10.― KOGA LIU ― 酒を呑むは久し振りだった。最後に呑んだのはおそらく、晩春の花見酒以来だろ う。熱燗の沁みる季節になったな。 居酒屋の個室は防音もしっかりしていて、話すには丁度良い空間だった。 「間違いなく発信機ね。振動で充電され、端末の無線を経由するから、どんなに離 れていても位置を掴まれる……。人のいない山奥にでも行かない限りは常に位置を 発信し続ける。これだけ小型の物は、一般人ではまず手に入れられない代物ね」 片目ルーペで睨みを効かせながら、向かいに座る鷹野は、的確に忍装束に縫い付 けられた異物の正体を見破った。 奴も相当必死らしい。九尾の黒狐、リィユーチェン。何時の間にこんな物を仕込 んだのか、危うく見落とすところだった。 「それにしても、酷いやられようね……」 ルーペを外した鷹野は、早速とばかりに南部鉄器の燗瓶を手に取り、お猪口に酒 を注いだ。 確かに酷いザマだ。胸骨と肋骨数本にヒビが入っているし、全身もあざだらけで 鎮痛剤が手放せない状態だった。 毒が回り、のた打ち回っていた黒狐を追い詰めたあの時、全身が一瞬で潰された 様な衝撃と共に意識を失い、目覚めた時には全身がトラックにめり込んでいた。 忍装束の上にアーマーを着込んでいなければ、その衝撃にもっと骨が砕けてしま ったかもしれない。 あんな切り札を持っていたとは。 「手の内は読めてると思っていたが、厄介だなサイキックは……」 「最新のレポートでは、三世代から四世代目のサイキックの中には、特製の異なる 能力を複数を合わせ持つ者も、稀にいるそうよ。それにしても、女の子相手に毒を 使うなんて、協力してあげればよかったんじゃないの?」 鷹野はお猪口の酒を飲み干し、更に一杯なみなみと注いでから、燗瓶をキューブ 状の保温機へ戻した。 複数の能力を持つか。サイキックと呼ばれる人種が、これからどれだけ増えてく るのか。この先、何世代も紡がれていった先の世界、そして人間の姿を想像する事 も出来ない。 サイボーグ技術といい、人間の在り方や世の中が何処へ向かっていくのか。一抹 の不安を、普通の人間として覚える。 「公僕の立場でアウトローと組むわけにはいかないだろ。確かにあの黒狐がやろう としている事は正義だ。だが容認する訳にはいかない。毒も子供相手にする事じゃ ないって、分かってはいたが、はっきり言ってサイキックの攻撃は不可避だ。先手 を打つしかない」 個人的にそう信じているし、そうあるべきだ。乱破が利己的に動いてはただの傭 兵や“組合”の殺し屋と大して変わらない。公あっての自分、主君あっての忍者。 そう教わってきた。今更、曲げられる訳もない。 全く、嫌な世の中だ。人攫いのゴミ共も、必死に協力を求める黒狐も。あの様子 は間違いなく、攫われた人々の中に自分の親しい者がいるからだ。まだ幼さすら残 っている瞳の奥には、歳不相応な光を失った、荒んだ気配を纏わせていた。 何とかしてやりたい。俺の本心はそこにある。それでも、今やるべき事は港区を 守る事だ。冷めた酒を一気に呑み干す。 「こちら側が雇ってあげる体なら、有りだと思うけど、氷野市長だって喜ぶんじゃ ない? 忍者とサイキック、最強じゃない」 お通しの山芋と酒を煽りながら、鷹野は提案する。手に取った燗瓶が大分軽くな ってるが、知らない内に何杯呑んでいたんだ。 謎の多い女だ。五年前に中途採用で職員となり、出来試合の様に氷野さんの推薦 で秘書役に昇りつめた。 氷野さんも鷹野については多くを語らないが、鷹野の幅広い知識と秀逸なマネジ メント能力は、俺と氷野さんにはなくてはならない存在だった。 そういう信頼性もあって、俺もいらぬ詮索はしない様にしている。俺とは種類の 違う生真面目さを持ち、職場では何時も睨み合いだ。 今日もここで呼びつけた時は、あからさまに不機嫌な表情をしていたが、珍しい 発信機と熱燗ですっかり機嫌が直っていた。タブレットをいじり、料理を注文して いた。 嫌いじゃなかった、職場以外でのスイッチが入っていない鷹野と話すのは。 「気楽なもんだ。黒狐の能力は認める。大した才能だよ、でも素人だ。力を過信し ている。俺は援護してやれるが、奴は俺を援護できないだろう。互いに能力を発揮 し合えないのなら、組む意味はない……」 忍者は原則的に同じ流派、同じぐらいの実力を持つ者同士が組むべきとされてい る。畑違いの者と組んだところで、足の引っ張り合いになるのは目に見えていた。 だとすれば、俺があの黒狐にしてやれる事はなんだろうか。 荒神会のバックにいる組織、そして囚われた人々。今のままでは情報不足だ。 やはり、CrackerImpが鍵を握っているのか。黒狐の言い振りだと、俺 よりも情報を持っていそうな雰囲気だったが。 そして、“組合”の殺し屋。奴も関わり続けている筈だ。 ハッカーに殺し屋、サイキック。そしてこの俺と、一体どれだけの勢力がこの一 件に関わっているのだろか。酒を飲み干し、溜息が漏れる。 「それで、これからどうするの?」 どうするって、なんで俺に聞くんだ。次の一手は氷野さん次第だろ。と、言いた いところだが、ここに来て俺達は手詰まりであると、認めざるを得ない。 当初の荒神会と人身売買の実態を暴き、港区を開放する任務は、予想外の横槍に 遮られている間に、元の鞘に戻ってしまった。俺も氷野さんも読みが甘かった。 「その発信機、付けたままなら半永久的に動くんだな? 洗濯も大丈夫か?」 「極端に強い衝撃を与えなければ、防水に決まってるでしょ……」 全ては氷野さん次第である事は変わらないが、俺の方もそろそろ好きにしてみる のも、悪くないかもしれない。 「なら付けたままにしておく。手は組めないが、黒狐のお望み通り、俺の手の内を 見させてやるよ。それで共闘できる機会があれば、それもいいだろう」 今はCrackerImpや輝紫桜町に執着するよりも、一歩下がって達観して おくのも、良いかも知れない。敢えて泳がせてみるか。 ハッカー、殺し屋、サイキック、そして俺達。目的は違うが、向いてる方向は同 じ筈だ。兆行を逃さず、動くべき時に動く。 「しばらく港区の監視に集中する。家にも役所周りにも近づかない。狐に睨まれて いるからな。輝紫桜町の方面と黒狐の協力者の探りは任せる。“黒狐のお嬢”は俺 の方で責任持つ」 「優しいのか、厳しいのか……。不器用な奴」 「不器用は余計だ」 鷹野は笑みを浮かべていた。俺が黒狐を受け持つ事に安心している様だった。目 のやり場に困る。笑っていればいい女なんだがな。タブレットを手にする。かなり 酒が回ってきてるが、もう少しぐらい飲もうか。さっき鷹野は何を頼んだのか、刺 身か焼き鳥か。 「もう五年だっけ? 私達」 タブレットを取り上げられ、鷹野は手際よく先に注文を入れている。 「今はこんな状況だから、とてもゆっくりはできないけど、今度は三人で飲みにで も行きたいわね……」 タブレットの追加注文を送信して。スタンドにタブレットを戻す。俺はまだ注文 していないのに。 燗瓶から、辛うじて残っている一杯分を注ぐ。 五年。それなりに長い付き合いだが、確かに三人で飲んだ事はなかった。おそら く鷹野は秘書役として、氷野さんの酒の席に付き合う事はあるかもしれないが、そ れも仕事の延長だ。当然、表向き一職員の俺なんかが、市長と個人的に酒を飲むな んて機会もない。 「そんな間柄じゃないだろ、俺達は」 氷野さんの言う“チーム”で飲むと言うのも悪くないかもしれないが、実際そん な事が出来るかどうか。 それに今は、氷野さんの事を考えるとワンセットでいらない情報も付き纏う。こ んな状態で呑む酒が果たして美味いだろうか。 「そう言うと思った。何故そんなに同性愛者が嫌いなの? まぁ両性愛だけど」 やはりその話題になるか。鷹野と話すのも、あれ以来だったか。市長室の突然の カミングアウト。 あれからその意図は聞いて、俺なりに納得はしているが当然、全てを受け入れて いる訳ではなかった。 「わざわざ、プライベート潰して此処に来たのよ、明日も通常の仕事とアンタのフ ォローもしなきゃいけない。話してもらうわよ」 それを盾に話させる気か、反論できない。役所に黒狐が侵入して以降、俺は役所 には近づいていない。 役所の警備強化、俺と氷野さんの橋渡し、俺の長期休暇まで、全て鷹野がやって くれた。そして今日の呼び出しもだ。鷹野なりに言いたい事が溜まっていたのだろ う。 何時もなら睨み合いだが、今回ばかりは頭が上がらない。 「聞いてどうする? 聞いてもどうにもならないぞ。俺は割り切る様に努力してる つもり……」 「つもりじゃ困るのよ。それに、割り切るんじゃなく、理解してもらいたいの」 容赦のない追及、年上特有の高圧的な物言い。酔っぱらっているのだろうか、鷹 野に引き下がる気配はなさそうだった。本当に勘弁してほしい。 酒も回っているせいか、面倒臭さとつい口が軽くなり口走りそうになる危うい雰 囲気と沈黙に、部屋の中が満たされそうになる。その沈黙を破り、給仕のドローン が料理と酒を運んできた。 追加の熱燗に麦焼酎のミニボトル。クラッシュアイスが詰め込まれたグラス。大 皿に豪快に盛り付けられた鰹のタタキと取り皿数枚を手際よく、鷹野はテーブルに 移した。手伝う余地もなかった。他はやるから、お前は話せと言わんばかりだ。ド ローンが去っていく。 もう、話すしかなさそうだ、思い出したくもない“里”で壊れてしまった、俺の 家族の事を。 「家族の中にそう言うのがいた……その、ホ……。ゲイが」 溜息と共に、もう何年も会ってない家族の顔が脳裏に浮かんだ。会いたいとも思 わないが。 鷹野が何か言いたそうな顔をしているが、今は聞く気にはなれない。柄じゃない が、たまには酒の勢いに任せるのも良いのかもしれない。お猪口に来たばかりの熱 燗を注いだ。 「“里”は狭いコミュニティだから噂はすぐに拡がった。俺達は甲賀流の筆頭に立 てる筈だったのに、妬みもあったろう、俺も家族も誹謗中傷に曝された」 五人家族だった。代々甲賀流の業と技術を語り継いできた家系である。勿論、俺 達もそれを受け継ぎ、時代に順応して後世に伝えていく。疑わず、その道を生き続 けると思っていたのに。 最初は、気にしなかった。俺は俺だと思っていたが、次第に兄弟ごと、ホモだオ カマだと罵られる様になっていった。 その積み重ねが、次第にそっち側じゃないと主張し、過剰に反応する様になって いった。俺は違う、俺はアイツとは違う、俺はまともだ。必死に叫んだけど、誰一 人として、聞き入れてはくれなかった。 元々、同世代と上手く釣り合ってなかった関係が、決定的になった。 それでも、十三のガキの時分に味わった、同年代共の手の平返しと同調圧力。人 間とは恐ろしいと、まざまざと思い知らされたものだ。 「汚名を返上したくて、必死にやってきた。実力を見せ付けて、誰にも文句は言わ せない程に。その身内には退いてほしかった、俺が筆頭になって仕切れば済む事だ ったのに……」 その努力は、今の俺にとって最も尊い財産ではあるが、孤独で苦しいだけの生き 地獄の様な日々だった。今、思い出しても吐き気が込み上げる。 尊敬されようが、軽蔑されようが、一心不乱に修練を重ね、“里”の誰にも及ば ない業と知識を身に付けて行った。 「でも家族の望みは、そいつを筆頭にする事だった。そいつが何であれ、俺はその 傍らの補佐役から抜け出せなかった。納得出来なかった。散々罵って、サシで戦っ て、力でねじ伏せて。家族にも分からせようとしたが……。まぁ、何て言うか、後 味の悪い感じになって……」 頭を掻き毟りお猪口に酒を注ぐ。鷹野の目は、そりゃそうだろ。と、言わんばか りだった。この歳になって、自分でもガキ臭い事をしたと思ってる。 それでも、俺を散々苦しめてくれた、そいつの全てを否定してやりたかった。 その気持ちは今でも変わっていなかった。だとしても、もう少し賢いやり方はあ った筈だ。 「結局、そいつは“里”を抜けて行方不明。俺は家族と疎遠。忍者は集団行動が基 本だが“里”の連中とはもう組む気にはなれなかった。こうして俺は、はぐれ者に なったって訳さ……。黙って普通を装ってくれれば良かったものを、多様性なんて 所詮は夢物語だ。実際“里”でもない外の世界だってそうだろ?」 お猪口では物足りなくなってきた。立て続けに酒を注ぎ、一気飲みをする。 聞こえのいい言葉や価値観を掲げていても、結局は多数派の理屈で物事は動いて いく。そして、抗っても弾かれて追いやられる。 タフになれる奴なら、それもいいだろう。でも直ぐにそうなれる訳でもない。 その間にどれだけ傷つけられるか。それに誰もが耐えられる訳ではない。 同性愛なんて、歪んだ感情のせいで、俺も俺の周りも壊れてしまった。その頃は 本気でそう思っていた。 それを改めていくべきなのかと思っていたが、長年蓄積してきたこの思いは、簡 単には剥がし落とせなかった。 「鵜飼……」 「分かってるよ、そう言うのを他に押し付けるなってのは。でもな、簡単に言って くれるな。もう少し、時間をくれないか? このままだと、また同じ後味の悪い事 になるのは、自分でも分かっている。でも簡単には変えられないんだ」 しばらく沈黙が続く。とりあえず料理に手を付けるが、微妙に視界が揺らいでい る。少し飲み過ぎたかもしれない。 二十歳になって、早速と酒を飲み始めてみたが、悪酔いを繰り返して、しばらく 離れていた。最近になってまた飲む様になって、ようやく酒の美味さが少し分かっ てきたが、そこで気付いた。俺はそれほど酒に強くないらしい。 水でも頼もうかと思って、タブレットを手に取るが、そこで不意に鷹野の方を見 ると、グラス一杯の麦焼酎をぐいぐい飲んでいた。麦焼酎のミニボトルは既に半分 減っているし、鰹のタタキもそれなりに減っている。 俺が話したくもない事を話している最中に。本当に聞いていたのか。睨みかけた 瞬間、鷹野はゴトッとグラスをテーブルに置いて、俺を真っすぐ見つめる。 酒のせいか、いやに鋭く据わって目付きで俺を見る。――本当に謎の多い女だ。 「いいわ、アンタの事も尊重して待っててあげるし、取り持ってあげる。でも、今 後、氷野市長に対して礼を欠く様な態度や言動があれば、その都度、指摘させても らう。その時の私の言葉は、素直に受け入れてちょうだい。いいわね」 「分かってる……」 勢いに負けて、同意してしまう。 ありがたい言葉だが、かなりの圧を感じた。念も押されたと言う事は、俺に選択 肢はないと言う訳だ。 更に追い打ちをかける様に、鷹野の右手が目の前に迫る。 「改めて、私達チームでこの街を守りましょう」 「お、おう……」 差し出された鷹野の右手に応えて握手を交わす。何処か強制的に思えるが、悪い 気はしなかった。そして鷹野の目を直視できなかった。 氷野さんと鷹野と飲みに行くのも、悪くないかもしれないな。 「最近、氷野市長が妙に明るくなってね。胸の痞えが下りたって」 その代わり、俺に胸の痞えが生まれていた。そして鷹野がそれを、取り除こうと してくれている。 五年も共に仕事をしていたのに、気付けなかったのは、きっと俺がまだまだ未熟 なのだろう。それを思い知らされるのは、キツイものがあるが、俺は鷹野と氷野さ んに対して心強いと、これ以上ないぐらい感じていた。 「さっ、話は終わりよ。食べて飲みましょう! 言っとくけど、アンタの奢りだか らね」 「え?」 またタブレットを取り上げられて、鷹野はあれやこれやと、画面をタップしてい た。まだ飲む気なのか。気付けば麦焼酎のミニボトルはほとんどなくなっている。 一通り注文し終え、残りの麦焼酎をグラスに全て注いで、グラスを手の平で転が す。ほとんど溶けてしまったクラッシュアイスがガシャガシャと音を立てていた。 謎の多い女、鷹野。間違いない事は二つ、酒に強く、今はしっかり酔っぱらって いると言う事だ。 それでいて別嬪なのだから、鼻持ちならない。 「鵜飼、貴方は“誰か”を好きになった事がある?」 透明なグラスの透明な焼酎が、解ける氷にフワフワと混ざり合っていく様を見つ めながら、訪ねてきた。 「何だ? 急に……」 「本気で誰かを好きになった事があるなら、異性や同性だとか、性別なんてものだ って、実はどうでもいいものだって分かる筈よ。それが“愛”ってもの。誰もが等 しく誇れて、祝福されるべき感情よ」
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