「お久し振りですね。鉄志さん」 レストランオーナー自ら、淹れ立ての珈琲と灰皿を持ってきてくれた。中央区に ある四つ星ホテル、“宮”の最上階にあるレストランバーは、何時訪れても気持ち がよかった。 白を基調としたバロック調の内装ながら、開放的な空間は、古いものと新しいも の対照的な雰囲気を織り交ぜて、絶妙な調和を保っている。数年前に利用して以来 になるが、また一段と磨きがかかっていた。 「すまないな、また勝手を頼んで」 「いえいえ、お構いなく。それよりも、お連れ様の方は大丈夫ですか?」 「いいんだ、放っておいてやってくれ」 蓮夢は此処に来るまでの車中、車の席が狭い、エンジン音がうるさいと、始終毒 を吐き、レストランに着いてからは化粧を落とすと言って、行ったきりである。か れこれ二十分は経過していた。 「悪いね、来て早々。それにしても高そうな店……しかも開店前に。鉄志さんって セレブなの?」 投げる様にスカジャンを椅子に掛けた。黒いスカジャンの背中の刺繍は妖艶なポ ージングの真っ赤な悪魔がシルエットだった。 トイレから戻って来た蓮夢の顔は痛々しい痣こそあるが、化粧を落とし小ざっぱ りしていた。 声の感じからすると、大分落ち着いた様に見える。まだ数回程だが、何時もの調 子に戻った様に思えた。 「オーナーと知り合いなんだ。融通を利かせてもらっただけだよ。それより、それ どうした?」 「別に、“元気の前借り”ってヤツさ。煙草もらうよ、切らしちゃって」 すぐに目についた。右腕の浮き出た血管部分に貼られた絆創膏。ガーゼの部分は 既に真っ赤な血で滲んでいる。目も少し虚ろだった。 蓮夢の口振りからすると、おそらく覚醒剤の類いだろう。 「感心しないな……」 「仕方ないだろ、疲れてるんだ。説教でもする気かい? パパ」 俺の煙草とライターを手にしながら、蓮夢は席へ座る。挑発的でふてぶてしい。 この態度はきっと、改まる事はないだろうな。大歓楽街、輝紫桜町でポルノデー モンなんて異名で生きて来た男だ、所謂、高級娼婦的なその雰囲気が、すっかり染 み付いてしまったのだろう。 鼻持ちならないが、この辺は俺がこいつに慣れた方が良さそうだ。 「雄也って客で、どっかの土建屋の二代目でね。二十歳そこそこで親父から会社を 継いだヤツなんだ。世間体を気にして結婚して子供もいたけど、仕事の重圧とかセ クシュアルのストレスなんかでDVやらかして離婚した。それからは俺が捌け口っ て訳さ。ずっと避けてきたけど、捕まっちゃった……。二十五のガキに殴られても 逆らえない、三十二のHOE。こんなもんだよね、人生なんて……。って、鉄志さ んに話したって、何の意味もないんだけどね。なんか調子狂うんだよね、鉄志さん と話しているとさ」 ころころと雰囲気を変えてみせる。俯き気味に、卑屈そうな薄ら笑みを浮かべて いた。 嫌な客と言う割に随分詳しいが、二十五のガキにか。考えただけでも、確かに心 に堪えるものがある。俺の気質なら耐えられない。 蓮夢には常々、相手を手玉に取って、会話をコントロールするのが上手いヤツだ という印象を持っていたが、意外にも話していて調子が狂うのはお互い様らしい。 それとも、今までの蓮夢が演じられたもので、今話している蓮夢が素の状態なの だろうか。――お互い腹の探り合い。と、言う段階らしい。 とは言え、やる事は変わらない。事を進めていくだけだ。メニュー表を蓮夢の元 へ差し出した。 「付き合わせた手前だ。好きなもの頼め、奢るよ」 「マジで! いいの? 悪いけど貧乏人はこう言う時、遠慮しないよ」 急に目の色をキラキラさせて、卑屈な物言いとは真逆に無邪気な笑み見せた。単 純なのか、がめついのか。 泣いたり、怒ったり、笑ったり。人として自然と捉えるべきか、歳不相応で情緒 不安定と思うべきか。 「それじゃ、今すぐビール欲しい、で、飯はねぇ、リブロースの四〇〇グラムをレ アで、ライスは大盛りでね。ワインは安いのでいいよ。あと、お味噌汁ってないか な?」 オーナーを呼び、スラスラと注文を付けてる。朝なのに随分重たい食事だなと思 うが、相当、腹が空いてるらしい。まさに仕事上がりの食事と言ったところだ。大 盛りを注文したり、そう言う所はしっかり男なんだなと感じる。 「メニューにはありませんが、作らせましょう」 「ありがと」 オーナーには視線で詫びておくが、裏表のない笑顔をしていた。この店にしたの は正解だった。元々、こういう用途で利用するとこだが、こう言う時は自分の待遇 に、ありがたみを感じた。 「融通が利くね、まともな肉食うの何ヵ月振りだろう」 「ろくに食べてないって言ってたが、食うのにも困ってる状況なのか?」 「いや、そう言う訳じゃないよ。仕事がある時は、なるだけ食わないようにしてる だけ……。上から食って、その後は、分かるだろ?」 蓮夢は煙草を灰皿に押し付けた。野暮な事を聞いてしまったな。 「とは言っても、相変わらず貯金はないけどね、少し前までうん千万の借金持ちだ ったし、ようやく返済を終えた後は、闇金を使ってうん百万のサーバーを組んだり と物入りでね。昨晩の稼ぎからやっとプラスになったよ」 とんでもない額をさらりと言ってのけるが、借金持ちだったのか。それで納得が いく。あの大歓楽街で一番と評判良く、好きに稼げている筈なのに、言動から始終 漂っていた貧乏性の正体。 何をしてそんな借金を抱えてしまったのか、気になるところだが話を脱線させる 訳にもいかない。 先ずは重要な事から尋ねよう、蓮夢は気付いていないだろうが、“組合”から情 報を盗むなんて事は一大事だ。今後の事も考え、これ以上は深入りさせる訳にはい かない。 「俺のいる組織について、どこまで知っている?」 「基本的な事ぐらいは、それ以外は興味ないよ。知ったところで状況は何も変わら ない。俺は世界規模のヤバい組織に目を付けられたしがないハッカー。今後、目的 を果たす為には、対立よりも協力がベター。リスク高いけど、俺にはもうそれしか 手がない」 確かに興味はなさそうだ。目付きで直ぐに分かった。多少、裏社会を歩いていれ ば、その程度の情報は手に入る。 それとも敢えて関わらない様にセーブしてるのか。 本来なら、俺に目を付けられた時点で命運は尽きる。しかし、蓮夢は巧みにそれ をかわし、更に大胆にも協力と言う提案をしてきた。 話を続けたったが、ウェイターが蓮夢にビールを渡していた。よく冷やされたピ ルスナーグラスに泡立ったビール。中々悪くないが、数時間前で飲んだくれていた ので、今は魅力はなかった。ついでにと、珈琲のおかわりを頼む。 「因みに、もし前者の関係になった時はどう対抗しようか、それも今考えてる最中 さ。刺し違えるぐらいの事は必ずしてやるよ」 蓮夢は手にしたビールを、一気に飲み干した。大きく出たな、抵抗する意思を見 せてくるとは。 蓮夢の目的はブレる事なく、クライアントの為と言ったところか。“組合”の指 図を受けず、妨害もされない関係を俺を通じて作ろうとしている。 本当に対抗できると、思っているのだろうか。いや、おそらくその為の選択肢は 持ってるのだろう。ここに来て、つまらないハッタリを使うとも思えない。 「個人的な事を言うと、俺はお前と手を組みたいと思ってる。この三日間、組織に それを提案し、掛け合っていた。“組合”は外部から人を雇うのを好まない組織だ からな。それがコンタクトが遅れた理由だ。お前が指定した時間帯を無視した事に 関しては、俺の配慮が足りなかった。そこは詫びるよ……」 予想していた通り、蓮夢の意思は固い。“組合”に対する警戒心も、相当強かっ た。本来なら、明確に主従関係を作るべきだが、それでは話を進まない。 やはり、俺の舵取りにかかっている。折れるところは折れた方がよさそうだ。 「この三日間、“組合”はお前の事を調べ上げた。CrackerImpだけじゃ ない。ポルノデーモンについてもな」 「何処の組織もケツが重たいらしいね」 反論したいが、残念ながら事実だ。個人活動の蓮夢には分かるまい。 当然、イワンは反対した。それどころか、蓮夢を口封じすべきだと言った。それ が正式な命令となる寸前のところで、河原崎と秋澄が蓮夢の事を調べ、まずは交渉 すると言うところにまで漕ぎ着けたのだ。 蓮夢には分からないだろうが、かなりギリギリな状況である。 携帯端末に入っている情報を開いた。 「CrackerImpは、ここ二年の間で名が売れてきてる様だな。確かに派手 な噂はないが、手堅い仕事振りだと評判にはなってる。ロシアと中国の軍事衛星を ハッキングして破壊したのがCrackerImpじゃないかと言う噂もあるな」 「あぁ、アレね。大した事じゃないよ。たまたま、それができる場にいただけ。月 並みのハッカーでも、同じ条件ならできる事だよ」 その時を思い出してか、蓮夢は少々苦笑いを浮かべていた。隠す気もなくさらり と認めた。どんな理由があってそんな事をしたのか。 ただ、この事でロシアも中国も大きく騒いでいないのは、何かしら、やましい事 が両国にあるのだろう。 「幾つかのサイバーテロ組織からも誘いが来てるそうだが、全て蹴ってる。それは 何故だ?」 「なんでだろうね? 特別理由はないけど……テロなんて誰も歓迎しない事やって も、おもしろくないからね」 この情報を知った時は、なんとなく、蓮夢らしいなと思えた。そして今の言葉に もらしさがあった。 荒んだ環境に生きているにも拘らず、蓮夢の行動理念には――気高さがある。 正義と言う言葉を使えば陳腐になるが、良心と呼ばれるものに対して、正面から 向き合える様な精神だ。 俺にはまるで縁のないもの。それ故に新鮮味がある。 「今から七年前、輝紫桜町のほぼ全ての事業を牛耳っていた亜細亜系マフィア通称 “ナバン”に所属してた男娼。“ポルノスターよりもハマるポルノデーモン”この 辺は省略してもいいか……」 一通り読み上げているが、この辺りの情報は無用だ。やはり“ナバン”と言う言 葉に蓮夢の表情は一瞬で強張る。 分かっている限りの情報だけでも、蓮夢はこの組織の中で――商品の様な扱いを 受けている。 その心情は俺には察する事は出来ない。 「別に省略しなくもいいよ、色々調べたんだろ? 今でも俺の出たポルノムービー はネットで際限なく流出してる。エグいプレイも散々経験してるし、自分でも嫌に なる程のクソ変態だなって思ってる。ヤッてしまった事実は変わらない……。軽蔑 されて当然だと思ってるよ。実際、昨日の鉄志さんだって、俺をそう言う目で見て たし……」 耳が痛い。確かに今でも、そんな感情は少なからず持っていたが、どうしようも ない事もある。俺にもそう言う経験はあった。 それを棚に上げて、蓮夢に接した結果が昨晩から今にかけての無様な展開だ。そ れでも、この話は続けるしかない。 「抗争の後“ナバン”が撤退してからも、街で男娼を続けている。しかも、輝紫桜 町の全ての組織から、黙認と言う形でフリーでの活動が許されている。輝紫桜町の 表でも裏でも顔が利き、重度の薬物中毒、複数の偽造IDを持ち、街で起きるトラ ブルの類いに、頻繁に首を突っ込みたがる混沌とした思考の持ち主。適正な人材に は程遠い。これが“組合”の結論だ」 一通り話終えて、煙草を手に取る。通過儀礼の様なものだが、他人から自分の過 去を話されるのは、決して気分の良いものじゃない事は分かっている。 「勝手にあれこれと、ほじった挙句、不合格通知って……。随分、エゲつないプレ イだね。胸糞悪いよ」 蓮夢は椅子に深くふんぞり返る様に凭れる。黒いデニムのポケットに手を突っ込 み、チンピラの風体そのものだった。もっとも、こんな美形のチンピラも中々いな いだろうが。 脚を大きく開かれると、裂けた部分から肌が大きく見える。反射的に目が行って しまうのが疎ましい。 「こっちも仕事なんでね、でも話は終いまで聞け。それでも俺は、お前と組むべき だと思ってる。俺は他人の評価や前評判は真に受けない。何時でも自分の目で、相 手を見極める」 煙草の煙を吐き終える頃、珈琲が届いた。オーナーが気を利かせたのか、先程の 珈琲よりも、香りが強く、ゆっくり楽しめる珈琲だった。 人間なんて、一癖、二癖あって当然な生き物だ。でも時として、それが強みにな る事もある。一概に欠点と決めるべきではない。 それ知った上で最大限のパフォーマンスを発揮させるのが俺の役目だった。その 為に情報を仕入れた。 “組合”が調べたもの。そして僅かではあるが、これまでの蓮夢との会話で見え てきた本質。決して、蓮夢はこの一件に不相応ではない。 「お前が腕が良いのは確かだ、俺の携帯の情報を何時の間にか盗んだ。あの夜、警 察のオートマタを操って脱出しようとしてた。アレもお前がハッキングしていたん だろ? 罠と分かっていながら、林組の土俵に乗り込んで渡り合ってる。これだけ でも、充分な行動力だ。それに……」 珈琲を一口飲み、一息いれる。ブルーマウンテンだろうか。香りも味もよく整っ ていた。 「トラブルに首を突っ込む質だと言うが、そのトラブルだって、解決してるんじゃ ないのか? 街で顔が利くのも、そう言う事の積み重ねだし、実際お前は頭の回転 が速い。洞察力もあるし、機転も利く。優秀だと俺は思ってる」 「聞こえの良い言葉ばかり……。嬉しいけど、それを一言で“姑息”って言うんだ ぜ、輝紫桜町のHOEの必須事項さ」 姑息ではない。強かさだと俺は思っている。誉められたなら、素直に喜べばいい ものを。 蓮夢は窓の先の景色を眺めながら複雑な表情をしている。素直じゃないな。 「何にせよ、お前も俺と組みたいと思っているのなら、もう一押し欲しい。お前に はその辺のハッカーには出来ない事が出来る。タネと仕掛けがあると言ったな。そ れを見せて欲しい。それが申し分ないものと証明できれば、俺は組織の意見は無視 してお前と手を組む。悪い様にはしないと約束する。今後“組合”がお前の脅威に なる事もない」 蓮夢は顔を背けたまま、暗紫色の左目だけは俺を見据えている。態度の悪い姿勢 は変えず、顔を向けたかと思えば、今度は天井を見つめながら前髪を掻き上げて溜 息を一つして俯いた。 挑発的な笑みもなく、皮肉な言葉も出さず、ひたすら集中した面持ちで何かを考 えている。何を躊躇しているのか、そして何を葛藤しているのか。今まで見た事が ないぐらいの、真剣な表情を蓮夢はしていた。 一分少々の硬直の後に、蓮夢は腰に下げていた小さなノートPCを取り出し、後 部から透き通ったクリスタルの様に透明なスティック状のコネクターを引っ張り出 す。見た事のない、特殊なコネクターだった。 ノートPCを開き、画面をこちらへ向ける。自作のPCなのか、既存品のそれと は明らかに違う仕様だった。右手には引っ張り出したコネクターを握り、その目は 真っ直ぐと俺を見ていた。 「エンターキーを押して」 言われるまま、PCのエンターキーを押した瞬間、蓮夢の左手が俺の手を掴んで 来た。突然の事で反射的にビクリとする。 蓮夢の指先は冷たく、女の様にか細かったが、俺の手を握るその力はしっかりし ていた。 「いいよ、俺の手の内を全て見せてあげる。でも組織に報告する時は出来るだけ言 葉を濁して話してくれる?」 追い詰められた様な目をしている。余程、手の内を見せたくないらしい。それで も、蓮夢も分かっている筈だ、ここで決断しなくてはならない事を。何かは分から ないが、そのリスクを超えないと、先には進めない――覚悟を見せてみろ。 「内容にもよる。約束は出来ないな」 「腹を決めろって訳か……。鉄志さんを信じるしかなさそうだね」 蓮夢は手を離すと、何の躊躇もなく、左前腕部にコネクターを深々と差し込んで 見せた。唐突な自傷行為かと一瞬、頭が混乱したが、よく見てみると羽根柄のタト ゥーの模様に隠れたコネクターポートの穴が幾つか開いていた。 その黒い模様で、今まで全く気付かなかったが、これは――インプラント。 蓮夢が差し出したノートPCのモニターを覗くと、そこにはモノクロの俺が映っ ていた。今正に、モニターを見てる俺の姿だ。 位置的に見て、蓮夢の視界に写る映像。蓮夢の両目は俺をしっかり捉えていた。 「お前、サイボーグなのか?」 「ただの輝紫桜町のビッチさ。このエロい目で普段何を見てるのか、分かり易くし ておくよ。さて、何をしようかな。朝飯前の軽いデモンストレーション」 ノートPCに映る視界に赤枠の小さな別窓が三つ開く。いずれも凄まじい速さで 英数字が流れている。これだけでは何をしているのか分からないが、蓮夢はこのコ ードの様な見て、全て理解しているのだろうか。 「お前の視界は何時もモノクロなのか?」 「んな訳ないだろ、この方が見易いし、色情報を減らせば、他の処理スピードを上 げられる。昔見たアニメや映画でロボットの視界が単色だった理由が、自分がなっ てみて、よく解かったよ」 俺は今、何を見させられているのだろうか。とても不思議な感覚だった。 理屈は分かっている。蓮夢の目はカメラの様な物で、それがノートPCのモニタ ーに映っている。そして、何らかの作業をしている。 問題は、その作業を――何処で行っているかだ。 「サイボーグは身体的な補助や強化だけだと思っていたが、これはまるで……」 「“H.D.B.S.”。煙草、もう一本もらえる?」 言葉を遮り、発せられた略称は当然のごとく、聞いた事のない言葉だった。モニ ターには、ケーブルに繋がれた右手が俺に向かって伸びている。 本心では断りたかったが、言われるままに煙草の箱とライターを蓮夢に手渡して しまった。 「ハイブリッド・デジタル・ブレイン・システム。国際法で禁止されている、脳の 機械化。俺はサイボーグじゃない。“違法サイボーグ”なのさ」 「違法サイボーグ……」 「鉄志さんは、インプラント適合率って知ってる?」 蓮夢は煙草に火を着けて、脚を組んでいた。モニターの視界は、天井の方を向い ていた。別窓は相変わらず凄まじいスピードでコードが流れ落ちている。 林組の事務所で、用心棒のサイボーグと戦って以来、自分なりにインプラント技 術やサイボーグについて調べていたが、その知識では蓮夢の状態を説明する事は出 来なかった。 脳を機械化してる。今見てるモニターの蓮夢の視界が、確かにそれを証明してい るが、どうやって脳を機械化すると言うのだ。理解を越えていた。 「どこまでサイボーグ化可能なのかを示す適合率だろ」 秋澄との、何て事ない会話で知った、覚えたての言葉だった。 神経や一部小脳と連結して、義手、義足以上の感度や戦闘型デバイスのインプラ ントを施すには、高い適合率が必要だと言う。 「話せば長いけど。昔、安物のドラッグで死にかけた事があってね。輝紫桜町の病 院に担ぎ込まれて死なずに済んだけど、その時の精密検査で、たまたま俺の適合率 が判明してね」 モニターに新たな画面が表示される。人間の脳の立体モデルだった。左脳部分が ごっそり欠けている。何かを見せようとしているのか。 「俺の適合率は、九十七.六パーセントなんだ」 勿体ぶる雰囲気だから、それなりに高い数値を言うのだろうと思ったが、予想を 超える数字が出て来た。ほぼ一〇〇パーセントの適合率。 「平均で三十から五十だと聞いてる。高い者でも八十ぐらいだと」 「いやに詳しいね。数値の高い人間の条件ってのが、今だにハッキリとは判明して いないけど、俺は身体のほとんどを機械化しても、問題なく機能するらしい。とこ ろで、この店の管理システムを乗っ取ったけど音楽でも聴く? 鉄志さんのお好み は? ロックでも、ラップでも、ジャズがこの店の雰囲気に合うかな。照明を少し 落としてムードでも上げようか?」 ずっと蓮夢と話していて、うっかりしていたが、こいつは今ハッカーとしての腕 前を見せようとしてた。蓮夢が言葉を発する度に音楽が変わり、照明の明るさがわ ざとらしく変化した。 この数分でこの店にシステムを乗っ取っていたのか。そうだ、蓮夢が林組と会っ た時のホテルも、システムに異常が起きていた。こう言う事だったのか。 モニターは幾つかの別窓で埋まっている。視界は外の景色が映っている。 我関せずと、蓮夢は窓の向こうの景色を虚ろな目で、煙草を吸いながら眺めてい た。妙に惹き付けられる姿に思えた。 「申し訳ございません。只今、店のシステムがトラブルで……」 「心配ないよ、オーナーの高橋真守さん。鉄志さんが一言、“戻せ”って言えば全 て元に戻るから。ほら言いなよ、鉄志さん。真守さん困ってるよ」 慌てふためくオーナーの詫びなどお構いなしに、蓮夢はこのトラブルに俺まで巻 き込んだ。 俺だって知らないオーナーの名前まで調べたとは。一体、何処までハッキングし ている。ふざけたデモンストレーションだ。オーナーのすがる様な視線も鬱陶しか った。 「戻せ……」 ほとんど吸わずに終わった煙草を灰皿に捨て、蓮夢に命じた。正確には俺が蓮夢 の指示に従ってるだけだが。 店内のスピーカーから、短いノイズ音、数回の明暗を繰り返して照明設備も正常 な明るさに戻った。 「そんな事よりも、ご飯まだ?」 「間もなくです……少々お待ちください……」 蓮夢は笑みを浮かべていた。オーナーへの愛想笑いか、それとも、自分が仕掛け たハッキングで慌てるオーナーや、圧倒されてる俺に対する優越感か。 「どこまで話したっけ? 輝紫桜町には病院が一つしかなくてね、デカくて立派だ けど、トラブルの多い街だから繁盛しててね、病院側も人手不足解消の為に、多少 訳有りな医療従事者でも、ガンガン受け入れてる。そこには世界的なインプラント エンジニアも紛れ込んでいて、自律思考型のAIと脳を同化させて、記憶と思考の 補助をしようなんて、学会から嫌われそうな事を言う博士だっている。博士は俺の 適合率を知って熱弁してたよ。この技術が確立されれば、怪我による脳死、手術不 可能な腫瘍の切除や、痴呆症も全て解決するってね。だから、冗談交じりに言った よ、俺が脳死するような事があったら、献体してやるってね……」
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