは小さな雑居ビルばかり、その二階から三階の 辺りからは増築を重ねた、歪な出で立ちをしている。看板のネオン、立体的なプロ ジェクションマッピングが飛び交い、更に混沌とした輝きを放っている。 更にその先の上に聳え立つ、高層ビル群は均一な明かりを保って圧迫感を与えて いた。まるでビルの山と山の間にある、谷底である。 故郷の香港にも、年々こう言う雰囲気のエリアが増えてきている。厄介になって いた親戚の中で、丁度こんな雰囲気の街で暮らしていた数年間を思い出す。輝紫桜 町に親近感を感じているのは、そのせいなのだろう。 海外では日本の事をしばしば、衰退国と表現する事がある。小さな島国、そして 凄惨な戦争を乗り越え、一時は世界有数の経済大国と謳われた国だったのに。 およそ百年前の目には見えない細菌一つで、この国も世界も、逆行して退廃して いく。 そんな事を考えながら、猥雑な街並みを眺めて歩いていると、前方を塞がれる様 に立つ人達に歩みを止められた。 「おお、君可愛いね、何処の店の子? 俺達とどう? 勿論払うよ」 視界に入ったのはスーツ姿の三人の男達だった。何を言っているのか、余りにも 唐突過ぎて理解できなかった。 「ほらほら、ちゃんと金はあるんだから遊ぼうぜ」 前に立ちはだかっていた三人は何時の間にか、私を囲んでいた。 「ちょ、ちょっと待ってください、私はっ!」 こちらの言葉を聞く事もなく、両肩に手を添えてきた。本当に待って欲しい、一 体何が起きているのだ。胸を打ち破る程の動悸が激しく全身を波打たせる そうしてる内に、雑居ビルと雑居ビルの間の暗い隙間の方、その奥へどんどん追 いやられていく。 「ほら、お金受け取ったろ? それってOKって事だよな?」 気付くと上着のポケットに紙幣が突っ込まれていた。不味い、あっという間に人 気のない所へ追い詰められ、表通りは三人に塞がれている。よく見ると三人とも体 格もがっしりしていて背丈も見上げる程だ。 やっと認識した。――こいつ等にレイプされる。 それが分かった瞬間、そして三人の醜く歪んだ笑みが視界に広がり、静かに腰が 崩れる。今まで体験した事のない恐怖に身体が竦んでいた。 意識を集中せねば、一体何を恐れる必要があると言うのだ。故郷にいた頃、家族 を奪った奴等を数年かけて見つけ出し、一人残らず躊躇なく念動力でズタズタにし てやったじゃないか。 大人の男が見せる、殺意や憤怒の表情は見慣れている。しかし、こんな卑猥で見 苦しい表情は見た事がない。直視して集中する事が出来ない。 なら、その辺にある物を動かそうか。焦れば焦る程、視界が狭まっていく。そう してる間にも男の手が私に触れかかってくる。早く、早く何とかしないと。
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