2.― PORNO DEMON ― 嗚呼、なんだろうか。この満足感と解放感。もし天国に行くなら、こんな感じで あって欲しいな。 一仕事、いや二仕事を滞りなく終えて、歓楽街から少し外れた所にある深夜のダ イナーレストラン。くたびれたミートパイと、塩辛いベーコンエッグがやたらに美 味しかった。煮詰まった苦いコーヒーですら言い様もない多幸感をもたらしてくれ る。それとも――コカインをやり過ぎたかな。 カウンターで休憩してた二人のガテン系が金を置いて店を出ていく。その際に音 を立てて投げかけてくるキスが最高にウザい。中指をおっ立てて見送ってやった。 午前二時か、遊び人も減って、労働者とHOEもダレてくる時間帯だな。 特に代り映えしない、俺の夜の一つだった。ホテルで一夜を過ごすか、ナイトク ラブで使い果たすか、永星の店でしこたま飲み倒すか。或いはこのダイナーで時間 を浪費するか。大体そんな感じである。 「お疲れさん、イメチェンかい? 俺と同じだな」 店主のヤヌスがコーヒーのおかわりを入れてくれる。初めて会った時から白髪頭 だったが、丁寧に染め上げたシルバーアッシュの髪を同じと言われるのは不本意だ った。手櫛で大雑把に何時もの髪型に戻していく。 ヤヌスとも十年以上の付き合いか。お互い、輝紫桜町に長く居過ぎている。 「ありがと、この髪は今日だけだよ。あのさ、待ち合わせしてんだけど、その時に 客がいなかったらクローズにしててもいい?」 「ここで仕事はしないだろうな?」 「するワケないだろ、今日はもう終いだよ」 なんの心配してんだよ。と、思いたいところだが一度だけトラブルに巻き込んで しまった事があった。 二十四の頃、しつこい客に追い掛け回されて、ここに逃げ込んでヤヌスに助けて もらった事があった。今はもう笑い話だけど、その時は結構な修羅場だったのを覚 えている。 「構わないよ、それなら俺はちょいと仮眠でもしとくかな。何かあったらスタッフ ルームにいるから起こせよ」 「ありがとう、でも信用し過ぎじゃない?」 「案外、この街の人間の方が信用できるもんだよ。おやすみ」 「おやすみ」 お互い輝紫桜町に長く居過ぎたな。かと言って、他に行く所もない。共感するし かなかった。 ヤヌスがスタッフルームへ入ったのを確認してから、席を立って背伸びした。 リュックに詰め込んでる、薄手の黒パーカーを着込む。少し肌寒かった。 窓の外に視線を移す。相変わらずネオンライトの明かりが方々から漏れて路上を 躍らせているが、静まり切っていた。こう言う感じはどこか落ち着く。 席に座って、コーヒーを一口。再び窓の外を眺めながら、待ち人の事を考えた。 鉄志の奴、まさか辺獄広場に来ているなんて、何にしに来てたんだ。冷や冷やし た。また妙なトラブルが起きるんじゃないかって。この格好のお陰で直ぐには気付 けなかった様だけど。客と会っているところなんて見られたくないのに、アイツは 何時もお構いなしに俺を乱す。 腹が立つけど、そんな事がどうでもよくなるぐらい――鉄志に会いたい。 窓からネオンライトが混ざり合って、赤紫に染まる空を見上げた。高層ビル群の 僅かな隙間からでも雨雲だと言う事が分かる。一雨降ってきそうな雰囲気。 店の天井にぶら下がっているシーリングファンに視線を移して、早く鉄志が来な いかと待っている。話したい事が山ほどあるんだ。 今日の成果をしっかり話して、鉄志からはアクアセンタービルの攻め方を聞かせ てもらって、これからの事とかも話して、それから、他には、そして。 「蓮夢……。おい、蓮夢」 「あれ? なんで?」 状況がよく分からないまま、目の前に立っている鉄志を見上げた。目蓋が重かっ た。さっきまで何て事なかった店の明かりもいやに眩しい。 「それは俺のセリフだよ。寝坊助め」 脳から情報を引っ張り出す。生身の脳と機械仕掛けの脳が合わさっている状態ゆ えの感覚。 どうやら二十分ほど眠っていたらしい。記憶のログデータにはこれと言った思考 の形跡はなく、単にぼうとしてて、そのまま寝落ちしていたらしい。間抜けな寝顔 を鉄志に見られてしまったな。 「夜中にごめんね、寝てた?」 「いや、起きてたよ。それで、俺の出入り禁止は解除か?」 目蓋を軽く擦って、改めて鉄志を見上げた。 相変わらずブランド物のスーツがよく似合っているが、辺獄広場で見た時に比べ ると、ネクタイを外しYシャツのボタンも三つあけて黒いシャツを覗かせていた。 そのくたびれた感じが堪らなくセクシーに思えた。鉄志だったら一日中見ていら れるな。一日中、一緒にいれたらな。 「明後日、ヴィオ・カミーリアのボスと話して来る。心配ないよ……」 「ダイナーか、ロスにいた頃を思い出すよ。大したとこじゃないが、日本人ならち ょっと憧れる雰囲気だ」 向かいの席に座って店内を見回していた。本場を知る鉄志の目は懐旧を漂わせて いる。 カウンターへ入って、マグカップにコーヒーを注いで、鉄志に差し出した。店の 物で勝手をしている俺を怪訝そうに見ていた。 それにしても、鉄志に近づいた瞬間、焦げ臭さや火薬臭を強く感じた。鉄志から は時折感じる匂いだけど今日は特に強く感じた。 週に数回は射撃場を利用しているなんて話は聞いていたけど、それだろうか。 「映画の中の誰かさんになった気分を味わえるよね」 「そうだな」 店の入り口にぶら下げた看板をクローズに変えて、外のネオンも切っておく。店 のシステムはとっくにハッキング済みである。 こんなレトロな雰囲気の店の内装や外装でも、運用システムはネットワーク管理 なのだから、俺にとっては都合がいい。 「俺がこの街に来た頃にできた店なんだ。親子三代で切り盛りしてる。ここのバカ 息子ってのホモフォビアのクソでね。昼間来ると拒否られる」 「酷いな……」 「孫と爺さんは理解のある人でね、だから夜中なら利用できるんだ」 席に座ってコーヒーを一口飲む。この店に来て楽しいのは、朝方にそのバカ息子 とヤヌスが交代する時に、中指をおっ立てて店を出る時だ。 「鉄志と色々話せる様に、場所貸してもらったんだ。大声出すなよ、爺さん起きる から」 「港の件、確認してるか?」 「当然だろ、船の先端がゴッソリ抉れたってね。密輸業者と対立組織の抗争。って 事で片付いてるけど、警察は事前に海楼商事の情報を入手していた。船が爆発する 数分前にね」 丁度、俺と鉄志が輝紫桜町で飲み明かしていた夜だった。その日に海楼商事の密 輸船が港に停泊している事は把握した上で、俺達はスルーしていた。 次の日になって結構派手に報じられていた上に、爆発に銃撃戦と穏やかじゃない 内容には驚かされた。 密輸船について知りたがっていたクライアントさんと坂内彩子が気掛かりで、安 否の確認だけはしておいた。文面越しに得られる情報は少ないが無事である事は確 認できたけど。 「数分前?」 「警察署のメインサーバーなんかガバガバのアナルみたいなもんさ。何時でもアク セスできる。出来試合だよ、裏で何かが暗躍して証拠と口実を手に入れて、警察が 動いて公に曝し上げる。証拠は兼ねてから入手していた体でね」 クライアントさんをサポートしているのは刑事の坂内彩子なら、このお膳立ては 可能だ。 これだけ派手な事が起きれば、警察とて動かざるを得ない。いずれにしても、こ の状況で海楼商事が表沙汰になるのは、良い兆候だと思っている。 「この一件で俺達の動きに支障があるだろうか? 海楼商事の動きが気になる」 「警察が知ったのは今回の密輸の件のみ、大がかりに動くには警察にも時間が必要 だと思うよ。海楼商事もケツの重い組織さ、すぐには動けない。むしろ身軽な俺達 には好都合だよ。海楼商事はメンタルもフィジカルもボロボロだ。遂に追い詰めた よ、後は俺達がゴッソリと頂くだけさ……。ところで」 テーブルから身を乗り出して鉄志に顔を近づける。 「随分、火薬臭いけど何してたの?」 さっきから気付いてた事だけど、単に鉄志に近づきたいから顔を近づけただけだ ったりする。間近にある鉄志と目を合わせる。――今夜は心を覗けるかな。 鉄志からは特に嫌がったり驚く様な反応はなかった。手を組んで間もなかった時 なんか、寄ると触ると一歩後ずさる程、警戒されていたのにな。 「シューティングレンジだよ、得物のショットガンの癖が強くてな。クアッドロー ドの練習していた。前回も二、三個ミスって弾を落としたからな……」 「ショットシェル、よく四本も掴めるよね。俺の手じゃ無理だ」 自分の骨張った細い手と、鉄志のガッシリした手を眺める。やっぱり撃ち放題し てたんだ。分かりやすいよな、鉄志のそう言うところが可愛いんだ。 鉄志がショットガンに弾込めをしてるのを初めて見た時は、何をしてるのか全く 分からなかった。 ショットシェルを二個二列に掴み、一回の装填動作で二発込めるテクニック。 映画なんかで見る様な、モタモタしたイメージが覆る程に速かった。 「生身は拳銃で充分だが、オートマタやサイボーグ相手にはそうはいかない。装甲 破壊専用の弾丸をブチ込んでやる」 鉄志の使うセミオートのショットガンは再装填も連射も速く、恐ろしく凶暴だっ た。あんな勢いで撃ちまくるのが突入してきたら、部屋中に肉片が飛び散って、ス プラッター映画の形相だろう。 味方でよかったとつくづく思う。何よりも銃を撃ってる鉄志の姿は本当に様にな っていて格好いい。 「一心不乱にブッ放して、気でも紛らわしてたんだ?」 クアッドロードの練習だけなら撃つ必要はないのに、わざわざ撃ちまくっていた って事は、苛付いていたって事だ。 俺の問いに眉を寄せてるから、図星だな。 「何の話だ?」 「来るなって言ったのに輝紫桜町に近づいて、よりにもよって“辺獄広場”にいる んだもん、しかも客に会うタイミングでさ。焦ったよ、俺達、引き寄せられ過ぎじ ゃない?」 脚を組み直して背もたれに腕を投げ、深く座って鉄志を見つめた。 バツが悪そうに鉄志は俺から目を逸らす。俺は見られたくなかったし、鉄志も見 たくなかっただろう。 でも見えてしまうんだ、この地獄みたいな街じゃ秘め事は全て暴かれる。俺がど んなにイケてるHOEでも、それ以上でも以下でもない。変わる事ない事実さ。 「あんな切そうな目をしてさ……。なんだかこっちまでキュンとなったよ。客とヤ ッてる最中、ずっと鉄志の事ばかり考えてた。そんなに俺の事が心配?」 「心配と言うか……。俺は、俺の相棒の価値を知ってる。だから何て言うか……」 「鉄志、俺HOE辞めるよ。今日でおしまい」 言葉を遮って、今日真っ先に鉄志に話したかった事を言った。この地獄のド真ん 中で、形振り構わず大声で叫んでやろうかっても思ったけど。やっぱり鉄志に直接 伝えたかった。 「蓮夢……」 これ以上ないってぐらいの、分かり易い表情をしている。じわじわと込み上げて 実感して、緩んでいく表情。 鉄志、そんな心を俺に向けてくれるのか。きっと、そうしてくれると思っていた けど、いざ向けられるとむず痒く思えた。 「言っとくけど、なんの見通しもないからね。金に困ったら、またやるかもしれな いし……。この街はそんなに甘くない。でもさ……」 どちらにしても、今夜の仕事で一区切りつけるつもりだった。しばらくHOEは やらないと。 別に鉄志の為ではない。だから、無計画で衝動的な決心だった。どうなるかなん て分かったもんじゃないけど。それでも。 「なんか、“もう、いいかな”って。今日、客の相手してて心底思えた。借金とか 経費とか色々理由付けて、ポルノデーモンでいたいっても思ってた。俺にとって唯 一の成功体験だから。上っ面の利害関係でも、誰もが俺の事を求めて受け入れてく れる。それを手放したくなくて……。シオンと“ナバン”がなくなって、サイボー グになってから、辞めたいが辞めれないになって、何時の間にか“辞めたくない” に歪んでた。なのに思いとは裏腹に、心も身体も言う事を聞かなくなって……。で も今日やっと納得できたんだ。先の不安とか言い出せばキリがないし怖い。それで も、もう辞めたい、だから辞めるんだ」 ずっと苦しかった。鉄志の言った、張り詰めていた糸が切れてから、自分がどう したいのか分からなくなって半端になっていた。 辞めれない理由は確かにあり、心の奥で辞めたくないって考えも持っていた。あ と少しの辛抱が辛くて、でも踏ん切りがつかなくて。 落ち着くには、もう少し時間が必要だろうな。その時間をもし、と願う日々もま た辛くて切ないけど。今はこのまま、鉄志の目をずっと見ていたかった。 「それで良いと思うよ。こんな国じゃ生き方を変えるの大変な事だけど、お前は俺 と違って、選ぶ事が出来る。お前ならきっと出来る筈だ」 何故だろうか、鉄志の言葉から急に距離が離れた様な違和感を覚えた。 中々他人には理解してもらえない、俺だけの厄介な感覚であるが、お前ならやれ る。そこに妙な距離を作られた様な気がした。それも意図的に。 「応援してくれないの……」 「この仕事が終われば“組合”から報酬が支払われる。俺が交渉して、高く請求し てやるよ。これからの事を考えられる時間が手に入るぐらいにはな」 「そう、ありがとう」 今度は金の話か。確かに金は欲しい、現実的な話HOEを辞めるから尚更それ頼 みなのも事実だった。でも。 いや、よそう。これ以上欲しがっても、しょうがないじゃないか。何時もと同じ さ、俺と鉄志はこの距離感がきっと丁度良い筈なんだ。だから――堪えないと。 「さて、俺の話はここまで。仕事の話をしないとね」 リュックの中に詰め込んである戦利品を探って掴んで、引っ張り出す。引っ掛か って一緒に飛び出たコンドームは、さり気無くポケットに突っ込んだ。 「これは?」 「手に入れたぜ、アクアセンタービル、専用エレベーターの“鍵”」
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