6.― KOGA LIU ― 潮風が心地よい。このまま月見酒でも洒落込みたい気分になる。生憎の曇りで月 はほとんど見えないが、忍者にとっては都合の良い夜だ。 港区の工業地域にある廃ビルを陣取って三日、今夜はいよいよ、荒神会の構える 事務所へ潜入する。五階建ての廃ビルの屋上から、その向かいにある荒神会が所有 する三階建てのビルを見下ろた。じき、午前〇時になるが、ほとんどの窓から灯り が漏れている。こんな夜中まで一体何をしているのやら。 あの建物には常に三、四十人ぐらいがいる。初日にあそこへ忍び込んだ日を思い 出す。 先ずは電気工務店に化けて盗聴器を仕掛けた。通信回線のショートを装い、修理 に行く。荒神会が利用する、電気工務店に、氷野市長殿が事前に手を回してくれて いたので、楽に忍び込めた。 その時に建物の大体の間取りは覚えた。三階の真ん中、大きな窓ガラスに御大層 な三宝荒神が描かれている部屋。一際広く、社長室の様な出で立ちの部屋だ。その 時は組長の様なのがいたのだろう、入る事は出来なかった。扉の隙間から得る僅か な情報と位置、後はこの廃ビルから覗き込む様子のみ。 そして印象的なのが、このビルに出入りする連中は年齢に問わず全員が背広姿だ った事だ。 見るからに下っ端の様な若い連中ですら、しっかりとした背広を着こなし、襟を 正していたのが印象的だった。 盗聴器から聞こえる会話も、一部は如何にもなヤクザな雰囲気もあれば、機械的 で整った会話をしている者達もいる。総合的に見てヤクザと言うより、ヤクザの体 でいるかの様な違和感を感じた。 何れにしても今夜中に必要な物を頂戴して、今後の行動も定めていかねば。 目的は三階のあの部屋だ。この三日間の盗聴と盗撮の探りで、情報らしい物を納 めていそうな場所はそこしかない。狙うのは密輸を立証できる情報の類。 パソコンの様な証拠が残り易い物には入れられない、物理的に存在する情報を手 に入れたいところだ。 荒神会はこの事務所以外にも、幾つかの拠点があるが、氷野の話では、ここが有 力だと言う話だった。 蜂がねを引き締め、マスクとバイザーを装着しフードを被る。昔ながらの忍装束 の布頭巾から随分な進歩だ。 忍者は常に任務の成功率を高める為に、その時代時代における最新鋭と呼べる物 を柔軟に多く取り入れて、生き永らえてきた歴史がある。 とは言ったものの、俺の様にそれは最小限に止めて、忍本来の技術や技を追求す る者も少数ながら存在する。それを酔狂を笑う者もいるが、正にここぞと言う時こ そ、磨いてきた技が物を言うと、俺は信じている。 最近では身体の機械化、所謂サイボーグ技術の導入を唱える軟弱な者すらいる。 それでは駄目だ、長年の鍛錬があってこそ、忍の技は今もまだ唯一無二。俺はそ んな者は決して認めない。 バイザーの操作は、右腕のプロテクターに装着してある端末と無線連動する。タ ッチパネルに触れてバイザーの視界をサーモグラフィーに変えた。 表面的であるが、やはりそれなりに人が多い。目的の部屋にも三人いた。ビルの 中にいる連中を引き付ける細工は、この廃ビルに既に仕掛けている。 廃ビルから荒神会のビルまで二〇メートル程、ワイヤーガンを撃ち下ろす。シュ ルシュルと螺旋を描きながら、荒神会のビルの屋上出入口に深々と突き刺さった。 固定具にワイヤーを巻き付けて限界まで引っ張り、一気に滑り落ちる。荒神会ビ ルの屋上へ降り立つと同時に、ワイヤーを小太刀で切り落とした。ピンと張ったワ イヤーが吸われる様に廃ビルの屋上へ戻っていく。 バイザーを再びサーモグラフィーに変えて、人の動きを把握する。出入口の扉を ゆっくりと開けて、侵入した。ここからは息を殺し、五感を研ぎ澄まし、足並み十 法を駆使して目的の部屋まで向かう。 わざわざ屋上から侵入するのも、目的の部屋への最短ルートだからだ。その部屋 には、まだ三人がいる。人の形をした赤とオレンジの三つ塊、一人はソファに座っ ている。酒でも飲んでいるのか、他の二人より赤くなっている。 低くかがみ、廊下の様子も並行して伺う。幸いにも三階にはその三人しかいない 様だ。あの三人を部屋から追い出す方法は既に仕込んでいるが、直感がそれを拒ん でいた。 座っている奴は重要ではなさそうだったが、立っている二人。一人は忙しなく動 き、一人は直立のした状態。何かを話している様に思えた。 その会話は、おそらく俺にとって――聞く価値のある物と直感が働いた。 素早く三人がいる部屋の隣の部屋へ入り込む。最初の潜入の際に、あの部屋の隣 が物置代わりの様に使われている事を知っている。 部屋の中には、折り畳まれた長机やパイプ椅子、脚立や工具類が乱雑に並べられ ていた。 天井にある通気ダクトの下に脚立を立てて、通気ダクトのフードを慎重に取り外 した。 この通気ダクトも事前に利用できそうだとは思っていたが、できれば使いたくな い手段だった。ダクトの中は大体、酷く汚れている物だ。 ダクトの様子を覗いてみる。人一人が、充分に入り込める大きさだったが、案の 定ダクトの中は汚れている。マスクとバイザーがなければ、五分と耐えられない様 な場所だ。 身体をよじり、ダクトの中を芋虫の様にゆっくりと縮めては伸ばして進んでい行 く。ファンから来る風は控えめで、既に部屋の方からの話声が聞こえてきた。あと 四、五メートル程で目的の部屋の真上に辿り着く。 「叔父貴もなんで輝紫桜町なんかに行ってたのか」 「あそこのママには相当入れ込んでたからな……」 格子状のフードの隙間から、部屋の中の三人を覗き込む。やはり座っている男は 酒を飲んでいて、話しているのは立っている二人の様だ。 三人とも年齢は四十代ぐらい、着こなしているスーツもブランド物だった。おそ らく、幹部クラスの連中と言った所か。 「お陰で“ブツ”の流れが止まったままだ、データもクソハッカーに壊されて中継 ぎ出来る奴もいない」 落ち着きなくウロウロと動く男がこちらの視界から消える。 輝紫桜町と言う言葉から察するに、例の高級クラブの襲撃事件だろう。たった一 人、数分の内に九人を仕留めた、紛れもないプロの犯行。 ハッカーと言う言葉はお初の情報だな。殺し屋は荒神会と敵対している勢力に雇 われているか、その配下にあると思って間違いないが、そのハッカーは同じか別の 勢力か。 この数週間の間に荒神会は、方々から随分な攻撃を受けていたらしい。 “ブツ”と呼ばれている物は、密輸品の類である事は明白だが、やはり人間のな のだろうか。 「それなんだが、林組の竹藤がその中継ぎをやるって言ってるみたいだぜ」 「やらせる訳ないだろ、なんで林組なんかに。貧乏ヤクザの組長にデカい顔させる 気か?」 やはり盗聴器を仕掛け損ねた場所だけに、良い情報が手に入るな。この三日間の 間、建物の中を探っていたが、思う様な成果が手に入らなかった。今、リスクを覚 悟に、この通気ダクトの中で聞き耳を立てたのは正解だった。 林組、如何にもヤクザと言った風体の名だが、今は詳細を調べられない。話の感 じからすると、荒神会の傘下にある、下請けヤクザと言った所か。 「叔父貴からこの事業の事は大体聞いてるって話だ。壊されたデータをほとんど持 ってるなんて言ってる」 「叔父貴と盃を交わしたからと言って、そんなに親しかったか?」 「明日、話を聞きに行く約束だ。期待はしてないが、本当に出来るなら、やらせる しかないだろうな。上の圧力が強くなってきてる。第一陣もようやく出荷できるま でになった大事な時期だし」 この会話が人身売買の裏事業だと仮定して、上の圧力、と言う言葉が引っ掛かっ た。荒神会を裏で操る、黒幕が存在するとでも言うのだろうか。 荒神会規模の大きな勢力を束ねられるだけの組織か。これは下手をすると警察や 行政では、到底敵わない相手と言う事にもなりかねないな。 この国のシステムは、依然壊れたままで、時が止まっている様な物だ。それを良 い事に、外資系企業の介入も止まる事を知らない。その中にこう言う、如何わしい ネットワークが組み込まれていく。 氷野市長の予感は当たっているのかもしれない。 「ここまで来るのに五年かかった。連中にはしっかり働てもらわないとな」 「それと上からの情報だが、叔父貴をやった殺し屋、どうも“組合”の人間でほぼ 間違いないらしい」 「だろうな、手際が良すぎる。面倒な組織だ全く……」 “組合”か、良く知っている組織だ。世界中に点在し、兵士や殺し屋等、荒事に 強い人材を育成して斡旋する、無国籍の組織だ。ここ数十年の間、俺達忍者にも度 々、組合に加入しないかと誘いが来ていた。 その条件や待遇は最高と言っていいが、どの流派も拒み続けていた。忍びの技は 簡単にマニュアル化できる物じゃないし、すれば衰退する。 此処まで先代が守り抜いていた、忍びの技を易々と俗物には渡せない。俺もその 考えには同意している。 とは言え、流石は世界規模の組織だ、腕のいい殺し屋を持っている。俺の予想だ が、その殺し屋は目立った目撃情報もないから、日本人だろう。 争いに無縁な時代が長かったこの日本で、これだけ戦闘慣れしていて、感覚が研 ぎ澄まされた者がいるのは、時代が変わったのだと思い知らされる。 「ハッカーに殺し屋と、ここに来てトラブル続きだ。早いとこそいつ等を見つけ出 して始末しないと……」 そろそろ潮時だろう。この会話と映像はバイザーの方で記録済みだ。三人にはこ の部屋から退散してもらおう。右腕の端末で廃ビルに仕掛けてある“囮”を起動さ せる。 早速、窓ガラスが派手に割れる音が響き渡り。その後も銃声と共に数発部屋に撃 ち込まれていく。 更にもう一つの“囮”も起動する。今度は一階から何発もの銃声が鳴り響く。 仕掛けは単純な物だ。無線信号で狙撃ライフルの引き金を、一定間隔で引く装置 を、廃ビルの五階と四階に一丁づつ、このビルの三階を狙う様にしてある。そして 地上には同じ仕組みで拳銃を六丁程、設置してある。 襲撃を装い、建物にいる連中を一階に陽動する。三階のこの部屋も数発、撃ち込 めば狙われていると思い、全員が部屋から出ていくって寸法だ。 予想通り、立ち話していた二人は一目散に部屋から出ていったが、予想外にもソ ファにふんぞり返り、酒を煽っていた男が残っていた。 完全に酔っぱらっていて、呂律の回らない怒声で廃ビルに向けて拳銃を撃ってい る。 あの仕掛けは単純で、撃つ方向は変えられない。あの位置に立たれると当たらな い。全く面倒な奴だ。 ダクトのフードを外し、部屋に入り込む。あの仕掛けは七秒間隔で発砲する。そ ろそろ弾切れを起こす頃だ。素早く酔っ払いに背後に忍び寄る。あと三秒。 酔っ払いの右側に回り込み、右手を掴んで抑え込み、首元に肘を突き付けて、少 し横に押し出すと、狙い通りのタイミングで狙撃ライフルの弾丸が酔っ払いの胸を 撃ち抜いた。 そのまま押し倒して、体重をかけながら口と鼻を塞ぐ。白目をむいて酔っ払いは 絶命した。 これで邪魔者はいない。下の方では仕掛け以外の銃声も聞こえる。まんまと術中 にはまる間抜けな連中を他所に、この部屋にある情報を頂く事にする。 立派な書斎机の引き出しを一通り開け物色する。目ぼしい物はなかった。 下段の鍵付きはピッキングツールで素早く解錠して開く。中には金庫でもと思っ たが、入っていたのは意外にもノートPCだった。 さっきの会話ではハッカーがデータを破壊したと言っていたが、どうも嫌な予感 がする。 一先ずPCを立ち上げて、バックパックに収めてあるSSDを接続する。これは 俺の専門外だが、これをPCに接続すると、自動でクローンソフトがPCに入り込 み、PC内のデータを丸ごとコピーしてくれる代物だそうだ。 あと数分かかる。今の内に脱出の準備をしておく。肩のプロテクターに装着して ある、手甲鉤を両手にはめ込んだ。 PCが悪いのか、SSDが悪いのか分からないが、ようやく七〇パーセントに達 した。下の気配を伺う。仕掛けの銃声がほとんど聞こえなくなっていた。罠と気付 かれるのも、もう間もなくだな。 あと少し、なんとか一〇〇パーセントに達してコピーが終わった。痕跡を残さず 机周りを元通りに戻す。この情報が役に立てばいいが。 ハッカーが情報を奪うのは仕事の内だろうが。壊されるとこっちが迷惑だ。 それにしても、氷野が言っていた程の重要性が、果たして、この事務所にあった だろうか。正直、肩透かしを食らった気分だ。 最後に部屋を確認する。違和感を感じるのは、外れたダクトのフードぐらいだっ た。死体は撃たれて死んだ、それで成立するし、物理的な紛失もない。問題はなさ そうだ。 割れた窓ガラスに脚をかけ、外壁に手甲鉤を突き刺す。足場になりそうな場所を 見つけ、掴めそうな場所がなければ、手甲鉤を突き刺して、横に素早く移動してい く。 このままビルの裏側へ下りながら、あとは去るのみだ。ビルの側面まで回り込ん で、二階辺りの位置から飛び降り、地上へ降りた。 常に音を立てるな。つま先と膝に全神経を集中して、あらゆる衝撃も負荷も受け 流し、羽根の如く軽く、そして柳の如くしなやかに。 銃声は聞こえず、向こうの方から聞こえるのはヤクザ共の怒声のみ。そのまま南 方面へ速やかに走り去る。 この先にある工場を超えて、大型トラックの駐車場まで辿り着けば、一先ず安心 だ。着替えて適当にタクシーでも捕まえて中央区に戻ればいい。 荒神会のビルを離れて、工場の壁際に沿って走る。大分離れた、少し呼吸を整え る為に立ち止まったその瞬間。足元の影に消え、頭上から空気の圧の様な物を感じ た。 身を逸らして、反射的に避ける事が出来たが、衝撃に身体を吹き飛ばされる。静 寂から一転、金属が砕け散る激しい音に耳が痛む。一体何が起きたんだ。 自分がそれまでいた場所には、白い軽自動車が無残な姿で潰れていた。紙一重の 勘に救われた。身体を起こしズキズキした痛みの中、どうにか冷静を保とうする。 これは間違いなく俺を狙った襲撃だ。しかし、何者だ。 そもそも軽自動車を真上から落としてくるヤクザなんて聞いた事がないし、並の 人間に出来る事じゃない。周囲を警戒して身構える。 ふと、人の気配を感じ、その先へ視界を移す。十メートルほど先の暗がりに佇む 人影があった。目を凝らしてその人影を睨む。次第に暗がりに目が慣れて人影の全 貌が目に写る。 背丈は俺よりも低く身体のラインは細い。まさかとは思うが、女なのか。 漆黒に赤いラインが入った、鋭い目付きの狐の面をしていた。ゆっくりとこちら に近づいて来る。 全身黒ずくめで革材質のロングコート。下半身は大きく開き、上半身から首元ま で拘束衣の様にベルト金具でしっかり止められており、両腕はまるで着物の広袖の 様に大きく両手を隠していた。 ゆらゆらとゆっくり近づいて来る、その異質な存在にを目の当たりにし、混乱は 収まらないが、同時に好奇心も沸く。 あれは間違いなく、俺に――殺気を向けている。 後ろに下がれば荒神会のヤクザ共、そして派手な撃ち合いをしていたのだ、警察 が動く可能性もある。壊れかけの御上でも無機能ではない。時間をかけるのもリス クがあるが、あの不気味な黒狐との戦闘は避けれそうになかった。 ならば先手必勝だ。そう思ったその時には、苦無を三本、黒狐に向けて投げ放っ たが、またしても我が目を疑う光景に圧倒された。三本の苦無は黒狐の目の前で止 まって、ふわふわと浮いている。 苦無が空しくカランカランと地面に落ちる。黒狐が立ち止まる。その距離はいよ いよ五メートル以内。 黒狐が両腕を背中に回し、ワイヤーの様な物を一気にグイっと引っ張ると、さっ きの苦無よりも重々しい金属音が、ガラガラと響いた。黒狐の背中から鋭くはない が、尖った金属の塊が鈍く銀色に光り、無数に垂れ下がった。 こちらも左手で小太刀を逆手に抜き、右袖に仕込んでいる分銅鎖の刃を出す。一 体どんな手を使っているのかは分からないが、この黒狐は只者じゃない。本気で立 ち向かわければ、間違いなく殺される。 向かい合い、互いを睨み合う数秒。黒狐の背中から垂れた鉄塊が、ゆっくり浮き 上がった。 鉄塊はまるで俺を威嚇するかの様に大きく広がり、その高さは二メートルは高く 浮いて揺らめいている。 その鉄塊は全部で九本あった。自分の中の修羅が疼いている様だった。この黒狐 はただの狐じゃない。 何が目的かは知らないが、とんだ妖に出くわしてしまったらしい。 こいつは正に――九尾の狐だ。
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