3.― DOUBLE KILLER ― 目から光が消えた。 人形の様な生気のない蓮夢の表情は、この腕の中で息絶えていった戦友達を思い 出させる。 人間なのに、こうもあっさりとスイッチを切る様に止めてしまえるとは。これが サイボーグなのか。 予想以上にショックを受けている。受け答えも儘ならず、虚ろな目をして壊れか けた蓮夢を見ているのは。何時も何かを考え、目的の為に情熱的に取り込んでいた 姿が、見る影もなくなっていた。 握っていた左手は既に力が抜け、簡単に離せた。真っ赤な痕が付いている。 あれだけの激痛に絶える為だ。こっちの手がへし折れるんじゃないかって程の力 で握り締められた。 「折れてるんじゃないか? 左腕はチタン合金の骨格だ。握るなら右にしておけば よかったな……」 龍岡はモニターから目を離さずにぼそりと言った。そうだった、蓮夢の左腕と一 部の骨はチタン製のデバイスだった。 指を曲げて振って様子を見るが、折れてはいない様だ。フランケンシュタイン博 士との出逢いは最悪な幕開けだ。 「やるなら、蓮夢に一言、言ってからでもよかったんじゃないのか。冷淡だな」 バンと、わざとらしくエンターキーを叩くと、龍岡は立ち上がって迫る。医者や エンジニアと言う肩書きにしては、厳つい肩幅と胸板の厚さだ。年齢にしては鍛え てる方だな。 俺がどんな人間なのかも知らずに、大した度胸だ。 「言おうが言うまいが、痛みは変わらない。直すのが俺で、励ますのがお前だ。円 滑に修復できる様、蓮夢が準備をしていた。だから一分たりとも時間を無駄にはし ない」 頭部の拘束具を外し、蓮夢の頭をゆっくり支えて解いた。天井から吊るしてある モニターを目線の位置まで下ろして凝視する。 「見ろ、ナノマシンが修復を始めた。蓮夢がダメージ箇所を事前に記してくれたお 陰で、作業内容をナノマシンにプログラム出来たから、無駄が一つもない。こう言 うのを高効率って言うんだ」 勝ち誇る様に言ってみせる。鼻持ちならんな。しかし、物事を決める時や提案し てみせる時の蓮夢と、どことなく似ていた。 蓮夢が時間を大切にしたり、常に効率を上げる事を大事にする辺りは、龍岡の影 響だろうか。 全身の拘束を解くと、椅子はゆっくりと水平に倒れてベットになった。 「ナノマシンは使用者のDNA情報を組み込んで精製される。汎用機はない。体内 の有害な物質の分解除去、細胞の再生まで行える。全てが血肉となり骨となる」 「本当に二十四時間で治せるのか?」 「外傷は一時間もすれば完全に塞がる。抜糸しないとな。骨折も三時間あれば。脊 髄と人口神経の修復は二十時間程。OSのリカバリーは十四時間。再インストール とバックアップの同期に六時間ってところだ。どの作業も二十四時間以内で完了す る。ナノマシンも潤沢だ、心配するな」 モニターの人体図は蓮夢の状況を標していた。全身のほとんどが赤と黄で表示さ れている。肋骨を折っていたのか、相当無理をしていたんだな。 人体図の横では、ナノマシンのタスク状況が目まぐるしく表示されては滝の様に 流れていく。蓮夢の左腕の接続ポートは六つ全てが機材に繋がれていた。その中の 丸いチューブからは灰色がかった水銀の様な液体が流れ込んでいる。これがナノマ シンなのか。 「凄い技術だ。俺もナノマシンは入れてみたくなったよ」 これだけのダメージもだが、切開手術が必要な処置もナノマシンなら全て解決す る。 これがあれば戦闘時の生存率も格段に上がるな。体内に流し込むだけなら、イン プラント適合率も関係なさそうだし。 「動脈と心臓にチューブを刺して、ポンプ機を使い八十時間かけて人工血液に変換 して順応すれば、ナノマシンを飼える身体に出来るぞ。血液型の枠から外れ、輸血 も出来なくなるし、他人に分け与える事も出来なくなる。承認するか?」 聞いているだけで血の気が引いた。同時に今の蓮夢は血液型が存在しないと言う のも複雑な気分になる。やはり美味しい話には裏があったか、ナノマシンが世の中 に浸透しない理由も理解できる。 DNAベースのオーダーメイドでは補給は困難で、仮に手術が必要な事態に陥れ ば血液の確保も困難。 おおよその怪我や病気には自己解決できるが、それ以上のダメージに対して脆弱 なシステムだった。しかし、デジタルブレインで常に神経に負荷がかかる蓮夢に必 要な物かもしれない。 サイボーグ的な見た目が全くと言っていい程、見受けられない蓮夢の身体ではあ るが、中身は俺が思っていた以上に改造されていた。 時折、蓮夢はサイボーグである事を悲観視する節があったが、その理由を深く考 える事もなかった事を、今更ながらに後悔していた。 しかしながら、それとは別に始終、吹っかけて来る龍岡がいい加減、疎ましくな ってきた。 「それを含めて、蓮夢は選択の余地なくサイボーグになった訳か……。条件の揃っ た都合のいい素材として……」 案の定、龍岡が睨んできた。特に感情もなくその目を見据えてやる。 仕方のない事だったのは分かっているが、龍岡が一番指摘されたくないであろう 事だ。蓮夢に施した事が、純粋な救済な訳ないんだ。 微量だとしても蓮夢をそう言う目で見ていた事は紛れもない。 「蓮夢から色々聞いてるらしいな。まぁいい……ちょっと顔貸せよ」 龍岡が部屋から出るのを確認して、脱け殻の様な蓮夢の傍へ行き、目蓋を下ろし てやる。 静かに眠っている。まじまじと見つめると言うのは何となく気恥ずかしい。 無意識に額を撫でていた。改めて思い知る。容姿端麗で同じ性別の奴とは思えな いぐらいの美形だ。勝手な偏見だが、修羅場に無縁な雰囲気に思える。 それでも、ヤクザのリンチに堪えて、飛び交う銃弾を掻い潜り、想像を絶する大 量のデータを脳内に流し込んだ。――壊れるまで。 蓮夢、本当にお前は凄い奴だよ。 診療台に投げてあったブランケットを蓮夢にかけて部屋を出る。古くて、くたび れた診療室。機材だらけの無菌室の様な部屋とは別世界である。 反対側のドアが開いていた。給湯室の様だが、ここも別世界だ。木目調の壁紙に 床には厚手のカーペットが敷いてあった。靴を脱いで部屋へ入った。中央には如何 にも貰い物といった感じのステンレスの丸テーブルと不揃いの椅子が置いてある。 龍岡がサイフォンで作ったコーヒーをマグカップに注いで差し出す。 椅子に座り、マグカップに指がかかるタイミングでタブレットがテーブルを滑っ てきた。 「お前と蓮夢の仕業だな?」 タブレットにはネットニュースが大きく表示されている。アクアセンタービルで テロ攻撃と見出しに大きく書かれていた。 地下と上階は死体だらけ、外とロビーはオートマタの残骸の山。流石に隠蔽する 事は出来なかったか。想定内だが厄介な状況だ。 ふと、あのサイキックを思い出した。変わった容姿をしていた。狐の面に光沢感 のある漆黒の衣装と鋼鉄の尾。 まだ十代後半の子供でしかも女だった。エリアFで襲ってきたサイキックよりも 遥かに強力な力を持っていた。 忍者野郎の鵜飼と知り合いらしいが、奴も海楼商事と関わりがあるのだろうか。 「さっきは声を荒げて悪かったな。あそこまで酷い状況の蓮夢を見るのは初めてだ ったから、俺も取り乱してたんだ……。しかし驚いたよ、蓮夢が誰かと組んで仕事 をするなんて、歓楽街の浅い付き合いは多いが、ハッカーの仕事や、プライベート は閉ざしている奴なんでな」 白いマグカップにコーヒーを注ぐ龍岡は、少し落ち着きを取り戻していた。 蓮夢がポルノデーモンと呼ばれている時の姿は何度か見てる。確かに二面性を感 じる事はあった。 俺と一緒に行動してる時も極力明るく振る舞ってはいるが、ふとした時に寂しげ な表情をしてる事も知っている。 人一倍、孤独を嫌っているのに、孤独を選ばざるを得ない。違法サイボーグであ る事や“ナバン”の人間だった事が、蓮夢に孤独を選ばせている。 「蓮夢は仲間内の密告で敵に連れ拐われた。俺は救出の為に乗り込んだ。アンタに 責められた事に関しては、返す言葉もないよ……。それでも、俺達は最も重要な目 的を果たした。そこに後悔はない……」 タブレットを龍岡の元に押し返した。まるで保護者の様だな。この場に蓮夢がい ない事をいい事に、普段話せない事や感情を解放している様にも思える。 蓮夢の事を話せる相手がいなかったんだろうな。 「あの応急措置はお前が」お粗末様と、目で答えた。「的確で良い処置だ。戦争地 帯のNPOや軍医のやり方によく似ている。合成タンパク質もその辺で手に入る代 物じゃない。テツだったかな? 軍歴が?」 「鉄志だ。傭兵をやってた事がある」 「サイボーグとエンジニアの関係はある種の一蓮托生だ。メンテナンス、修復や修 正、アップデートもある。俺は蓮夢の事に関しては知る義務がある。お前の相棒と 言う言葉が、どれ程のものかは知らないが、相棒であるなら、俺のこの義務を拒む 権利なんかないと思え。全て話してもらうぞ」 切っても切れない関係。サイボーグは自力で自分を維持できない。複雑なデバイ スをインプラントしたのなら尚更か。 龍岡が頼りだ、蓮夢にも俺にとっても。逆らえないな。 「世界中の裏社会や政治的組織が世の中のバランスってヤツを調節できるシステム を作った。紀元前から存在する世界の裏と表で暗躍するアサシンの集団“組合”と 呼ばれる存在。俺はその中の駒の一つだ……」 「何をしている?」 「バランスを乱す都合の悪い者に対して“実行”する……」 コーヒーを一口飲んだ。話す事を渋っていてもしょうがない。それで何時も余計 な遠回りをする。蓮夢にとって欠かせない人間だ。下手に濁さず、聞かれた事には 全て話そう。 会話で得られる事は多い。蓮夢から教わった様なものだ。 「殺し屋か……」 「医者でもあるアンタにとっては忌々しいかな?」 自分で言ってて虚しくなる。足元にも及ばないが、きっと蓮夢と同じだ。アイツ が自分の事をビッチだHOEだと言っている時と。 こんな気分なのか、無力感と自己嫌悪に満たされる。自尊心なんて大して持ち合 わせていないつもりだったが、それすらも削られる様な気分だ。蓮夢はこんな思い を十代の頃から、ずっと味わっていたのか。 何故、気付いてやれなかったんだ。空っぽな自分の心に腹が立ってくる。 「蓮夢を狙っていたのか?」 「その海楼商事に関する件で、間接的に蓮夢は組織に干渉してしまった。情報を聞 き出し、排除も厭わない状況だった」 龍岡の厳しい視線を受け止める。しかし、その目は意外にもすぐに緩み、口角も 少し上がっていた。 今の状況を見れば結果的にどうなったかなんて話すまでもないが。 「アイツに上手く丸め込まれた訳だ」 図星だ。あの夜、蓮夢とあれこれ話してる内に殺す気が失せたのは、蓮夢が意図 して会話を持ちかけたせいだ。取り合わない様にしても、入り込んでくる。 話術なんて単純な話じゃない。相手の心に入り込み釘付けにする、蓮夢が生き抜 く為に自然と身に付けたスキルだ。そして“ナバン”のボスが甘い毒を加えて昇華 させた。 「そうかもな……手を組まないかと提案された。今となっては承諾して正解だった と思ってる。優秀だよ、蓮夢には色々助けられている」 助かっている。それに助けてもいる。対等な関係でありながら、ストレスや行き 違いもなく、ここまで上手く連携できる他人と言うのは稀な存在だ。幼馴染みや戦 友達の様な関係性をまた築けるなんて思ってもみなかった。 いや、違うな。俺と蓮夢の関係性は、今までの誰とも違う関係だった。 「相棒として申し分ないって事か」 「一時的な関係だと言うのが惜しいよ。でも立場も生きる世界も違う。正直、煩わ しい……」 殺し屋になる。この条件で日本に帰ってきた。日本に帰れば、戦場から離れたな ら、何か変わるじゃないか。そんな希望を持っていた時期もある。 しかし、何も変わらなかった、それどころか何もかもが悪くなっていった。 仕事をこなし、腕を上げ、評価と対価を手に入れて。物質的な豊かさに囲まれて も、何一つ満たされる事はなかった。ただ虚しく時間ばかりが過ぎていく。 蓮夢から離れたら、また同じ日々に戻るのだろうか。その時、俺の心は耐えられ るのか。 「永続的でありたいと聞こえるな 蓮夢に、殺しの手伝いでもさせるつもりか?」 「いや、俺が蓮夢の手伝いをしてやりたいのさ。アイツが今やってる仕事は、海楼 商事の情報を奪うまでだが、その先もやる気らしい。せめて、そこまでは付き合う つもりだ」 でも、離れるしかない。龍岡の言う通り、殺し屋である以上、このまま傍にいれ ば何時かは蓮夢に“組合”の仕事をさせる事になる。或いは“組合”に招き入れる 事にもなりかねない。 俺独り“組合”の掟と忠誠で、ろくでもない死に方で終わるのが因果応報だとし ても、蓮夢を巻き込む訳にはいかない。 「海楼商事は何をやっているんだ」 「“受け皿”だ。世界中から“特定の人”を攫って、ロシア、上海経由で日本に密 輸している。海楼商事はその人達を含めた密輸品を管理している。港の利権を独占 しようとしているし、幾つものダミー会社を介して、六連合自治区内で好き放題や ってる……。人身売買とか単純な話だと思っていたが、そうでもないらしい」 大企業だ、手広くやってるのは知っていたが、その規模は日本の“組合”を遥か に越えていた。 わざわざイワンをけしかけて、他所の“組合”が介入してきたのも、これなら合 点がいく。――いよいよ裏が見えてきた感じだ。 人の売り買いだって吐き気のする話なのに、この案件はその中で最も質が悪い。 「蓮夢を雇ったのは攫われた者の身内だろう。見つけ出して救出する。ハッカーの やる仕事じゃないが、蓮夢はそこまでやる気だ」 少し冷めてしまったコーヒーを飲む。 正規のルートを使わず、ハッカーを雇って人探しをする雇い主からは執念を感じ る。蓮夢の言う通り一般人なら尚更だ。 今になって思えば、蓮夢はある程度この状況を想定していたのかもしれない。だ からこそ、俺と手を組みたいなんて大胆な提案をした。 “組合”と言うリスクを背負う覚悟で、目的を共有して戦える人間。俺は正に打 って付けだったろう。 「本当に馬鹿な奴だ“助けたら終いまで”なんて、馬鹿真面目に実践する奴が何処 にいる……。この街じゃ“だから助けるな”と続くんだ。それを……」 龍岡もコーヒーを飲み、言葉を詰まらせる。蓮夢ってヤツは、つくづく何故とど うしてが尽きないな。 これ以上、詳細を放す必要はないが龍岡自身も、蓮夢が請け負っている仕事が大 事だと言う事を理解した様だ。 蓮夢のしている事、やろうとしている事は、容易く肯定する事も否定も出来ない からもどかしい――善意とはこうも厄介なものとは。 「普段は何かにつけて、遜っているくせに。どうにもならない様なデカい体制や通 念には反発する。アイツらしいと言えばそうか」 これ以上、龍岡を心配させても逆に蓮夢を困らせる事になるだろうから、話題を 蓮夢の話に変えた。 少なくとも、ここまで来てしまった俺達には降りると言う選択肢は既に失ってい る。もう、やるしかないんだ。 「この七年、蓮夢は自分の可能性を模索し続けていた。儘ならない現実と向き合い ながら。年々心が擦り減っていくのを見ているのが辛かったよ……。何とかしてや りたいが、エンジニアとサイボーグの関係では限界がある」 「何とかしてやりたい、か……。どこまでやればアイツは満たされるのか。せめて 俺が横にいる内に納得してくれるといいんだがな。この仕事が成功したなら、アイ ツは変われるのだろうか」 龍岡の話す蓮夢の姿は、俺が常に見続けてきた蓮夢と同じだ。心を擦り減らしな がも、前を向こうと堪える姿だ。 見守る事しか出来なかった龍岡の心中は察する。口惜しいだろうな。 それでも、そんな蓮夢の姿が儚く危うげで、時に俺ですらも救い上げる。強くも あり弱くもある。矛盾がありそうでない、複雑な心。 俺は龍岡と違い、蓮夢のそんな強さに応えなくてはならない。 ふと気付くと、龍岡がこちらを見ていた。何か探りを入れる様に。 「ところで鉄志、不躾で申し訳ないが、蓮夢の事を抱いたか?」 口元に触れかけたコーヒーを吹き出しそうになった。 「な! 何を言い出すんだ! 言っただろ、俺達は相棒だと」 「パートナーの在り方も色々あるだろ? 蓮夢はお前の事を随分気に入ってるみた いだし、蓮夢のあの感じだと……。意外と奥手な所があるんだなアイツも」 下顎に垂れるコーヒーを拭う。ワイシャツに垂れずに済んだ。 必要以上に慌ててしまったせいか、龍岡の言い振りは既にそういう関係か、そう あるべきと肯定的に雰囲気を出していた。 俺と蓮夢が肉体の関係まで結ぶ。想像も出来ない。今、その一歩手前まで来てる かも知れないのに。勘弁してほしい話題だった。 「ったく、輝紫桜町の連中ってのは“お構いなし”な考え方ばかりだな」 「この街の外の世界が、気にし過ぎているだけだろ。言葉で飾って理解したつもり で勝手なレッテルを貼って、不変的な物の見方をする。余計な情報が纏わり付いて 人間の核を見ていない。数字や言葉では表せない変わり続ける色を……。単純に見 えて最も複雑なものに向き合わない。って蓮夢はよく言っていたっけな」 確かに蓮夢が言いそうな事だ。初めの頃は全く理解できなかったし、理屈で分か っていても、自分には関わりのない話だと流していた所もある。 しかし、今は――大いに関わっている。 もし、俺と蓮夢が。と考えてみたり、想像した事がない訳じゃなかった。蓮夢が 時に見せる妖艶な無邪気さや、その手の誘いが二人の中で自然なジョークになって いったからだ。 しかし、次第にジョークではなくなってきているのも事実だった。だからと言っ て俺に何が出来る。もしも、そう考える度にブレーキがかかってしまう。また俺は 向き合うべき事柄から、目を背けているのだろうか。 「俺の人生はこんな筈じゃなかった。どんなに成功を重ねても、たった一つのミス で一気に落ちていく。名声も家族も失った。そして行き場もなく、この地獄へ流れ 着いた。それでも、蓮夢に出会えた。アイツを通して、学べたり得られるものも沢 山あった。悪くない……」 龍岡は残りのコーヒーを飲み干した。明確な意思を持った強い眼を俺に向けて来 る。遠回しに、大した事じゃないから試してみろと、言われた様な気がした。そん な簡単な話じゃないだろと、即座に否定しようとする自分にも違和感があるし、一 体、どうすればいいんだ。 「蓮夢は唯一無二のサイボーグだ。その可能性は既に俺の手から離れて、まさに無 限大だ。それが良い事なのか、悪い事なのか。答えはまだ出ていないけど、蓮夢は 良くしようとしている。だから俺も出来る限りの協力をするだけだ。それが自分を 救う事になるからな」 人それぞれだなと、在り来りかもしれない言葉が頭を過った。ここ最近、或いは 蓮夢と行動を共にする様になって、この輝紫桜町を出入りする様になってから、多 様な感情に触れている気がする。 兵士だった頃は足並みを揃える事、意識の共有ばかり考えていた。殺し屋になっ てからは、感情を閉ざして、ただ実行するのみ。 在って無い様な壊れかけの心しか持ち合わせていない俺には、その心の一つ一つ が圧倒的だ。 もっと、人と触れ合うべきだったのか。何故触れ合わなかったのだろう。この歳 まで生きて、耐性も免疫もなく空っぽな自分に憤りを感じていた。 「人間の核って何だ?」 「蓮夢に直接、聞いてみるといい。蓮夢の事、頼んだぞ鉄志」 頼まれてしまった。蓮夢を担いで龍岡を呼んで、会って早々に睨み付けられ、責 め立てられた数分前が嘘の様だ。 蓮夢の相棒でいたい――それが俺の本心だった。 しかし、消化し切れないしがらみと葛藤はどうすればいいんだ。また、目を背け 様とする自分がチラ付いて来る。 苛立ちを掻き立てる様に携帯のバイブレーションが音を立てた。もう少し静かに 主張してもらいたいものだ。 イワン・フランコからだった。ここ最近、放任されていたが、いよいよ完了報告 の時か。 会うのが楽しみだよイワン。――こっちも聞きたい事が定まったからな。 「お互い丁度良いタイミングじゃないか。蓮夢の様子が気になったら、何時でも連 絡しろ。明日までには必ず回復させてやる」 院内アナウンスのAIボイスが龍岡を呼びつける。急患らしい。 手早く書かれたメモを渡される。メモには携帯の番号とダイレクトメールのアド レスが書かれていた。スーツの内ポケットに詰めておく。 あれだけのダメージが本当に一日で回復するものなのだろうか。龍岡と蓮夢の常 識は俺よりも遥か先にある。 今は二人を信じるしかない。 「相棒を、よろしく頼む。龍岡さん」 肩を軽く二回叩いて、龍岡は足早に診療室を出ていく。残りのコーヒーを飲み干 した。さて、俺も動くとしよう。蓮夢から託された任務を全うしなくては。 “俺に何をさせるべきかを考えておいて”蓮夢は言っていた。明日の今頃になる までに、次の一手が打てる様に備えておかねば。 蓮夢が眠る部屋に目がいく。このまま放置してても大丈夫なんだよな。少し気に なる。もう一度だけ、様子を見ようかと思ったが堪える事にした。回復して何時も の調子を取り戻した蓮夢に早く会いたい。 無意識の内に、指が唇に触れていた。あの時の感触を思い出している。 もう、目を背ける事も誤魔化す事も限界が来ていると、認めざるを得ない。龍岡 と話していて、ハッキリと自覚してしまったのだ。 俺は――蓮夢に依存していると。
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