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 二進数が流れる単純なアバターの手で、正面の扉を開いてみようとするが固く閉 ざされていた。開けるのは止めて“浸透させて”基礎プログラムから探りを入れて みる。改めてバックドアを探さなくては。  さっきと同じだった。離れた場所にバックドアを置き、そこに誘い込んでから襲 い掛かる。何故“ガーディアン”は待ち構えるばかりで攻めて来ないのか。  何にしても同じ手には引っ掛からないし。ゲームの様にルールに従ってプレイす る気もない。ハッカーって生き物は弄ってナンボなんだよ。  “浸透させた”手から。無作為にコードを書き替えるマルウェアを送り込む。シ ステムエラーを起こせばサイバースペースは形を保てなくなる。直結している俺に も影響はあるが、グチャグチャにしてやるよ。お前の世界を。  周囲に異変が起き始める。リアルな景色やその質感が徐々にハイグラフィックな 偽物が交互に移り変わり、ノイズが立体的に浮かび上がる。――気持ち悪い。  此処は全てが偽物、感覚だってそうだ。なのに焦燥と不快に心が満たされてしま う。ここまで没入したのは初めてだったが、仮想現実と現実を混同させて忘れられ る程ではない。その違和感の連続が、心に負荷を与えていた。  映画の様な未来は、まだまだ程遠いらしい。  唐突に襲い掛かる衝撃。痛みの様なものは感じないが、命の危険を感じて戦慄を 覚える。  身体のど真ん中を盛大に突き刺され貫通していた。振り返るとさっきよりも大き く凶暴な雰囲気にアップグレードした、蜘蛛型ドローンが音もなくお目見えした。  自分の作った世界を他人が勝手に壊していれば、怒らない訳ない。  “ガーディアン”そうだろ、ムカついてるんだろ。  他の脚に捕まる前に、アバターの下半身を削除して拘束を解く。上半身がぐしゃ りと地面へ叩き付けられる。現実では当然こんな事はできない。しかし、発想や想 像力を底無しに持続するというのも、消耗が激しい。早く段取り通り、決着を着け ないと。  アバターの外見を変更する。薄っぺらい影から本気のデザインさ。深紅の肉体と 皮膜の翼、鉤の尾と黒い二本の角。悪魔寄りのインプのデザイン。  “ガーディアン”はその様相に狼狽える事もなく、突進しなが二本の前足で襲い 掛かって来た。二本の前足を両腕で掴み、押さえ込もうとするが、パワーが全然違 う。踏ん張ってはみるが、地面を削りどんどん押されていく。一応、それらしく咆 哮してみたが、少しだけテンションが上がるな。  押し込んでくる勢いを受け流して、軽く飛び上がり、背中に張り付いた。両手脚 の爪を深々と突き刺して。今度はこっちからマルウェアを流してやる。  首根っこに牙を食い込ませた。触れた物からCUIを操作出来る。おかしなシス テムだ。  金属ボディという設定だけに硬くて牙にヒビでも入りそうな感覚があった。嘘臭 い火花が飛び散り、オイルのような臭いも感じる。  五感に影響を感じられるサイバースペース。人間なら楽しめるが、AIには不要 なシステムだった。  このサイバースペースのシステムは明らかに、脳からダイレクトにアクセス出来 る人間の為に作られていた。  おそらく“ガーディアン”は気付いたのだろう。漫画喫茶からのハッキングの段 階で、俺が並の人間ではない事を。  何故、気付けたのか、そして俺は気付けなかったのか。柔軟に考えれば見えてく る答えだったのに。  輝紫桜町で自分は特殊なサイボーグだと身を潜めている内に、俺にはその思考に 至る柔軟性が失われていたんだ。  “ガーディアン”の正体はおそらく――人間だ。  俺と同じ、脳と神経にデバイスを組み込み、意思と感覚でネットワークに介入で きるサイボーグなのだ。   脳の機械化を考えるヤツが龍岡だけだと言い切れるものか。インプラント適合率 九十七パーセント以上が俺だけだなんて、勝手な思い込みに過ぎない。  だからこそ、わざわざ意識や精神に負担の掛かるサイバースペースを創り出して 待ち構えていたのだ。――同類のサイボーグである俺を倒す為に。  “ガーディアン”が左右に荒ぶって、振り落とされそうになるが。牙を食い込ま せて堪える。  ふっと身体が浮いたかと思うと、巨体が飛び上がってひっくり返り、下敷きにな ってしまった。衝撃と息苦しさ、中途半端なリアリティが本当に鬱陶しい。  モタついていると、蜘蛛の脚が容赦なく両腕両脚を貫き、首筋に牙を食い込ませ た。デジタルブレインのシステムを破壊するマルウェアが容赦なくダウンロードさ れていく。その瞬間、無機質な機械仕掛けの蜘蛛から伝わってくる眼光が物語る。  嗚呼、やっぱり。コイツは人間だったんだ。――ムキになり執着している。  パワーもスペックも圧倒的に格上。元々、張り合って勝てる様な相手ではないん だ。そう――そのままやり合えばの話だ。  もう充分に、時間は稼がせてもらった。  ダウンロードは八〇パーセント手前で止る。計算通り。  深紅のインプが噛み付いて送り込んでいたマルウェアはただの囮だ。  “俺”が送り込んだマルウェアが本命。過剰メモリにして“ガーディアン”のパ フォーマンスを落とす単純な仕掛けだ。そのままハッキングも済まして“ガーディ アン”から欲しい情報も手に入れた。もう少し探りを入れたかったけど、今は目的 のみ最優先だ。  深紅のインプは俺の片割れ、AIの一つ。本物の俺は尖った耳と鉤の様な尻尾の デカい鼠。インプ本来のデザインから作られたアバターである。  俺はAIと半同化している。何時でも自由にアバターを行き来できた。  “ガーディアン”は俺のAIと俺自身の二人が相手だった事に気付けなかった様 だ。それどころか俺の頭にはAIがもう一機搭載されているんだ。  その片割れは既に――バックドアを開いていた。  俺と“ガーディアン”の共通点は、脳から直接デバイスやネットワークへアクセ スして、感覚で操作できるサイボーグと言う点のみ。基本コンセプトは勿論、その 構造やスペックは別物。三匹のインプは俺にしか出来ないトリックだ。  俺の脳は二機のAIがなければ機能しないが、ある程度は自立可能だ。厳密には 違うが、まさか三つに分離出来るとは流石の“ガーディアン”も予想できなかった 様だ。  似た様なサイボーグかもしれないが、龍岡先生が考案した“H.D.B.S.” (ハイブリッド・デジタル・ブレイン・システム)は唯一無二。  流し込んだマルウェアの処理し終えて“ガーディアン”が再び動き出す。コイツ を人間と仮定した場合、サーバーの中枢に潜伏するAIプログラムではなく。リモ ートで管理する者と言う事になる。  常にアクアセンタービルのシステムに――ログインしてる状態と言う訳だ。  さっき“ガーディアン”から抜き取ったIPをバックドアで待機している。片割 れに送信する。  自分の置かれた状況を理解したのか、怒り狂ったかの様に“ガーディアン”が襲 いかかってきた。  システムを破壊するには時間がかかる。それを想定したソフトウェアを作る時間 もないし、勝てる保証も今はない。だから――ログアウトさせる。  二体のインプに向かって目前まで迫ってきた蜘蛛型ドローンはピタリと動きが止 まり、ノイズと共に消失した。――とりあえず俺の勝ちだ。  倒した訳じゃないが、しばらく“ガーディアン”はアクアセンタービルのシステ ムに入ってこれない。  何度となくヤツの妨害に悩まされてきた。おかしいぐらい機転の利くAIだと。  でも、人間の感情として捉える事が出来てれば、今の様な対処も出来たのに。俺 も頭が堅いな。  スペックでは敵わないけど、悪知恵は俺の方が一枚上手だったね。こんな子供騙 しの仮想空間で味わう苦痛や恐怖なんてチープで上品な物さ。こっちはずっと、ク ソみたいな地獄で生きてきたんだ。  緊張の糸が切れたのか、その場に崩れてしまった。片割れのAIがゆっくりと俺 を抱き上げた。デカイ鼠を抱き抱える真っ赤なインプ。なんだかシュールだな。  管理者が消えたサイバースペースも徐々に消えていく中、バックドア前で待機し てる、もう一機のAIの元へ向かう。眩い光に一瞬満たされ、バックドアの前に辿 り着く。  半開きした扉もノイズが入り歪に歪んでいた。もうじきこのサイバースペースは 消えて、数列のみの世界に戻る。それが本来のデジタルスペースだ。  もう片方のAIと合流する。赤茶で筋肉質な身体、肩から背中にかけて小さなト ゲが付いていて、醜悪だけどクールな容姿。確か何かのゲームに出てくるインプを モデルにしたものだった。  不思議な感覚だ。三つに別れていて、それぞれ意思を持って、目的を共有して行 動したのに、どちらとも自分だという感覚がある。  完全に分かれている訳じゃない。二進数のか細い糸で繋がり合っているんだ。  声に出して礼を言いたくなるけど、想いは既に伝わっていた。  三位一体。やった事もない危険な賭けだったけど、こんなに上手く行くとは思わ なかった。適応しよう足掻いてきた七年間が報われた様な気がする。  コスプレを解いて二機と一人が一つに戻る頃には、サイバースペースは完全に消 失して。一面の闇から大量のコードの雨が降り注いだ。――遂に辿り着いた。  何重にもCUIを展開して、管理コードを書き替えてファイアウォールを破壊し て、あらゆるセクションを読み込んで行く。  身体と意識が完全に戻った事を認識すると同時に、全身を劈く激痛に身体がよじ れて蹲ってしまう。  僅かな痙攣、血に染まった視界、そして今にも破裂しそうな程の頭痛。海楼商事 の全ての情報が、頭の中の脳やデバイスを押し流して、渦になって掻き回されてい る様だった。――まだだ、気を失うな。  痛い、痛い。死にたくない、死にたくない。  あと少し、あと少し、辛抱しろ、辛抱しろ――早く終われ、早く終われ。  自分でもよく分からない。何故こんなに必死になっているのか。誰かの為に、こ んなにボロボロになって、もがいて、のた打ち回って。それの繰返しばかりじゃな いか、俺はずっと。  でも期待せずにはいられないのだ。ここまで生き抜いてきた先の未来を。身の丈 を超えたこの力を受け入れられたなら。――自分が間違った存在じゃないと。  微かに耳に入って来る規則正しい二連射の発砲音、空を切る鎖の音。  踏ん張らないと、あと少し、もう少し。  ダウンロード完了まで残り十八パーセント。脳神経の損傷率は四十二。修復ナノ マシン消失。  “ガーディアン”が使っていた管理用ソフトウェアを書き換えて乗っ取る。これ でアクアセンタービルの総てのシステムを掌握できる。ハニカム構造だった全ての システムが、手の平に収まった様な感覚がある。先ずはロックダウンだ。  アクアセンタービルの全ての電子ロックを施錠、防火、隔離用シャッターも全て 閉鎖。全ての通信と警告灯は引き続きシャットダウンさせておく。  施設内のドローン、オートマタの行動プログラムを改竄して共有。  全データ、ダウンロード完了、送信準備。選別と暗号解読にはもう少し時間が欲 しいが、ここでは出来ない。  以降は無線通信でコントロール。テツと鵜飼、三人で脱出する。――終わった。  相変わらず頭は破裂しそうなぐらいの痛みが押し寄せて来る。身体に受けたあら ゆるダメージがぼやけてしまう程に。  ふと、景色がサーバーのガラスケースから天井に変わっている事に気付く。気を 失っていたようだ。銃声が飛び交っていた会議室が静まり返っていた。 「テツ……」  テツに抱き抱えられている様だ。額から血を流した痕がある。頬を撫でる手を拒 む事なく、テツは安堵の表情を浮かべていた。 「シャッターが降りきて閉じ込められた。お前がやったんだろ?」  テツは俺のやり方は一度経験してるので、言葉では答えなかった。横目に周りを 見ると、死体と残骸で脚の踏み場も儘ならないぐらいだった。  凄惨な光景だけど、俺がハッキング出来たのは、ここまで戦い抜いてくれたお陰 だ。何度も思う、俺独りでは成し得なかったと。 「一体何が起きてる? この銃声と叫び声は……」  怪訝そうな顔の鵜飼も負傷していた。首筋の流血を右手で抑えている。黒系の服 で目立たないが血が滲んでいるのが分かった。  深々と被っていたフードは外され、爽やかな短髪が見えている。 「オートマタとドローンのプログラムを書き換えた。視界に入る人間の両足を撃っ て、それ以上は攻撃しない様に……」  常に管理してコントロール出来る余裕はなかったので、単純なプログラムぐらい しか組めなかった。  殺すって選択肢もあるけど、ハッカーの柄じゃない。事を荒立てたくなかった。 「なんてヤツだ……。たった一人でこのビルを支配下に置くなんて……」  今も赤く光っているであろう俺の目を見下ろす鵜飼からは、畏敬の念、或いは驚 異への懸念を感じ取る。これが通常の反応なのは理解していた。  公僕の人間に俺の正体がバレてしまったな。 「鵜飼。俺の事を話す時は腕利きのハッカー。その程度で留めておいてよ……」  俺とテツの目を交互に伺っていた。考えているらしい。俺の事を話す事で、どん なメリットとデメリットがあるのかと。頭のトロい奴だな。  話そうものなら、速やかな報復が起きて街中が恐ろしい事になる。って、ハッキ リ言えばよかったかな。 「全ての監視カメラを確認出来る。敵を封じたまま脱出するよ。シャッターは開け たい所をすぐに開けられる。閉ざされている緊急時用の非常階段を使ってロビーを 出よう」  自分達の進行ルート上のシャッターのみ開けて、先に敵がいればオートマタをけ しかけてやり過ごす。全て思いのままに操れる。  半身を起こし上げてくれたテツは、先に立ち上がって手を差し伸べてた。  「歩けるか?」 「うん……。肩貸してくれる?」  本当は今にも気を失いそうな程、ヤバかった。まだ、もう少し頑張らないと。せ めて下まで、ロビーに辿り着くまではビルをコントロールしないと。  脳神経のダメージが四十五パーセントに達した。五〇を超えたら死ぬって龍岡が 言ってたっけ。ナノマシンもない、セーブしながら動かないと。 「やったよ、テツ。全て手に入れた」 「ホント、凄いヤツだよお前は……」  どうなるか、分からないけど。どうしてもテツと分かち合いたかった。この瞬間 を。この達成感を。  俺達はやったんだ、クソみたいな悪徳企業に、弱者を食い物にする世界のシステ ムに中指をおっ立てて唾を吐いてやったのさ。  たった二人で、ここまでやったんだ。――忍者も飛び入りだったけど。  笑みを返してくれるテツを見てる目は大分霞んでいて、ほとんど目としては役に 立っていなかった。モニタリングされたタスクウィンドウを認識さえ出来ていれば 今はそれでいい。  耐えて堪えて、張り詰めるのも疲れて来た。いっそ楽になりたいと投げてしまい たいと逃げ道を探すのも馬鹿らしい。  どうでもよくなってきた。――その時を、受け入れるだけなんだ。  でも、テツの許可がないと、俺は死ねないんだよね。だから、もう少しだけ頑張 ってみるよ。  もし、頑張り抜いたなら、俺の事を受け入れてくれるかな。

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