終章~心さえ在ればそれだけで~ 重力を感じなくなった身体は未だに熱を帯びている。本能と理性は鳴りを潜めて いて、ただ静かに深い息を繰り返すだけだった。 カーテンもなく間接照明だけの部屋の窓からは、歓楽街からのネオンライトが入 り込んでくる。不規則にスローに光っては消え、混ざり合う原色は薄暗い赤紫に部 屋を照らしていた。 生きてると、こんな事もあるのかだとか、意外に一線を越えられるのはあっさり してるものだなとか、どうでもいい事ばかりが頭を過る。 数日、いや数週間。ずっと頭と身体の中でモヤモヤと這いずり回っていた煮え切 らない感情は既に消えていた。かつてない緊張と、無我夢中に求め合っていた少し 前が消し去ったのだろう。 自分の行いに驚いている反面、安堵もあった。まだ心の整理の様なものは出来て いないが。望まない結果ではない筈だ。――これで良かったんだ。 身体に滲んでいる汗が冷え、熱を奪い始めてきた頃、頭の後ろの方から柑橘の香 りを含む白い煙がふわりと漂い始める。激しく乱れていた呼吸は、静かな吐息へと 変わっていた。 広いベッドボードの上に置いていた自分の煙草とライターに手を伸ばす。ライタ ーは無情にもパチパチと小さな火花を散らして力尽きてしまった。オイルが切れか かっているのを知ったのは、この部屋へ入る直前だったのを思い出す。 何て事ない。振り返ってライターを借りればいいだけなのに、それが出来なかっ た。少し前までの事が頭を巡っている今、面と向かって話すのが照れ臭くて堪えら れない。いい歳して、本当に情けなかった。 諦め悪くライターを回していると、左腕をとんとんと叩かれる。柑橘の香りがす る吸いかけの煙草を差し出された。それを火種にして、やっと煙草を吸う事が出来 た。 視界に入った蓮夢は枕の上でうつ伏せの姿勢で煙草を吸っている。色白な背中か ら腰にかけての曲線は相変わらず綺麗で色気があった。思い出すだけで、気持ちが また乱れていく。後ろから感じる視線にも相変わらず振り向けないままだった。 「それで? 初めて“オトコ”とヤッた感想は?」 蓮夢から滅多に出ない性別絡み言葉。それを聞いて改めて俺は同性とセックスを したのだと実感する。 余計な事を考える余地はなかった。流れる様に自然でいて滑らかに。きっと蓮夢 が上手いのだろう。この大歓楽街、輝紫桜町で誰もが蓮夢に魅せられ夢中になって いた様に。――目の前の見た事もない蓮夢に釘付けになっていた。 女性との経験だって二桁もない様な俺に何が言えようか。 「硬い……」 「え?」 「女の柔肌なんて表現があるけど、理解したよ」 元から華奢な容姿の蓮夢だったが、想像していたよりはガッシリしていた。所謂 男の身体である。 それでも、白く滑らかな肌から不意に筋肉が浮き上がる瞬間に、艶かしさがあっ た。次第にそんな自分と同じ筈の男の身体に、欲情していくのには驚いた。当然だ が男の身体をそう言う性的な目で見た事はなかっただけに戸惑いと興奮が入り混じ った。 俺には、その“気”とやらがあったのだろうか。それとも、蓮夢の見せ方や持っ て行き方が上手いのか。こうして思い起こしている今も、少し欲情してきてる。な んとも不思議な気分だ。俺にも人並みの性欲が残っていたとはな。 「ワオ……二発もヤッといて言う事がそれ? 斬新だなぁ」 「い、いや……」 何を口走っているのか、ここまで来て今更、男も女も野暮じゃないか。振り返る と、呆れた調子の蓮夢が寝ている。煙草の煙が一筋天井へ登り、枕と腕に顔を埋め た蓮夢の両目が胸を突き刺す。 愛おしい。失礼な事を言っておきながら勝手かもしれないが、俺は今確かに、こ の男を否、男の身体を持ってるってだけの、蓮夢と言う一人の人が堪らなく愛おし いと、確信を持って感じていた。 「ま、いいけどね……。俺は楽しませてもらったし……」 最後の一吸いを終えると、軽く起きて煙草を灰皿に放って満足気に息を吐いた。 虚ろな表情なまま、余韻の様なものを楽しむ余裕に満ちた姿を横目に、蓮夢の隣 で仰向けになる。 こんな腑抜けでいいのかと不安になるぐらい、気が抜けてリラックスした気分に なっている。――なんと心地好いのか。 「楽しいとか、良かったなんて言葉じゃ言い表せないよ。何て言うか、こんなにド キドキして、興奮したの、人生で初めてかもしれない……」 呆然と天井を見つめていると、蓮夢が抱き付いてきた。右手で肩を抱き寄せる。 蓮夢の指先が身体をなぞって来る。羽根先の様に軽くてこそばゆく、胸元の辺り で笑ってしまうと、蓮夢も微笑む。 蓮夢の手が頬に触れて引き寄せられる。向き合ってお互いに見つめ合った。胸元 の辺りにいた蓮夢の目は上目遣いで、異なる色の両目であっても、今にも吸い込ま れてしまいそうな程に深かった。 「また、俺の事、抱いてくれる?」 気付けなかったな。蓮夢に出会ってまだ半年も満たないが、自分の目が如何に曇 っていたか。――こんなに魅力的な奴が世の中にどれ程いるのか。 壊れて消えてなくなる筈だった俺の、これがきっと最後のチャンスなんだ。 吸いかけの煙草を、感覚でベッドボードの上にある灰皿へ放る。 「甲斐性のない俺だけど、お前が求めてくれるなら……。俺もお前にもっと触れて いたい。身体も、心も全て……」 見つめ合う蓮夢の目は少しばかり潤み出す。そして僅かではあるが、俺にも蓮夢 の心が見えた様な気がした。 それは単純な様で、実際は厄介な程に複雑で、マニュアルもセオリーもない。 ただひたすらに、向き合い続けるのだ。人の心に、自分の心に。当然の様で容易 い事ではない。 こんな手詰まりの世界の、消えかけてるちっぽけな島国で、心さえ在れば、それ だけで俺達は戦える。 「テツの心を感じるよ。この胸の奥底、確かな処を満たしていく……」 不確かなものも信じて、時に縋る様に惨めでも、それだけが確かなものであると 確かめたくて、俺達は口付けた。 普段使わない筋肉が悲鳴を上げてる。腰が砕けるって、こんな感じなのか。歩く 度に不快感が残り、その場にへたり込みそうになる。柄にもなく、年甲斐もなくと 思えてしまう。 蓮夢は平気なのか、少し前を軽快に歩いていた。この情けない状態は、何として でも蓮夢にはバレたくないな。 輝紫桜町のベットタウンに辺るエリア。歓楽街とスラム街の中間地点。 二十三時を過ぎたと言うのに、人通りはそれなり賑やかだった。歓楽街程ではな いが、様々な店が密集しビルに張り付けた看板が遠慮なくネオンライトを派手に煌 めかせていた。 輝紫桜町は油断ならない所だが、蓮夢のマンションは正解だったかもしれない。 具体的な事は聞いてないが、あの部屋は事故物件で“ナバン”で稼いでいた頃に 買い取った部屋だそうだ。自由にリフォームもしていいと言う条件も付けて。 蓮夢の言う通り、ベットも浴室も広くて使い勝手が良かった。確かに俺のベット は小さいと思い知らされる。――考えておかないとな。 一風呂浴びた後、腹が減ったので食べに行こうと言う運びとなったが、このザマ ではデリバリーを提案すべきだった。 「はぁ、お腹減った! テツは何食べたい?」 「任せる……輝紫桜町はお前の街だろ」 拳で腰を押し込んでいたが、急に蓮夢が振り向いてきたので、慌てて両手をポケ ットに突っ込んだ。 黒字にビビットピンクのアクセントが入ったスカジャンにヨレヨレの白シャツが はみ出している。ウィッグを外した黒髪は少し湿っていて、首筋のチョーカーがキ ラリと輝いている。俺もワイシャツとタイは面倒なのでシャツとスーツで着崩して いた。 何かが違って見える様な気がした。見慣れた雰囲気の蓮夢や自分、そして輝紫桜 町が。 たった一回、蓮夢と抱き合っただけで、こんなにも意識が変わってしまうものだ ろうか。それとも、これが“ナバン”のボスだったシオンが、蓮夢に仕込んだ業な のか。 「ちょっと行ったとこに中華屋台が群れてるとこがあるんだ。安いし腹一杯食える ぜ。途中、酒屋もあるから買ってこうよ」 「チープだな。まぁ、お前のそう言うところ嫌いじゃないけど」 蓮夢の言う、ちょっと行ったとこ、と言うのが、俺の思う“ちょっと”と同じぐ らいであって欲しいと願う。 「へんだ! バカにして。奢れよな、麻婆焼きそばに目玉焼きトッピングしてもら うんだぁ。中国四千年の歴史だぜ」 「麻婆焼きそばを発案したのは日本人だぞ……」 「マジかよ! 捨てたもんじゃないな、日本」 蓮夢の知らない事を知っていた事にちょっとした優越感を得る。その一つ一つが 楽しかった。 俺の知ってる蓮夢、まだ見た事のない蓮夢。全てが愛おしく思え、俺達と言う未 来に何があるのか、呑気かも知れないが待ち遠しく思えた。 蓮夢の歩いていく先が、次第に眩く賑やかな気配が伝わってきた。俺の思う“ち ょっと”でよかった。 「蓮夢」 先に行こうとする蓮夢を呼び止める。様々な色が混じり合う、街の灯りに照らさ れた姿と向き合う。 「これってお前にとって狙い通りで、俺はお前の“虜”になったのか?」 “身体に喜びを心に毒を”と、蓮夢の無意識の才能を“ナバン”は開花させた。 それを毒だと言うのなら、それでも一向に構わない。殺し屋の俺には上等だ。一 度抱き合っただけで、こんなにも魅せられる。――本当に凄い奴だよ。 野暮ったい話を受け止めた蓮夢は、赤紫に染まった夜空を見上げてから、ゆっく りと視線を向けて微笑んだ。 「んなワケないだろ。俺がアンタに夢中なだけさ……」 蓮夢の横に並んで一緒に歩きだした。途中、腰を小突かれてカクンと崩れる。 もう、迷うな。しっかり生きていこう。無駄な時間を過ごしまった分も取り戻せ るように。蓮夢と共に生きてみよう。 こんな時代のこんな俺達だ。容易い事ではないだろう。――戦いは続く。 退廃した島国、堕落した歓楽街。手詰まりの未来。それでも、未来へ突き進んで 行こう。 行けそうな気がするんだ。俺達四人なら、きっと希望を掴み獲れると。 ダイバーシティパンク~はぐれ者達のアッセンブル~
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