終章~雨降りの輝紫桜町~ 「あ~あ、勿体ない……」 テーブルにブチ撒けた酒をおしぼりで拭いてやる。漫画みたいなリアクションな んかして大袈裟な。 一週間振りに会ったテツは明らかに様子がおかしかった。大体の原因は察してい た。――心が戸惑いで満たされている。 「バ、バカっ! 突然何を言い出すんだ!」 「えぇ、ぶっちゃけどうなのかなって……。あと、どれを見たのか知りたい」 「俺が見た前提で話すな。俺は見てない!」 おもしろいぐらい慌ててる。可愛らしいな、テツは。かと言って、笑ったり茶化 し過ぎても悪いから口は閉ざしておくけど。 「言っておくが、お前に魅力がないとか興味がないとかじゃないからな」 「じゃあ、どんな理由?」 「お前は見られても仕方ない、覚悟はしてたって言ってるけど、俺が見れる訳ない だろ……相棒なのに。この街でお前が懸命に働いてるのも見てきた。違法アップロ ードなんか、見る訳にはいかない」 仕事も一段落したし、とりあえずHOEも辞めた。本腰入れて削除に取り掛から ないなとな。俺だけじゃなく、春斗を始め“ナバン”製のポルノムービーは方々へ 流出してしまっている。全ては難しいが、サイトや所有ユーザーへの直接攻撃も視 野に入れて、徹底的にやってやる。 「人間なんて好奇心には逆らえない生き物だと思ってたのに、テツってホント優し いんだね」 見られても仕方ない。偏見に曝されて蔑まされても揺るがない。その覚悟は変わ らない。きっと一生付いて回るのだから。逃げられないのなら向き合うしかない。 何時まで耐えられるかなんて、分からないけど。 「俺が興味あるのは“ナバン”のポルノデーモンじゃない。凄腕ハッカーの蓮夢だ けだ。そう言う事にしておいてくれ」 俺の周りに集まって来る奴等なんて、大半は身体しか見てない。下心とよだれを 垂れ流すだけの豚ばかり。 ある意味、当たり前なのかもしれない優しさや配慮は、俺とこの地獄みたい街に は無縁だった。――だから余計に染みる。 テツの心が胸の内側を打ち震わせ、下唇の辺りまで響いてくる。 「ホント、テツってハンサムだよね……益々惚れちゃうよ……」 視線を外されてしまう。今日、会ってから何回目だろうか。明らかにぎこちなか った。 何時もと変わらないところもあるけど、ある瞬間に、ふっと気付いたかの様に緊 張し出す。ポルノムービーの話をした時の慌て振りだって尋常じゃない。 「どうしたの?」 「いや、別に……」 「今日、会ってから、ずっとソワソワしてるよね?」 目が合えば逸らし。逆に合わせなければ。ずっと見つめてくる。探られているの か、確かめ様としてるのか。 こんなに心が通じ合えているのに、テツはずっと戸惑っていた。一つ二つの事柄 のせいで。 そうだよな。そんな単純な話なんかじゃないよね。テツにとって、初めての事な んだから。 「別に、そんな事は……」 「俺に何時誘われるか、気が気じゃないんだろ?」 図星って顔を一瞬した。分かり易いな。 今夜、もしかしたら成り行きとかで。なんて考えを持って期待してた。馬鹿だよ な、輝紫桜町の尻軽な考え方だよ。 アクアセンタービル以降、ずっと気を張ってきた。思考を止める事も休める事も 出来ず、サイボーグであるが故に身体の修復は早いけど、心は置き去りだ。 この一週間も辛かった、休む間もなく情報を掻き集めて計画を練り、みんなの事 を考えて、ふと自分の事を考える時が辛かった。 気晴らしのドラッグもなければセックスもない。――心が飢えて恋しくなる。 でも、このままだと一方的になる。俺も大人にならないと。 「俺の方から誘う事はないから、安心しなよ……」 テツは真剣に俺と向き合おうとして、受け入れようとしてくれている。それだけ でも充分過ぎるぐらい幸せな事じゃないか。 「意外だな、組んだ頃はグイグイ来てたのに」 冗談なら幾らでも煽れたのに。次第に冗談が言えなくなるぐらい、テツを想うよ うになったいった。 自分でも柄じゃない事ぐらい分かってる。 「俺は性別もセクシュアルも気にしないし、気持ちに関係なく、ぶっちゃけ誰とで もセックス出来る。それが特殊だって事ぐらいはちゃんと理解してるし、だからこ そ人に押し付ける気もないよ」 自分の中の当たり前を人に向けちゃいけない。例え理解してもらえても、時間を かけないと。大切な人なら尚更だ。 「こんな事で、テツにプレッシャーかけたり、ここまで築いてきた関係をダメにな んかしたくない……。気楽に行こうよ、前も言ったじゃん。プラトニックでも構わ ないって」 ダイナーでテツに話した時、本気でそう思っていた。ただ、傍にいられれば、そ れでいいと思っていた。 増していく想いがもどかしくて辛いけど、自分の気持ちだけ先走らせても、噛み 合わなくなるだけだ。 テツは俺から顔を逸らし、胸ポケットから煙草の箱を取り出して、手の中で弄ん で、軽い溜息をつく。 「お前が俺の事を、色々考えてくれてたのは正直、凄く嬉しいよ。でも、俺の為と かを抜きにした時の、お前の気持ちはどうなるんだよ」 「だから、気にしないで欲しいって……」 「でも、聞いておきたい」 煙草を一本取り出して、口に咥える。俺が本心を話すまで引かないつもりだ。 そんな分かり切った事を聞いたところで、テツの何が変わると言うんだよ。 「そりぁ、テツがいいって言うなら、すぐにでもお持ち帰りしたいさ」 「お持ち帰りって……」 「俺の事、もっと好きになって欲しい、もっとテツに触れたいし、テツに触れて欲 しい。テツの全てが欲しい、それが本音だよ……」 自分で言ってて顔から火が噴き出しそうだった。考えずストレートに話すんじゃ なかった。テツが今、どんな顔しているのか、怖くて見れなくなった。 飲みかけの酒を一気の流し込む。さっき頼んだ高いヤツをおかわりしようか、悩 ましい。 「なぁ、時間かけてこうよ。お互いの事もっと知ってさ、それでテツがいいって思 えた時は、喜んでお相手するぜ」 焦らなくていい。一つ一つを大切にしていけばいいんだ。今の俺は誰にも縛られ ていない。それが許される状況なんだから。 テツの気持ちを一番大切にしてあげられるのが俺だけなんだから。 「ありがとう、蓮夢」 「今のままだって、俺は充分満たされてるよ、テツ……」 性別やセクシュアルの事で悩む事なく、スンナリ成立する人達もいるだろう。で も俺達はそうじゃない。 俺達なりのやり方で、高めていくしかない。――そう言うものだろ。 やっぱり、今夜はもう少し飲もう。その方がいい。煙草に火を着けて、永星に強 めバーボンを注文した。 「まぁ、キスなら、またしたいって思ってる」 「マジで!」 突然の話に考えるより先に、身体が反応してしまい、テーブルに身体を乗り上げ てしまう。してもいいなら今すぐしたい。 「お、落ち着けよ、ここでじゃないぞ」 席から身体を少し仰け反らせて、テツは慌てていた。なら、何処でならいいのか と、がっつきそうになる自分を必死に抑えた。 「何て言うか、あの時は突然の事だったから、なんとなく引き摺ってるんだ。沈み 込んで真っ黒になってた心が、身軽になってく様な気がして……。たまにその時の 感覚を思い出す……」 バーテンダーが酒を置き、テーブルから離れたタイミングでテツがあの夜の事を 話してきた。あの時の事で俺が思い出せるのは、全身を駆け巡る激痛とノイズだら けの思考。レイプされた屈辱と不快感だった。 テツの心が真っ黒な処に沈んで行く様な感覚はあった。 救いたい。そう思った時には身体が勝手動いて、止められなかった。 欲求と言うよりは、確認に近い理由かも知れない。一度経験すれば二度目は、程 度にテツは思ってるんだろうな。 自分の性分が“魔性”ってヤツだって事は、十代の頃から自覚していた。相手の 心の具合を感じ取って、どんな言葉や振る舞いが気に入ってもらえるか。一度、相 手の心を掴んでしまえば、それなりに思い通りに出来た。輝紫桜町でシオンに気に 入れる程の望まぬ才能。 “ナバン”で散々仕込まれて“武器”のレベルにまできてる。 そんな俺にキスを許したら、ズルズル引き込まれるってテツは分かってるのだろ うか。と言うより、俺が止められなくなるかも知れないのに。 これは、危険な火遊びだよ“キスぐらいなら”なんて。 テーブルに置いていた右手に、テツの指が触れてくる。煙草を挟んだままグラス を握っていた手は何も出来なかった。 「俺は、お前が思っている以上に何度も救われてる。お前がいないと、また壊れて しまいそうで恐くなる……」 「俺もテツがいるから、勇気が持てる。恐れずに前に進めるんだ」 テツの心が自分の心の中に入り込んで来る。必要とされる事が何よりも嬉しかっ た。同時に俺もテツがいないと不安で仕方ない。テツさえ傍にいてくれれば、何で もやれる気がする。もう独りにはなりたくないんだ。 きっと、俺達は依存性が高い関係だ。深くなればなる程、不健全になっていくの だろう。にも関わらず、求めて止まないのだ。 愛おしい。想いが溢れ返り、もう収まりがつかない。――もっとテツが欲しい。 でも今は堪えよう。テツの気持ちを尊重して、テツが今の俺と同じぐらいの想い を抱くまでは。何時まで待てるだろうか。 久し振りだったと言うのもあり、あの後も飲み続けて深夜二時。締まりのない飲 み会になってしまった。こんなに深酒したのは何時以来だろう。 昼間の読み通り、結構な雨が降っていた。大歓楽街の喧騒は雨音を掻き消し、ケ バケバしいネオンの単色と、眩いLEDの光が濡れた地面に跳ね返り、街全体が揺 らめいていた。 「テツ、こっち」 足場の悪い路地で、二人とも何度もつま付いては笑い合い。そうしてウダウダ歩 いてる内に輝紫桜町の正門前に辿り着く。 何重にも塗り重ねられたグラフィティと、ステッカーでボコボコになった壁を照 らす表通りの灯。使われていない鉄製のゴミ箱。 毎日、見てきた景色だ。ポルノデーモンの縄張り一つ。 此処で客待ちをしていた。羽振りの良さそうな奴、クソみたいな奴、かなり病ん でる奴。色目と言の葉を使い分け、肌を見せて心に入り込み、手当たり次第に金を 稼ぎ、ドロドロの汚れた身体を高級石鹸と酒とドラッグで洗い流す日々。 時には春斗達と戯れ、小生意気なユーチェンを呼び止め。テツに掴みかかって大 泣きした事も。逆上して客を半殺しにするテツを止めた事も。劇的な出会いも、つ まらない出会いも――全て過去になった。 此処はもう、俺には必要のない場所になる。 「このルートは雨を凌げる」 「この街の事は何でも知って……!」 テツを抱き寄せて壁に凭れ込む。掴んだテツの手は頭の上へ。見た目にはテツが 俺を押し倒した様になる。 見上げるテツの吐息も聞こえる程の距離。見つめ合う目を一ミリだって逸らす事 は出来ない。 「キスして……ここなら誰も見てないから……」 此処で嫌な思いを沢山してきた。最後に良い思い出を作ってやる。そう、これも 俺なりの輝紫桜町に対する仕返しさ――ザマ見ろ。 テツは少し緊張した雰囲気を見せているけど、戸惑ってはいなかった。真っ直ぐ 俺を見ている。 「蓮夢、お前酔ってるだろ」 「テツもね、そう言う事にしておいてよ……」 左頬を摩るテツの手は酔いで熱を帯びている、少しだけくすぐったくて、そのま ま頬を預けた。 毎晩の様にセクシーでエロい事を散々やって来たのに、こんなに鼓動が激しく息 苦しくなる事なんてなかった。今にも触れてしまいそうな距離。柄にもなく切なく なってきた。 「参ったな……キスなんて、人生で二、三回程度しかした事がないのに……」 「いずれ、星の数ほど交わす事になるさ……」 遠慮がちに柔らかく触れ合い、互いの頬に手を添え、次第に深々と絡め合う。テ ツの髪から滴る雨の雫が額を伝って来た。 互いに身体を強く寄せ合い、更に欲求は増していく。結局、こうなるのさ。次か ら次へ、もっとって激しく欲しくなっていく。 もっと触れたい、テツに触って欲しい、抱いて欲しい。――愛して欲しい。 でも、生憎と俺は“プロ”だった。飛んでしまいそうな理性と共に程よいタイミ ングでテツの唇から離れていく。変わらない距離のまま見つめ合い、吐息が重なり 合う。これ以上目を合わせていたら、またキスしてしまいそうだ。そうなった今度 こそ止められなくなる。 「また、連絡するよ……」 雨を言い訳の様に、振り返らずウザったい表の大通りへ走り出す。人混みをすり 抜けて、徐行する車を横切り、小路を抜け出して、隣の大通りを走る路面電車へ滑 り込んだ。行政の手を離れ、複数の組織がカンパして運営する歪で行き届いていな い路面電車。物騒過ぎて街の人間しか利用しないポンコツだ。 体重をかけたつり革がギチギチ音を立てる。今にも破裂しそうな胸を抑えながら 呼吸を整えた。 ロクに整備されていない線路と車輪に揺さ振れながら、少しづつタスクを再開し たかったが、今は難しい。自分の想いとテツへ想い。そして成すべき事。胸一杯に 溢れる感情が思考を妨げていた。今は凄腕ハッカーのCrackerImpに戻れ そうになかった。 雨脚は強くなり、窓から差し込むネオンの光をノイズの様に乱していく。 仕切り直しだ。残りの夜を早々に消化してしまい、明日になるのを望んでいた。
コメントはまだありません