6.― KOGA LIU ― また、視線を感じる。これだけ人で溢れ返っている輝紫桜町で、数秒間ではある が、探る様な視線を何度も感じていた。 浮かれた馬鹿と、意地汚い連中しかいない街と思っていたが、何処か隙のないヒ リヒリとした雰囲気がある。 これだけ頻繁に長い時間、輝紫桜町に身を置くのは初めてだった。格好はラフに して、どちらと言えば金は持ってなさそうな風体を装って、遊び歩く客を装ってい る。適当に飲み歩き、クラブで時間を過ごし、呼び止めるキャッチと簡単な会話す る程度。上手く紛れ込めている。 しかし、どう言う訳か――見られている。そう言う気配を何時も感じていた。 おそらく、これは密偵として、周囲に気を張っている俺だから感じる物なのだろ う。普通に遊んでいれば気付くものじゃない。 輝紫桜町は俺が思っていた以上に特殊で隙のない街だった。連帯感の様なものす ら感じていた。 街の建物と路上から溢れ返る、色とりどりの灯りが混じり合い、正常な色彩感覚 を失いそうになる。この無秩序で混沌とした街の人々を眺めていると、人は何故こ うも、歯止めなく堕落していくのだろうかと、疑問が沸いてくる。 “里”で生まれ育ち、日々鍛練を重ね続ける事だけが全てだった。俺はそれに不 満を覚える事もなく、充分満たされていた。先人達が築き、守り続けてきた忍びの 技術に誇りを持っている。 だが、同じく“里”で歳の近い者の中には、そんな俗に憧れる者も多かった。俺 は何故か、それに興味が持つ事が出来ず、そのせいで周りからは面白味のない奴だ と言われる事もあった。 自分が、その辺の者達では成れない特殊な存在なのだと、早い段階から受け入れ ていた。家系のせいもあるのだろう。 ひたすら業を磨き続け、誰にも負ける事なく、文句一つ言わせないまでになって みせた。 “里”を離れて、早五年。未だに外の世界に慣れない。慣れた風を装えても、そ こに俺はいない。何処か離れたところにいるような感覚だ。忍び生きる者の性なの かもしれない。 それにしても、覚悟していた事だが、この輝紫桜町と言う街で何よりも我慢なら ないのは、そこら中に溢れる、好色の助兵衛共と、媚売りの女や男共だった。 恥じらいなど一欠片もなく、醜怪極まりない、まさに地獄絵図だ。 ふと、こんな所で雇い主の氷野市長が若い頃に、節操無しに遊び惚けていたのか と思うと、溜息が漏れた。 缶の緑茶をリサイクルボックスへ捨てて、街の奥の方へ歩く。 車道の端を歩く、警察のオートマタと視線が合う。鷹野の話では、既に五十台程 が街を巡回しているそうだ。 輝紫桜町には、大小様々な犯罪組織が根城にして事業を展開しているが、現在は 目立った対立もなく、バランスがとれているらしい。互いの商売に干渉せずに、上 手く住み分けができている。 そのバランスの一つが消えた事で、大きな揉め事が起きるのでは、と警察の警戒 が続いているのだ。 その林組と言う組織は、この輝紫桜町の中では半世紀ほど賭博事業等のシノギで 幅を効かせていた老舗のヤクザで、かなりの影響力を持っていた組織だそうだ。 しかし、ここ五年の間に、次々に裏事業のボロを出し続け、急速に力を失ってい ったと言う。そのニアミスのほとんどが、ハッカーによる誘発が原因だなんて噂も 耳にした。 荒神会もハッカーからの攻撃を受けていた。関連性があるかもしれない。 殺し屋にハッカー、サイキック、そして、そのイロモノの中に入るのは不本意で はあるが、忍者の俺がいて、ヤクザを裏で操っているであろう黒幕がいる。 その真相に近づけば、その三人に遭遇する可能性もある。パソコンオタクなハッ カーごときは相手ではないのせよ、他の二人はかなり手強い。黒幕の組織力もどれ 程のものか。 そんな事を考えながら、輝紫桜町の歓楽街エリアを少し離れた場所にある、林組 の事務所跡へ足を運んでいた。何度か入り込んだが、最近はオートマタの巡回も増 えてきて、迂闊に入り込むのも難しくなっていた。 人気のない裏通りは、死んでいるのか生きてるのかも分からない連中が常に転が っている。酒や大麻だけでなく、薬品関係の悪臭が立ち込め、歓楽街とはまた違う 堕落に満たされていた。 そこを抜け出した先にある、林組の事務所跡はすっかり、もぬけの殻となってい た。建物の中へ入っても何もない。 警察が動くよりも前に、例の殺し屋が属する“組合”の仕業か、下らない空き巣 か、たった一日そこらで、建物の中にあった物はほとんどなくなっていたと言う。 今夜も大して収穫はないだろうと思っていたが、事務所の前に真新しい変化が起 きている。黒づくめの車が一台駐まっていた。 「いかにも、ヤクザな車だな……」 車は無人だった。となると、建物の中にいるのだろう。よく見ると、二階の一室 に微かな明かりが見えた。 何人いるのだろうか。このまま建物の中に忍び込んでも、見張りだなんだと面倒 な感じになりそうだ。――登るか。 灯りの見える窓の側へ近づき、壁際に沿って忍び寄る。隣の建物とほぼ密着状態 だった。これなら簡単に登れるし、身体も固定し易い。 万が一と言う事もある。ジャケットのフードを被って、バンダナで口元を隠して おく。 掴める所、足をかけれる場所、それが一、二個あれば充分だ。十メートルもない 二階まではあっさり登れた。 灯りのある部屋の外、廊下の窓からゆっくりと様子を伺う。誰もいない、廊下は 真っ暗だ。 幸いにも窓は半開きで開いている。狭いが入り込めた。 車の雰囲気といい、建物の電気を使用しない感じからすると、中にいる連中は危 険で、見つかれば俺もただじゃ済まない事は明白だ。緊張感が高まる。 音を立てずに建物の中へ侵入した。目の前にあるドアの向こうからは、定期的に ばん、ばんと、叩く様な音が聞こえる。――誰かを殴っているのか。 低くかがみ、窓のから入る光も当たらない位置の壁に身体を寄せながら、ジャケ ットの中に忍ばせていた迷彩布を被った。“隠れ身”の業だ。 漆黒のベンダブラックをベースに、明度の異なる黒を混ぜた、暗がり用の迷彩布 である。単純な手段だが、有利にな状況で隠れている者を見つけるには、見つける と言う行為、一点に集中しない限りは、意外に気付けないものだ。 壁に手と耳を当て、全神経を聞く事だけに集中させる。少しづつ、次第に部屋の 中の音が聞こえてくる。 思った通り、誰かを殴っている音だ。呻き声と、息を荒げている様子も伺える。 一方的な感じから察するに、拷問の類いと言ったところだ。となれば、気になる のは、誰が誰に、何を聞き出しているのか。そして、俺は助けるべきか。 その義理はないが、林組の事務所跡でヤクザっぽい連中がやっている事なら、俺 の関わっている一件に無関係と言う事はないだろう。 さて、どうした物かと考えていると、奥から階段を上る音が聞こえてきた。一度 呼吸を整えてから、息を殺す、石と成れ。 重い足音が重なっている。男が二人こっちに向かって来る。――石と成れ。 ゆっくりとドアが開く。ドアが良い具合に俺を隠してくれる。しかも、開けっ放 しなのが、更にありがたい。これなら会話は丸聞こえだ。 「タレコミから連絡がありました。見つけました」 「間違いないか?」 「尾行させてます」 連中は誰かを探している。と言う状況から察するに、部屋の中で殴られているで あろう奴は、その誰かについて吐かされた。と思って間違いないだろう。 物音や息づかい、部屋の状況が手に取るように伝わってくる。“里”何日も目隠 しをして過ごしてた事がある。音だけで状況と空間を把握して、限られた情報を正 確に増幅する修練だ。 今、部屋には四人いる。椅子に縛り付けられた男を囲むように立っている。部屋 の入り口前に、入っていった男が二人。縛られた男の右側にいる奴が、男を殴って いた。まだ呼吸が乱れている。タオルか何かで、拳を拭いている音も聞こえる。 男の後ろ側にいるもう一人がリーダー格だ。煙草を吸っている音がした。 「そいつはどうします?」 「どうせ死ぬ、放っておけ」 男共が部屋を出ながら話してる。やはり四人いたか。布の隙間から覗き見る四人 ともスーツ姿だ。体格も大きく厳つい、あの車も目立つ。後で追いかけて見つける のは簡単そうだ。 となれば、部屋の中の死に損ないから俺も情報を頂くとしよう。助けるかどうか は、その後次第だ。 「それと、例のハッカー対策にも連絡入れとけよ」 「上が紹介してきた奴ですか?」 四人の足音と話声が徐々に遠のく。“上”が紹介したハッカー対策。と言うのも 気になる情報ではあるが、今は部屋の中にいる奴の様子を見よう。迷彩布を折り畳 み、部屋に入る。案の定、椅子に縛り付けられた男が一人うなだれていた。 顔は銀色のガムテープで口以外はミイラの様にぐるぐるに巻かれていて、上から でも、腫れ上がり、鼻も折られている事が分かる。テープ越しからも目元、鼻元か らの出血が溢れ出ている。確かに、長くはもたないな。 縛られた両手を解いてやるが、だらんと落ちる。逃げる力も残っていなかった。 「おい、奴等に何を話したか教えろ……。そうすれば助けてやる」 少し心が痛むな。もう、助けたところで助からない。――そう言う呼吸をしてい る。 本当ならこれ以上、呼吸を乱さない様、喋らせるべきではないが、そう言う訳に もいかない。俺にも仕事があって、それはお前より優先すべき事だ。 「ホテルに……ハッカーは来なかった、替わりが、来たと、連絡が来た……」 「ハッカーの名前は? 替わりは誰だ?」 ホテルと聞いて思い当たるのはやはり、林組が襲撃されたあのホテルだ。こいつ は林組の生き残りと言ったところか。 ハッカーと言う言葉も引っ掛かった。荒神会もハッカーに振り回されていた。林 組は例のホテルでハッカーと会う約束があった。 そのハッカーは荒神会に関わるハッカーと同一か。それとも別か。 もっと詳しく聞きたいが、こいつに残っているは時間はもうなかった。 「ク、クラッカーイン、プ……。ポルノ……デーモン」 ハッカーの名がクラッカーインプ。代理で来た者がポルノデーモン。と言う事で いいのか。どちらも魔物の類いになるが、ポルノと言う表現が、この輝紫桜町と繋 がる様な気がする。根拠もないが、勝手に紐付けされてしまう。 あの四人は、この男にホテルで何があったのかを聞き出した。そうなると、連中 が見つけたと言って追いかけているのは、そのどちらかと言う事か。 だとすれば、俺も急がなくては。インプでもデーモンでも、この一件の重要な鍵 を握っている事は間違いない。 しかし、今から普段の装備を用意する時間はない。手持ちはダガーとスローイン グナイフが数本程度だ。敵は何人いて、どれ程の武装かが分からないが、それで対 処できるだろうか。 いや、泣き言はなどは不要。やらねば成らぬなら、やるだけだ。ここでみすみす 重要な“答え”を奪われる訳にはいかない。 今際の男の耳元に近づき、最後の質問をする。 「アイツ等は、荒神会だな?」 男はどうにか、頭をぐったりと振り下ろして息絶えた。――すまん。 助けてやると希望を持たせてやったのは、話させる為だった。だが、名も知らな いお前から手に入れた情報は、必ず役立てると誓おうじゃないか。 「行き掛けの駄賃だ……。一応、お前の無念は晴らしてやるよ」 踵を返し、事務所跡を出る。俺の逸る脚は歓楽街の遊び人から、忍者のそれへ変 貌していく。 胸の高鳴りが収まらない。とっ散らかっていた情報の切れ端が、繋がるかもしれ なかった。 それが叶わなかったとしても、この狂い切った地獄の輝紫桜町で、魔物狩りもヤ クザ狩りも一興と言うものじゃないか。――何かが起こりそうな夜だ。
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