7.― PORNO DEMON ― 胃液から何から全て出し切ったが、収まる気配がない。このまま胃袋が裏返って 口から飛び出してきそうだ。でも、それも悪くない。フルーツの香りがする石鹸で 洗い流せればどれだけいいか。喉まで突っ込んで、ポルノ男優みたいなサプリ漬け のキツくて濃いヤツを、遠慮なく流し込みやがってクソが。 ホテルを出るまで何とか堪えてたが、結局、この情けない裏路地で何度も吐き倒 している。こんなの、慣れっこな筈なのに、どうしてこの身体は言う事を利かない んだ。何もかも拒絶されている様だった。 相変わらず、俺は運に見放されてしまったかの様に、相手する客のほとんどが避 けたい奴等ばかりだった。マッチングアプリの不都合だけでなく、まるで俺の移動 ルートや、その時間帯までも把握されているかの様だった。 きっと、バチが当たったんだ。人殺しなんてするもんじゃない。そんな風にでも 思わないと、こんな不条理、耐えられなかった。 飲みかけミネラルウォーターで口をゆすぐが、まだ少し臭いが残ってるいる様な 気がして、またえずいてしまう。――マジ、笑えるよ。 頭痛は何時もの事だが、今は眩暈も酷かった。近くにある、積み上げたビールケ ースに凭れて、へたり込んで息を整える。まだ少し、込み上げて来るものがあるけ ど、胸の辺りを抑えて、落ち着くの静かに待った。 通りから入る、けたたましい赤紫の明かりをぼんやり眺める。こう言う、クソッ タレな気分で裏路地でうなだれると、この街に来た頃を思い出す。 行き場どころか、逃げ場すら失って、この地獄に堕ちた薄汚い野良犬だ。 何故、あんな事しちゃったんだろうね。また何時もの、もしも話が始まる。 別の選択肢、そんな物はなかった。少なくともあの頃の俺には、それしかやり様 がなかったんだ。 だから、今ここで俺に起きている事は、全て当然の結果なんだよ。 貧乏人に安売りして、街のHOEに袋叩きにされて――悪魔に弄ばれ。 大切な人を失って、機械仕掛けの身体になって、ただ虚しく時が流れて。他人の 心に魅せられても、それに触れる勇気すらも持てないまま、ここで今、のたうち回 っているのも。全て、お前が望んだ結末だろ。――向き合えよ。 何時も同じさ、何時も同じ結論に打ちのめされる。向き合うしかないんだよね。 でも、辛いな。そう心が認識した瞬間に、不快な物が頬を伝う。違う、これはさ っきまで吐き倒した時の残りだ。化粧が崩れてるんだろうな、間抜けなパンダ目に 仕上がってだろうよ。 塞ぎ込みたかったが、それ以上に煙草を吸いたい欲求に駆られたので、それを優 先させる。 この街に来て好きなった銘柄の“マンガク”のライムフレーバーを一本取り出し て、火を着ける。相変わらず、着きの悪い安物ライター。 “マンガク”は香りが強くて、口だけじゃなく、その奥まで香りが染み付いて行 く様な感じがして。良いリセットになった。強烈な臭いも誤魔化せるので。HOE だけでなく、広くセックスワーカーに好まれている煙草らしい。 “マンガク”は韓国の言葉で、“忘却”を意味する。確かに悪くない。 見えない空を見上げ、目一杯吸い込んだ煙を一筋吐き出すと、表通りの光に照ら された白い煙が赤紫に染まる。この世は正に地獄だ。 それでも、ライムの香りと重めのニコチンで少し吐き気が落ち着いてきた。 「ちょっと、やだぁ! 蓮夢さんどうしたのぉ!」 甲高く、少しわざとらしい声。誰の声なのか、すぐに分かった。雅樹だ。こんな 様を、一番見られたくない奴に見られてしまった。 「別に、“飲み”過ぎただけだよ……」 「吐いたの?」 横目に雅樹を見ながら、煙草のフィルターの中にあるカプセルを潰す。普段は使 わないが、カプセルを潰すとハッカが混ざり、メントール系の煙草になる。 吐いたのかと言う問いに、答える気はなかった。見りゃわかるだろ。そう言いた かったし、やはり先日の春斗の話が気になった。 俺の気落ち具合を、嬉しそうな雰囲気で話していたと言うヤツだ。雅樹の方は最 近、思う様に客を捕まえられなくなっていると、春斗から聞いていた。 多少なりその鬱憤が、俺に向いているのだろうと、軽く考えていたが、今、雅樹 からは相当、根深い物も感じ取っていた。 「ポルノデーモンも大変ね……。売れ過ぎるのも考え物よ。潮時なんじゃない?」 きっと春斗なら、背中でも擦ってくれるんだろうけど、雅樹の言葉からは、気遣 いの様なものは感じられず、呆れ返ってる。そんな雰囲気が感じられた。 何が潮時だ、勝手に決めるな、舐めやがって。 でも、春斗や雅樹、ウリ専の後輩達との縁は簡単には捨てられなかった。こんな 奴でも、昔、同じ組織で苦労を共にした仲間だったからだ。 煙草を吸い続けて、平常を装う。俺は輝紫桜町のポルノデーモンだ。後輩のつま らない妬みやっかみに、一々目くじらを立てるほど、ケツの穴は小さくないよ。 「なぁ雅樹、やめようぜ。俺達、仲間だろ? 同じ“ナバン”の……」 「もう“ナバン”はないわ、アンタのせいでその“ナバン”が潰れたって噂もある の、知ってるくせに……」 雅樹の言葉に身体が凍り付く。確かに、そんな噂があるのは、何年も前から知っ ている。しかし、その噂を口にする者は滅多のいない。ましてや、俺の前で言うヤ ツなんて論外だ。雅樹、お前。――そう言う事か。 確かに“ナバン”と言う圧倒的な権力の庇護にいた俺達は、今よりは輝いていた だろう。嫌味な装飾に彩られた玩具の様に。 飾りがなくなってしまった事で、俺達は何時の間にか、差が出始めたのかもしれ ないな。それを俺のせいだって、言いたいのか、雅樹。 「蓮夢さんさぁ、もう引退した方が良いんじゃない? 見るからに辛そうよ。もう 充分稼いだじゃない? 男ばかり相手してないで、両刀持ちなんだし、ジゴロとか “遊び人”してた方がいいじゃないの?」 上目遣いに雅樹を睨んでいたが、雅樹の毒は留まる事を知らず、俺の心を抉って いった。俺の心なんて数ミリだって解かってないくせに、適当な事ばかり。 知ってて言っているんだろうけど、一番、堪える。――異性愛者だけでなく、同 性愛者にも偏見を持たれているんだなって感じる時が、なんか、切なくて悔しい。 でも、気にする事はない。所詮、雅樹の悪意なんだ。俺達HOEなんて、相手を 罵ろうと思えば、幾らでも毒を吐ける生物さ。気にしなくていいんだ。 腰を上げて立ち上がる。立ち眩みと、血の気が引く感覚に襲われるが、咥えたま まの煙草を吸って吐いて、雅樹の足元に捨てる。 雅樹は身構えていた。俺も大分、殺気立ってるのは自分でもよく分かっていた。 でも、やはり今この場で怒鳴り合ったり、殴り合うとか、力任せな事をする気に はなれなかった。疲れているし、面倒臭い。 雅樹を睨み続ける。雅樹は迫る俺からあっさり目を逸らすが、絶対に逃がしてや らない。両手と壁で雅樹を囲み、目を合わすまで待つ。 七年前に俺の変色した左目を“気持ち悪い”ってハッキリ言った事は忘れてない んだ。見ろよ俺を、俺の目をな。雅樹が観念して、俺と目を合わせる。 「俺が邪魔か? 雅樹……。悪いけど、俺はまだ十年はポルノデーモンやれる自信 あるぜ。この街の人間共は誰もが俺の身体を求めている。オスだのメスだの、どう でもいいし、まだまだ稼ぎ足りないよ……。ねぇ雅樹、俺の客を全部、横取りして よ。稼げなくなったら、消えてやるよ。お前が成ればいい、この街の悪魔に」 キスしてやれるぐらいの距離まで顔を近づけて、俺は雅樹に宣戦布告した。雅樹 が生唾を飲み込む音もよく聞こえた。目も泳いでいる。 舐めた口利いておいて、結局こんなもんか。こいつは何時も口ばかりなんだ。 そう言う薄っぺらさが見え透いてるから客が付かないって何時になったら気付け るのか。その程度で、俺を潰そうなんて永久に無理なんだよ。 何だか、大した事ない雅樹の顔を見ていたら、吐き気の代わりに嘲笑が込み上げ てきて、堪らず噴き出してしまった。 「お前、本当ブスだな……」 他にも言いたい事はあったけど、それもどうでもよくなってきたな。雅樹を尻目 にして表通りに出た。賑やかで華やかな人通りは少し歩くだけで酔ってきた。 マシになったかと思ったが、まだ吐き気が残っている。心拍数も高い。今、ヤク をやったら、間違いなくバットトリップだな。 今夜は大人しく上がった方が良さそうだ。明日も朝から、CrackerImp の仕事がある。久し振りに、しんどいダブルワークだ。 あの要塞の様なビルのシステムに侵入するには、どんな手が有効だろうか。他に 手はないだろうかと、常に考えている。客とヤッてる最中だって考えてる。 数日前に思い付いた、突拍子もないアイディアの方は、実践してみたところ、あ る程度の効果があったが、まだ利用できるタイミングではない。これはまだ、地道 に継続していくしかない状況だ。 だからこそ、他に出来る事はないだろうかと、過ぎていく時間にひたすら焦りを 感じるのだ。認め難いけど、自分の知恵や知識に、限界を感じ始めていた。 考え事に気を取られていると、人混みの流れにぶつりかりかけて、よろめいてし まった。本当、シケてるよね。 よろめいた先にある、雑貨のショーウィンドウを眺める体で、自分の顔の様子を 見た。 髪も乱れてるし、やっぱりアイシャドーも崩れてパンダ目になってる。酷くやさ ぐれた様だ。化粧を直すか、落とすかしたい。 手櫛で髪を整え、軽い溜息をつき終えると同時に、脳内から控え目な警告音がこ だまする。AIにタスクを一任させている警戒ソフトからの警告だった。 視界から得た情報の中で、一定の距離と一定の時間の中で、同じ顔の人物、その 視線の分析によって――尾行の可能性を警告する物だった。 林組の一件以降、外にいる時は起動させていた。自分の作ったソフトが有効に動 いているのは、嬉しい事だが、これは喜べる状況ではない。 さりげなく、周囲を見渡して、また歩きだす。視界をグリーンの単色に変え、警 戒ソフトの情報を確認した。 尾行の根拠を示す画像、目は意識していない為、対象にフォーカスが合っていな い、ボヤケ気味の映像だ。ホテルから出た時、裏路地でうなだれてた時、裏路地を 出た時。そして、今。 黒髪、長めのツーブロックをかき上げた髪型、身体のラインにマッチした清潔感 のある黒スーツに白のワイシャツ、黒のネクタイ。 一見、ありきたりな容姿に思えるが、整っていて様になってるのは、オーダーメ イドのスーツだからだろう。仕事上がりの人間の着こなしではない。 正直、かなりカッコいい雰囲気かもしれないな。 そして、画像では鮮明ではないが、それでも伝わってくる。異様な程の鋭い目付 き。それは確実に俺を見ていた。 間違いなく尾行されている。何処の誰か。それを考えるよりも、この尾行を早め に巻く事を優先すべきだ。なんとなく分かる、こいつは――かなり危険だと。 とりあえず当てもないが、歩いてく。尾行を巻くなら、この雑踏が途切れる前に だ、このまま歩き続けると人気が少なくなっていく。 ジャケットのポケットに入れてある。煙草の箱より一回り小さな黒いドローンを 取り出す。これも自作のドローンだ。 “インセクト”は小柄で、対象に張り付ける様に虫の様な六本の足が付いた、偵 察と追尾に特化したドローン。この場で飛ばすと目立つので、裏路地の方へ、さり 気なく投げ捨ててから飛ばした。 まだ胸の辺りがムカついているが、少し歩くスピードを上げた。上空十メートル の辺りで“インセクト”をキープさせて、映像を視界へ送らせる。 俺が急ぎ足になったので、スーツ姿のストーカーも少し早歩きになっている。簡 単に補足できた。 次の角を曲がってみよう。必ずヤツも曲がるだろう。その先は飲み屋も風俗店も なく、二十四時間営業の生活用品店が多い。遊びに来た外の人間には、大した魅力 はないエリアだ。 やっぱり曲がって来た。絶妙な距離を保っている。俺に動きに不自然なものがあ れば、すぐにでも近づける距離だ。“インセクト”が補足していても、つい振り向 きたく衝動を抑え込むので精一杯だった。 もう少し行った先に、小さなドラッグストアがある。この街一番のドラッグディ ールギャング“サクラ・トラップ”の連中が経営してる店の一つだ。広い用途にお いて、正にドラッグストアである。 昔は客とディーラーの関係だったが、ボスのやらかしをCrackerImpが 何度かフォローしてやったお陰で、今ではそれなりにウィンウィンな関係を保って いる。格安でどんなドラッグでも買えた。よく言う、持ちつ持たれつの関係と言う ヤツだ。 店が見えてきた。外観は古い雑居ビルで黒ずんでいるが、店内は明るく、清潔感 が漂っている。 「蓮夢さんっスかぁ? なんか、久し振りっスね……」 店の中へ入ると、フードを深々と被った、舌足らずなズーハンが、カウンター越 しに話しかけて来た。 偽造の薬剤師免許を持ってるヤク中で、組織の2番手だった。 「輸入物の良いネタ仕入れてますよ」 「うん、今日はやめとくよ……」 化粧品の売り場から、クレンジングシートを取って、カウンターで会計を済ませ た。ズーハンの言う良いネタと言うは実に魅力的だったが、今夜は楽しめそうにな かったので、断る。 “インセクト”からの映像では、道路を挟んだ店の反対側でストーカーは立ち止 まっていた。 「お手洗い使わせてもらうよ。そして窓から出てく」 「なんかトラブルですか?」 「何時もの事だよ」 外から見られる分には、客と店員のちょっとした会話程度のものに、見えている だろうか。真上から見る映像でも、こちらの様子を伺っている様に思えた。 このまま店に居座っても、あのストーカーは店に入ってくるだろう。トイレに入 って上着を脱ぐ。 シートで化粧を落とし、顔を洗う。ホッとして、気分はスッキリするが、緊張感 は依然高いままで、疲労が押し寄せて来る。 物置にある、モップバケツを取り出して、それを足場にして窓から外へ出た。ジ ャケットを腰に巻く。 この先の裏路地は、改築を重ねた雑居ビルが入り組んでいて、分かれ道も多い。 最終的には居住エリアに辿り着くが、それまでには完全に巻いてみせる。十八の 頃からこの街で生きている。移り変わりの忙しない街だが、その歪な形は基本的に は変わらない。色んな奴等と、散々追いかけっこしてきたよ。警察にチンピラ、ヤ クザやHOEにも。全てではないけど、逃げ切ってきた。行き止まりに思える壁や 金網にも抜け道や抜け穴もある。 しかし、驚かされる。ストーカーの方も既に裏路地を移動していた。俺が店にい ない。そう判断して行動に移す早さが尋常じゃない。一体何者なんだ。 この迷路みたいな裏路地を、何度も利用しているかの様な手慣れた動き。迷いが あっても数秒で動いている。追尾する“インセクト”も、ついて行くのがやっとな 程だ。――怖ろしい程の空間把握能力だ。 こっちも裏をかくぐらいのルートで逃げていたが、思っていた程、距離を離す事 が出来ていなかった。不味いな。 このまま、人気のないところで捕まるのは危険だ。路地を抜けて、再び歓楽エリ アの方へ戻るのも、手かもしれない。人の目が多いところなら、派手な事はできな いだろう。 とうとう、裏路地を抜けてしまった。壊された街灯は役目を果たさず、寂れたマ ンションと雑居ビルからの灯りも微々たるものだった。向こうには警察のオートマ タ“首無し”がうろついている。 警察のオートマタをハッキングして、ストーカーにけしかけるのも悪くないな。 そうなれば、尚更オートマタが多く巡回している歓楽エリアの方が良い。ストー カーを巻ければ、それに越した事はないが、おそらく、俺が引き返すのも想定して いそうな気がする。 “インセクト”からの映像では、ストーカーもそろそろ裏路地を抜ける。ここか ら少し離れた先に出るが、充分、追い付ける距離。急いだ方が良さそうだ。 まったく、よりにもよってこんなクソな夜に――とんだトラブルだよ。 公的機関用の暗号解読ソフトを起動しておき、無線傍受の範囲も広げておく。視 界がタスクで埋まっていくが、この程度ならまだ歩けるし走れる。それでも、忙し くなりそうだ。頭痛は避けられそうになかった。 不安は残るが“インセクト”を一度ストーカーの追尾から解き、“首無し”を見 つけるのと、無線信号の中継器になってもらう。 さっき見た“首無し”の他に、捕らえられそうなのは周辺では三台くらいか。計 四台の“首無し”達の“糸”を手繰り寄せて、セキュリティを破壊してから、シス テムを奪い取る。近い“首無し”二台は待機させ、離れている“首無し”をこちら へ向かわせる。補助端末なしでは、同時に遠隔操作できるのは三台が限界だった。 オートプログラムをダウンロードさせれば簡単な動きはしてくれるが、その時間 はない。 後ろから車の近づく音がした。少し気付くのが遅かったが、まだマシな方だ。昔 なら普通にぶつかったり、派手にクラクションを鳴らされたものだ。タスクを一旦 端へ送り、視界をフルカラーに戻す。 いやにのろい車だな。こっちの歩幅に合わせて、徐行してる様に感じた。そう思 って反射的に車の方を向くと、助手席に座っている奴と目が合った。と、言うより もはっきりと俺を見ていた。
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