6.― PORNO DEMON ― 薄暗い四面。視界に広がる通気ダクト内の映像なんて、何て事ないつまらない映 像の筈だが、かなり感動していた。 “インセクト”のカメラから脳に流れ込んで来る大量の情報。バイザーに映し出 されたアクアセンタービル内の通気ダクト。――遂にここまで来たんだ。 “組合”のスパイ連中を従えて、輸入業者を装う鉄志がアクアセンタービルの上 部に潜入していた。海楼商事のオフィスエリア。トイレの換気扇からダクトに侵入 した“インセクト”は俺の遠隔操作を経て、二十八階まで辿り着いている。 サーバールームは二十九階。あと少しだったが、今回はここまでの様だ。ここに 来て上に通ずるルートには全てセンサーが仕掛けられている。網目状のレーザーを “インセクト”が見破っているが、この目の細かさでは“インセクト”でも通り抜 ける事は出来なかった。 ドゥカティの上に寝っ転がったままバイザーを外す。高層ビルに囲われたフォト フレームの様な青空。あと一手、あと一手でアクアセンタービルを攻略できる。 当然、容易い事じゃないし、その後の事もまだ決まっちゃいない。それでも鉄志 との相棒と言う関係も、そこで全ての情報が手に入れば終了だ。 未だに自分の感情に決着に着けられずにいる。現実と理想、或いは願望とか、綯 い交ぜになる想いを整理する暇もない。この歳で青臭い話だよ全く。 「そろそろ鉄志さん戻って来る頃ですね」 何時もは鉄志の車と俺のバイクだけの駐車場も、今日は賑やかだった。“組合” のスパイ、通称“役者”達のフルサイズのバンと車、その監視車のバンの後部ドア から降りてくる一人は、数十分おきに話しかけて来る。 バンの中には複数のモニターと端末が組み込まれていた。俺は部外者なので使わ せてもらう事も入る事もできなかった。なので、ハッキングして状況は把握してい た。 爽やかな短髪、鍛えた逆三角の身体つき。鉄志の話では、このお若いのは普段警 察に潜入しているそうだ。 「そうだね。あのさ……」 鉄志が海楼商事との商談に臨んでから一時間半は経過している。その間、コイツ とは五回ほど簡単な途中経過や雑談を少々話した程度だが、大分警戒心が薄れてき たのを感じ取った。このタイミングなら、もう少し話ができそうだ。 「鉄志さんってさ、実際どんだけ凄いの?」 “組合”と言う組織の人間で知っているのは鉄志だけだった。鉄志以外から情報 を得る、貴重な機会だった。 「“組合”でその名を知らぬ者はいない。ぐらいの凄さですよ」 “組合”にどれだけの実力者がいるのかは分からないが、やはり鉄志は相当なや り手のようだ。 コイツもそうだが、他の“役者”連中も、鉄志の事を慕っていた。分かる気がす る。鉄志からは何時も度量の大きさと自信に満ちた雰囲気から、安心感を得られる から。――つい依存したくなる。 普段、無愛想なくせにとも思うし、実際には壊れかけた脆い心も持ち合わせてい る。それを知らない連中に囲まれて慕われると言うのも――重いだろうな。 「傭兵時代を経て、裏社会の方へ行った辺りから、本来の実力が注目される様にな りました。戦場と違って単独行動だとよく目立ちますからね。たった一夜で五十人 以上のセキュリティを始末してターゲットを仕留めたり、手ぶらで武器は現地調達 なんて状況でも、必ず目的は果たす」 とんでもない話だ。あっさり数字で話していい事じゃないだろって思う。って言 うか、そんな状況に鉄志は独りで駆り出されているのか。 「殺し屋さんって、単独行動するものなの?」 「本来はツーマンセルで行動する者がほとんどですけど、鉄志さんと釣り合う相手 って言うのも中々いないでしょうしね……」 実力もそうだが、人と組まない理由はあの性格だろうな。本人の望むところでは ないにせよ、鉄志は警戒心も強いし、心も閉ざしている。 「じゃあ、俺みたいなハッカーが手を組んでるって、かなりイカれた状況だ」 「少なくとも鉄志さんが他人に対して、こんなにも信頼を寄せてるなんてのは、僕 が知る限りではなかった事ですね。外部の人間だと言うのが惜しいですよ」 どうしたって俺は余所者か。わざわざ言わなくてもいいのに。 この一件が引き金を引くだけの仕事だったら、俺に入り込む余地もなく、あの夜 殺されていたのかもしれない。紙一重から始まった共同戦線。 「俺達ってイイ感じ、なのかな?」 こんな事聞いてどうとなるものじゃないけど、第三者の印象を情報として手に入 れて起きたかった。――俺は鉄志に相応しいかどうか。 「それは任務を成功されれば証明される事ですよ」 「だよね……」 「でも、個人的には良いコンビだと思ってますよ。鉄志さんと対等に接する人間は 限られる。それが成立してる時点で、純粋に凄いって思ってますけどね」 むず痒さに口角が歪みそうになるのを抑えた。自分でも不思議に思う事がある。 人を手玉に取る。“ナバン”で仕込まれた人の心に入り込む術は鉄志には通じな い。一発セックスでもできればイチコロなんだろうけど。 何時も事前にシミュレーションしている。どう振る舞い、何をどう話すか仕込ん でいても、いざ鉄志に会って話すと本心が漏れてしまう。取り繕って誤魔化して結 局はフラットなやり取りになってしまう。 それでも上手くやれているのは、やっぱり良いコンビ。そう思っていいのだろう か。本音だとか、誠意だとか。そんな弱味になりかねない不利な感情で向き合うの も意外に悪くないのかもしれないな。 俺がそんなありふれた感情だけで、身構えずに閉ざす事なく接する事が出来た相 手は、――マリーぐらいだった。 遠くの方から車のエンジン音が聞こえる。鉄志達が帰ってきたようだ。 控え目で品のあるシルバーの車は、この日の為にピカピカに輝いている。バンの 横に車は止められ、後部座席から鉄志が降りてきた。変装は解いてある。 今日も会って早々、胡散臭いとからかってやって、場を和ませた。またからかわ れると思って車で済ませたのだろう。 「なんだ? もう仲良くなったのか?」 「お疲れ様。俺は仕事柄、誰とでも仲良くなれるんだぜ」 「それで、どうなった?」 バンの中から出てきた二人と鉄志のお付きの“役者”達が話すのを横に鉄志は煙 草に火を着ける。 演技に関しては自信はあるが、個人事業の社長なんて役は俺にはできない。鉄志 を見てると、つくづく感じる。――品性ってヤツだ。 やっぱり鉄志は年齢より若い印象を受けるが、貫禄と品がある。この作戦は、俺 独りでは出来なかった事だな。 「残念ながら二十八階止まり。通気ダクトですらセンサーがビッシリ仕掛けられて いる。“インセクト”は、その時まで待機だよ」 「そうか、これで“最終手段”を実行するしかないって訳か……」 「早速、そっちの準備を固めておかないとね」 話を続け様としたが、鉄志の手の平に静止される。“組合”のお仲間と言えども 余計な情報を漏らしたくないらしい。 「ここまで手伝ってもらって感謝する」 「お役に立てて何よりです、では我々はこれで」 鉄志の話では“組合”の援助ではなく、彼等個人の意思で協力してくれていたそ うだ。段取りもサポートも完璧で、紛れもないプロのスキル。それを惜しみなく使 ってくれた。“組合”の組織力には感服する。 そして何よりも、そんな連中が幾つかの恩義の為に鉄志に協力すると言うところ だ。一体、どんな経緯があったのか。 撤収もスマートに“役者”達の車が静かに去って行く。駐車場に残った俺と鉄志 の間を沈黙が包む。 「随分、慕われてるね」 「周りや噂好きの裏社会が、過剰に担ぎ上げるせいだ……。まぁ、今回は助かった けどな。でも、息が詰まる……俺は俺の出来る事をするだけだ」 煙草を携帯灰皿に入れて、溜息交じりに言った。やっぱり、しんどいって思って るんだ。 期待される分、要求されるものも高くなっていく。割に合わない仕事を押し付け られているのだろう。でなきゃ五十人と戦闘する様な状況にならないだろう。 それにしても、鉄志はいい顔しているな。薄っすらとくたびれた雰囲気も堪らな い。 「気疲れしてるアラフォーとかマジで大好物! ほぐしてあげようか?」 「遠慮しとく、代わりに何か吸い取られそうだ……」 勿論、たっぷりと吸い取るつもりだ。でもそれ以上に満たしてあげられるのにな と、本気で話したくなるけど、胸に留めておく。 まだその時じゃないって、何となく分かる。――鉄志に本心を話すのは。 「さて、アクアセンタービル。二人でどう攻め込もうか、通路はかなり広いが、撃 ち合いとなるとカバーが難しい。下手にオフィスに入れば行き止まりで身動きが取 れなく可能性がある。あとエレベーターの鍵だ、あれをどうするか」 「エレベーターの鍵、上手くいけば明後日には手に入れられるよ」 散々やって来た“餌撒き”も、次でようやく実を結ぶ事だろう。不効率な手段だ ったけど、報われる様に集中しないと。 鍵を手に入れてから鉄志に話したかったが、今の内に話しておいてスケジューリ ングした方がいい。一日の中で出来る事は限られる。無駄にはしたくない。隙間な く埋め尽くす。 「どうやって?」 「上手くいったら教えるよ……。絶対しくじらない、約束する」 煙草に火を着けながら、バイクのサイドバックへ向かう。 「それと、事前にマルウェアを仕掛けられたのと“インセクト”を忍ばせる事が出 来た分。強行突入した際の成功率はかなり上がってる。一流の殺し屋と初心者のツ ーマンセルでもね」 直接乗り込もうなんて言った、鉄志の滅茶苦茶なアイディアだけど、実際そうな ったなら。その選択肢しか残されなかったらと、何時も考えていた。 その手の実力なんて皆無な俺では役に立つどころか、確実に足手纏いだし、最悪 なのはそこで命を落とす事だ。 「初めて鉄志さんから直接突撃するって聞いた時は不可能だって思ってたけど、可 能にするにはどうすべきかって俺なりに考えていた。決め手に欠ける計画でも、そ の為の仕込みを組み込んでおけば無駄がない。“飛び込み”も“潜入”もこの直接 的な行動における後押しになる様に作戦内容をアップデートしてたんだぜ」 バイクのサイドバックから立体端末を取り出して電源を入れる。 「ところでさ、今更これ返せとか、ないよね?」 「何をしたんだ?」 「OS変えたり、デジタルブレインとペアリング出来る様にしたり、センサーの出 力を上げたりとか、かなり改造した……」 憧れのデバイスだっただけに、一度、弄り始めたら止まらなくなってしまい、ふ とそんな不安が過った時には、理想的な形になってしまっていた。 「心配するな、もうお前の物だ」 その言葉を一先ず信じて、立体端末を車のボンネットの上へ置いて、モニターを 展開させる。モニターに触れて操作するのも楽しいデバイスだが、速さを求めるな ら、デジタルブレインと連動している方が圧倒的だ。 「ご要望の波江野の情報は全て解除したよ」 「流石だな、大量のコード解析もお前にかかれば数日だ」 不慣れな手付きで鉄志が立体端末を操作する。デジタルブレインの操作に干渉さ れて、頭の芯に少し不快感を覚える。――こういう感覚があるのか。 「パスワードを解いただけだよ……」 立体端末を操作する手が止まる。これ言ったら、きっと今みたいな反応を鉄志は するだろうなと思っていたが、予想通りだった。 「どうやって?」 「波江野の資料から、これまでの経歴、性格や人間性を知って推理する。まず波江 野はこの手の事には素人っぽいし、パスワードを作るなら自分に関わりのある情報 から引用するタイプだろし、割り出しはそんなに苦労しなかったよ」 暗号化されたコードを地道に読み解いて数日、数週間もかけてる時間はない。デ ジタルブレインの処理能力を以てしても、事を急ぎたい上に、忙しい今の状況には 適しない。 タイピング等を含むログデータや履歴の類いを漁りつつ、資料を読み耽る数時間 で傾向とヒントを見つけ、一時間ほど推理して入力する。大概、二十四時間の内に 三回のチャンスがあるので、簡単とは言わないが困難と言う程でもない。 「やっぱり、お前は凄いな……」 「そこそこベテランのハッカーなら、みんなやってるテクニックだよ。情報と規則 性、想像力で精度を高めた“ヤマ勘”ってヤツさ」 鉄志はきっと俺の事を、凄いって言ってくれるだろうなと思っていた。畑違いな 人間同士だとこうもお互いのスキルに敬意を払うものなのだろうか。 「これは……とんでもないデータだな。最近のはないが、二年ほど前から数年にか けての、海楼商事の裏事業を立証できそうな情報ばかりだ……」 「俺達よりも警察向けな情報だね。今後、俺が盗み出す情報と合わせれば海楼商事 自体を潰す事も出来るかもね」 海楼商事を潰すかどうかについては、俺達の仕事じゃないけど、放置しておいて いい組織でもない。 俺が盗んだデータ以外のルートからも悪事の証拠が上がれば、流石の大企業でも ただでは済まないだろう。 「その時はこの地域の警察ではなく、国際機構にでも流せば効果あるかもな」 「それよりも……」 煙草を捨てて、立体端末を操作する鉄志の手と取る。ガサガサしててガッシリし てる手に、それとなく自分の指を絡める。あと何秒、この状態キープできるか。 「こっちを見て欲しいんだよ」 デジタルブレインで遠隔操作する。モニターのインチと解像度を上げて画像を表 示する。 「アクアセンタービルの見取り図か」 「正規のルートで手に入れられる範囲のアクアセンタービルの青写真は、建設時の 物だけど、この立体図面は最終更新が去年になっている。改築後の最も精度が高い 見取り図だよ」 鉄志はモニターに集中していて握った手の事も気にしていなかった。逆に俺の方 が堪らなくなって手を放してしまった。 一体どこからこんなデータを手に入れたのか、波江野はもっと情報を掻き集めて 海楼商事を潰そうとしていたのだろう。小銭欲しさの強請のネタにしては、大袈裟 過ぎる程の情報量だった。波江野は本気だったのだろう。 「確かに……。今日歩いた所と同じだ。これなら突入時にエリアを正確に把握でき る。波江野のジジイ、義理はないが無念は晴らしてやるぞ」 無念か。ヤクザは大嫌いだけど、分かる気がする。たった独りであんな大きな組 織と戦おうとする重圧や不安。鉄志と組む前の俺もそうだった。 そして波江野の場合は、荒神会に対する特別な思いもあっただろうし。 「パスワードは“2080preciousA”荒神会設立の年と、おそらく初代 会長の荒井のAからきてるみたいだね」 「preciousって……」 「ええ、素敵じゃん。最初はbrotherでやってみて失敗したんだ。もらった 資料を読んでて思ったけど。荒神会が港区を仕切ってた最初の頃ってのは、海外の 犯罪組織との間にバランスがあったんじゃないかって思う。今の様な無法地帯じゃ なく。でも、海楼商事がそれを壊した。メモリの中に日記もあってね。二人とも荒 んだ家庭環境を抜けて、十代の頃から小規模のギャングを組織して兄弟分だったっ て関係だったみたい。日記にハッキリした事は書いてなかったけど、ピンと来たん だ」 その人とその人の関係なんて、実際のところは分からない。察しても胸にしまい 込むものだ。 ハッカーやHOEな商売をしてると、人の深い所まで垣間見て、それが飯の種に なる。嫌な意味で博識になっていくものさ。 「相棒であり兄弟分、そして……」 「野暮は言うなよ。他人よりちょっと深い絆なだけだろ」 そう、ちょっと絆が深いだけ。その程度のものであって欲しいと願う。 困難に思えるから、そうであって欲しいと願っている。 「そうだな。このメモリはもらうぞ、こいつを頭に叩き込んで、アクアセンタービ ルを制圧する」 立体端末の電源を落とし、メモリを抜き取ってスーツの内ポケットにしまった。 ここから先の段取りは鉄志の専門だ。俺は必ず鍵となる携帯端末を、手に入れな いと。盗難や紛失とされずに密かに手に入れる。――次はしくじらない。 「頼むぜ、相棒さん」 鉄志の肩をポンと叩いた。鉄志は軽い笑みで返して来る。最近、鉄志と会話を続 けていると、前と比べて心を感じ取れる様な気がする。 まだハッキリとはしない霞がかった雰囲気はあるけど、気持ち悪い位にまるで見 えなかった頃とは違う。それがちょっと嬉しかった。 鉄志の携帯端末か唐突にアラーム音が鳴り響いて現実へ引き戻される。鉄志も同 じ様子だが、表情はあからさまに疎ましげだった。 「クソ……今日だったか」 「どうしたの?」 「定期報告だ“組合”の本部に行かないと」 携帯のアラームを切って不機嫌そうにポケットに突っ込む。“組合”本部って言 うのは、あそこの事だろうか。 鉄志に悪いので、極力“組合”の事は調べないでいるが、どうしても頭に入って 来る。拒む術はない。 「例のクソ上官?」 「めんどくさい……。何の意味もない」 ウンザリそうに強めの溜息を吐いて、ボヤいている。面倒を面倒と嫌っていると その内、逃避に繋がる。結果的に、もっと面倒になるのに。 「鉄志って意外とめんどくさがりだよね」 「最近、呼び捨てする様になってきたな」 「あ、ごめん……。特に意識してなかったけど、やっぱり嫌?」 鉄志のむっとした表情と指摘にたじろいでしまう。全然気付かなかった。 目上には下手に出てれば可愛がってもらえると言うセオリーを、そのまま鉄志に も使ってただけだった。最近、と言っていたが、他にも呼び捨てにしていた時があ ったのだろうか。 「別に気にしてない。でも無駄だろ? わざわざ出張って同じ様な事報告して、同 じ様な小言聞かされて。殺気立つのも疲れるんだよ……。お前と何かしてた方がよ っぽど有意義だ」 人間って生き物は、何かと都合の良い情報ばかりで思考を構築する性質がある。 きっと今の俺は、その状態に陥ってしまっている。既に行き過ぎた所まで行って しまった。 鉄志は俺と一緒にいる方が有意義だと、俺と一緒にいると楽しいと。俺も鉄志と 一緒にいる時が、今、この時が楽しいって想ってる。 鼓動が激しく脈打つのは、抑え込んだ本心が込上げて来るからなのか、勘違いに パニックを起こして勝手に盛り上がってるだけなのか。 「なんで、照れるんだよ」 「別に、照れてなんか……。もう行くの?」 咄嗟に出た返答は否定だった。もう少し捻りの利いた事を言えばいいのに。これ じゃ慌ててるってバレバレじゃないか。 それでも、取り繕う間もなく鉄志は車のドアを開けて。車のキーを指した。 「とりあえずな……。蓮夢、夜はどうする?」 “組合”への報告を終えたら、また会ってくれるなんて。マジで夢なんじゃない かって、心が躍っちゃうよ。――でも。 やれやれ、また今夜も鉄志に心を乱されたまま、輝紫桜町の夜に溶け込んでしま うのか。いい加減慣れて来たけど、本当キツイよな、この繰り返し。 「それ聞く? 仕事に決まってんじゃん」 「俺が都合付けてくれと言っても、仕事を選ぶのか?」 「鉄志さん、無理言わないでよ。金が必要だし、今夜も予約客だし……」 俺も大概だけど、鉄志も勝手だな。最近になって飲みに誘ってくれたり、夜はど うするかなんて聞いて来て――俺にセックスワークをさせない様に。止める理由を 作ろうとして。 クソみたいな現実や、違法サイボーグと言う重圧とか、貧乏とか。 そんなもの全部、放棄して現実逃避して鉄志と一緒にいたいよ。そう出来たらな ら、どんなに良いだろうか。きっと、久しく感じる事も、味わってもない様な気分 になれるんだろうな。 「蓮夢。お前……」 「大体、夜に都合付けて会って、俺と何するんだよ? 時間を無駄に使う訳にはい かないよ。鉄志さんには仕込んでもらわないといけない事があるだろ?」 ボンネットに置いた立体端末をしまう。鉄志から小さな溜息が聞こえる。 キーを回して、エンジンがかかった。鬱陶しい爆音が身体に響く。“組合”の呼 び出しに感謝しないとな。 少なくとも今はまだ向き合わなきゃいけない。鉄志と言う甘い誘惑に心を乱され ようとも。俺の抱える現実は、俺だけのものじゃないから。その事だけは絶対に忘 れてはいけない。 ドアを閉めようとする鉄志の手を遮って、屈み込んで顔を覗き込む。精悍な顔立 ちと鋭い眼。その奥に広がる空虚な心。 こんな人は初めてだよ、強くて頼り甲斐があって、依存したくなる。なのに脆く て気掛かりで、傍にいたいと願う。どうしたら、そう出来るのかと虚しい思考の袋 小路に陥って苦しくなって。一体どうしたら正解なのだろうか。そんな事ばかり考 えて心が圧迫される。――本当、キツイなコレ。 「鉄志さん、俺ね……。強くならなきゃってずっと思って生きて来た。強い弱いで 考えるなって言ってくれた時、救われた様な気がしたよ。それでも今は、強がって てでも自分のすべき事に向き合わないとならないんだ。もう少しだけ……」 鉄志は真っ直ぐと俺の眼を見詰めて来る。視線を逸らしたくなるけど、堪えて見 詰め返した。恐くなるんだ、鉄志の眼に映る俺は汚れているじゃないかって。適当 に粋がって跳ねっ返す事は出来ない。――だから恐いんだ。 表情を緩めて小さく頷かれた。そこに心はない、鉄志は俺の意思を汲んで、流さ れてくれただけだ。 爆音のエンジン音が遠ざかっていく頃、今日何本目かも分からない煙草に火を着 ける。 腕を組み、フォトフレームの四角い空に向かって煙を吐き出す。 また夜がやって来る、代り映えのしない夜が。HOEの夜がやって来る。
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