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 モニターに映っていた情報が全て消える。おそらくバイザー側のモニターに全て 移したのだろう。そして新たな窓が展開され、再び膨大なコードが雪崩れ込んで来 ていた。一体どれだけのタスクを同時進行させているのか。 「数列の水辺へ身を浸し、どこまでも深く落ちていく、コードを食い破り、望みの ままに解き放て……」  首筋のチョーカーに付いたクラブのメタルプレートを数回摩りながら、蓮夢は唱 える様に呟き、軽快にキーボードを弾き始める。 「俺のお師匠さんにあたるハッカーが教えてくれた“おまじない”なんだ。不思議 と集中できる」  口調は平坦その物だったが、タイピングの音は力強く忙しなかった。いや、よく よく考えてみたら、こんなに速くて正確なタイピングは見た事ない。デジタルブレ インの凄さに霞んでいたが、蓮夢自身のスキルと集中力も、かなりのハイレベルと 言える。 「パソコンとかネットワークとか、もう何世紀も前からあるのに、未だにCUIに カタカタと打ち込んでる……。指でやろうが、脳内でやろうが昔から変わらないんだ ぜ。プログラム言語と二進法。変わっていくのは速さだけ」 「お前はその中でも、トップクラスだな」 「だとイイんだけどね……。凄いな、予想以上だ。これ見てよ、システムを構築し ているネットワークの三次元図。これがアクアセンタービルのOSってワケだ」  それまで素人には不可解なコードばかりが流れていたモニターが眩い光を放つ。  画面一杯に広大な、まるで宇宙空間の様なビジョンが表示される。アクアセンタ ービルの巨大サーバーを可視化したものなのだろう。  それは広大な空間に、幾つもの立方体が浮遊し、それを青白く光る糸の様な線が 繋ぎ留めていた。 「でも思った通りだ、完全に隔離している訳じゃない。必ず何処かに道がある。糸 みたいに細いヤツが」  モニターに動きはないが、蓮夢のタイピングは相変わらず高速を保っていた。時 折バイザーの中の表示を追う様に左右に視線を移している。こちからは何を見てい るのか分からないだけに、挙動不審な印象を抱く。  モニターに動きがあった。画面がどんどん引いていき、単純な六角形になる。更 に引いていくと、六角形は四つあった。二列二個、一段ずれのハニカム構造になっ ていた。 「アクアセンタービルのサーバーは大きく分けて四つ。総合管理と海楼商事。ビル のシステム全般と、その他テント向けのネットワーク管理。今いるのは此処」  蓮夢がモニターを指差すと同時に、それぞれの六角形の領域がどの役割か表示さ れる。蓮夢が指差しているのは、一番下の六角形。テナント向けネットワーク管理 の領域。――なるほど見えてきた。  今いる領域はアクアセンタービルの中でも一番開けている場所だ。海楼商事とも 関りがない分、罠だとしても入口を作って攻撃を受けてもリスクが少ない。今いる テナントの真上の六角は、海楼商事のサーバーがあるが、総合管理は右隣の一番上 にある。蓮夢が行きたい領域は――右隣下のビル管理領域だ。  この六角は他の三つの六角全てに触れている。ここにアクセスして、システムを 制する事が出来れば、全てのセクションを制圧できる足掛かりになるのだろう。  俺達が手に入れたいとする情報が、必ずしも海楼商事のサーバーにあるとは限ら ない。  アクアセンタービル自体が海楼商事の私物だ。総合管理の領域も調べる必要があ る。 「その総合管理にアクセスできれば、全てを掌握できると言う訳か……。その為に はビル管理のサーバーにマルウェアを仕掛けて、一網打尽に攻撃を仕掛ける。って 事でいいのか?……。すまない、話しかけない方が良いか?」 「いや、構わないよ。むしろ話しかけくれると助かる。集中し過ぎると意識が持っ てかれそうな気分になるから……。今だって海の中を漂ってる様な気分だよ。溶け て水に混ざっていきそうな……。さっきやったコカイン、上物だね」 「一八〇秒経過、“ガーディアン”は?」  腕時計のアラームを消す。蓮夢の見通しは外れ、幸いにも侵入がバレていない状 況らしい。出来る事なら、このまま見つからずに首尾よく事が進めばいいと期待し てしまうが。 「イケ好かない奴だよ、きっと様子見している……。多分“デコイ”と俺を見分け てから仕掛けて来るつもりだ。それまでにビル管理システムへの入り口を見つけな いと」  最前線で作戦行動中の蓮夢は、警戒を緩めずに気を張っていた。俺と蓮夢の距離 は今、数十センチ程度でも実際は前線と司令部ぐらいの距離感なのだろう。  モニターの表示されている四つの六角形が忙しなく拡大縮小を繰り返しては、漂 う無数の立体モデルにチェックが入れている。凄まじい速さで――虱潰しに。  モニターに表示されている別窓で流れるコードも何なのか、少しずつ分かってき た。左端に綺麗に並んだ三つの別窓が“デコイ”達だ。そのコードの入力の速さに 性格が滲み出ていた。  それなりの速さでも打ち直しが多くて雑なのが、蓮夢に突っかかってきたオタク っぽい“デコイ”で、堅実に入力しているのが女の“デコイ”だ。  十代そこらの坊やの“デコイ”はコードを入力していないのか沈黙していた。 「賢い子だね、既にセキュリティがサーチを始めたのに気付いてるみたい……。様 子見して、目立たない様にしている」 「“デコイ”達と連携を取ってみたらどうだ? 情報や進捗を共有し合えば道が開 けるかもしれないぞ」 「悪くないアイディアだけど、これ以上関わると連中も危険だからね」  蓮夢の言葉の後、遂にそれが始まった。モニターから警告アラームが鳴り、オタ クデコイと女デコイの別窓が一瞬で消える。いよいよ“ガーディアン”の攻撃が始 まった様だ。 「始まった、逆探知されてるよ。“デコイ”一人やられて、もう一人はバックくれ たみたい……。三人固まって同じ所ばかりアプローチしてるから先に狙われて一網 打尽になるんだよ。逆探知を妨害して時間を稼ぎつつ、引き続き入り口を探す。出 来るだけ粘るよ」  蓮夢はバイザーを上げ、両手を乱暴に振ってほぐしていた。手掛けていたタスク の量が減ったのだろう、モニターを直視しながら再びタイピング入力を再開する。 「鉄志さん、ごめん。ここのコードの動きを見張ってて……」 「見たって分からないぞ」 「異様に動きが速くなったら教えて、それだけでいい」  一気に緊張感が高まった。腕時計のタイマーを二十分にセットする。おそらくこ の窓に流れているコードが“ガーディアン”その物なのだろう。暗号化されている のか、文字と数字の羅列にしか見えなかった。  それを注視しつつ、蓮夢の動きを見守り、報告する。蓮夢が操作してる四つの窓 は、凄まじい速さでコードが打ち込まれ、その度に“ガーディアン”の速度も増し ていく。目にこそ見えないが、壮絶な攻防戦を繰り広げているのが伝わって来る。  改めて実感した。CrackerImpは、とんでもないハッカーだと。そして 蓮夢は凄い奴だと感動すら覚えていた。 「位置を掴まれた! 敵がここへ来るよ。“エイトアイズ”が、鉄志さんの携帯に 危険を知らせる様にしてある」  また勝手に人の携帯をと、言っている場合でもないし、いい加減慣れて来た。携 帯をポケットから取り出すと、見た事もないアプリが勝手に立ち上がっていた。  蓮夢の偵察用ドローン“エイトアイズ”の上空からの映像と、ステータス画面の 二分割。視界に入る地上の人や車、動くものを手当たり次第スキャンしていた。 「まだやるのか?」 「もう少しやらせて、ここまで来て引き下がれないよ。“ガーディアン”とマルウ ェアの撃ち合い状態だ。一瞬でも気を抜いたら、こっちがやられる……」  ここに来て無謀な意地を張るとも思えない。今は蓮夢を信じて警戒する他なさそ うだ。ホルスターからグロックを取り出し携帯と一緒にデスクへ置いておく。  モニターに目をやる。今はどちらが優勢なのか。蓮夢は微動だにせず、動いてい るのは両手の指と、モニターに映るコードを追う眼球のみだった。  ふとモニターの左端を見ると、生き残りの“デコイ”の窓からコールサインが表 示されていた。何か話したい事でもあるのか。CrackerImpを慕っている 様な若いハッカーだ。 「蓮夢、“デコイ”の坊やから通話要求が来ているぞ」 「迂闊に出ると巻き込む可能性がある、無視して」  この場は蓮夢の方が状況を正しく理解している。俺には畑違い過ぎる戦場だ。だ としても、当初の取り決めを破ってまで呼び掛けて来る坊やの“デコイ”が妙に引 っ掛かった。  前線での戦闘で、正しい判断を下せるのは稀な事だ。これはただの勘に過ぎない が、正しい判断ではないかと――直感が疼いていた。 「CrackerImpの代理だ。どうした?」  蓮夢の指示を無視して、マイクを手に取って、“デコイ”の坊やとの通話回線を 開いた。  あ、と声が漏れる蓮夢には悪いが、直感を優先させてもらった。少なくとも、こ の場に俺がいる意味は、ボディガードだけじゃない。相棒では出来ない事をフォロ ーする相棒としての役割もある。俺達はもう五分五分だろ。 『あ、あの……すみません。通話禁止だったのに。別セクションへのアクセスルー トを見つけました。僕のハッキングプログラムも攻撃を受けて、これ以上は手伝え そうにありません……。離脱します。その前に、どうしてもインプさんに教えたく て……』  思わず二人で顔を見合わした。今までの不穏な空気や、敵が迫って来るであろう プレッシャーが一瞬で吹き飛んだ。  口角が緩んでいる俺の顔を見る蓮夢は、腑に落ちない表情をしているが、概ね受 け入れてる様だ。差し出された手にマイクを渡す。 「ありがとう、君の名前は?」 『BadAssDolphin(バッタスドルフィン)』 「恩に着るよ、イルカちゃん。また会おうぜ」 『はい!』  BadAssDolphinの回線が切れる。残されたコードを蓮夢がトレース して、海楼商事の領域への侵入準備に入る。 「名前の割に良い子じゃないか。ハッカー界隈も賑やかだな。お前が“ガーディア ン”を引き付けていたお陰だ」  蓮夢の口元が緩む。褒めると何時もぎこちない雰囲気を見せる。  “ガーディアン”に対する蓮夢の対抗意識が強過ぎて、執着に思える事があった が、幸いにも良い方向に向いた様だ。  上々だな、チームで戦っている。久しく忘れていた――良かった過去が蘇る。 「無駄にはしない」  デスクトップPCのキーボードをどかして、何時ものノートPCを開く。タイピ ングの速さは変わらないがタイプ音が軽い。 「しばらく話も出来ないし、身体も動かせない。万一の時は頼むよ……」 「何をする気だ?」 「“ガーディアン”の足止めを補助端末のAIに任せて、俺はこっちに集中する」  ケーブルを接続している左腕を摩り、手首を握る。深呼吸を三回して蓮夢は瞼を 下ろした。  今までの蓮夢を見てきて、今、蓮夢が何をしようとしているのかは、何となくだ が分かった。五感も身体の動きも閉ざして全てを脳の機能へ――純然たる集中。 「じき二十分になるぞ」 「侵入したら、出来るだけ多くのマルウェアを植え付ける……」  モニターを一瞬で埋め尽くす無数の黒窓。白文字で入力されるコードはもはや目 では追えない程の、異常な速さで流れていく。表示された読み込みバーも、一パー セントから一〇〇パーセントまで一瞬で完了して、すぐさま次のアップロードを始 める。その数のおびただしさに圧倒された。  これを全て、蓮夢という一人の人間がやっている。或いは蓮夢と二機のAIが。  今、何が起きているのかを具体的に図り知る事は出来ないが、瞳を閉じたまま苦 悶の表情で呼吸を乱している蓮夢の姿を見る限り――どこかで止めないと危険な雰 囲気がした。  蓮夢のノートPCが突如、再起動された。“ガーディアン”に押し負けた可能性 がある。悪夢にうなされるかの様に呻く蓮夢。既に“ガーディアン”と戦っている のだろう。  デスクトップPCからパチッ、パンと何かが弾ける様な音がしてイルミネーショ ンの光が消え、モニターも消える。これだけのスペックを誇っても、人間の脳にと デジタルブレインの負荷には耐えられなかったと言うのか。  それでも蓮夢は続けていた。数列の水辺から深海よりも深い、その底で繰り広げ られる壮烈な――殺し合い。  しかし、膠着状態である事は明白だった。時間があるのなら、それを見守ってや れるが、敵が迫る中ではもう潮時だ。そう思った傍から携帯からの警報音が鳴る。  このビルの入り口に乱暴に止められた三台の黒いバン。そして今、正に敵が入り 込むところを“エイトアイズ”が捉えていた。 「蓮夢! もう終わりだ! 敵が来たぞ!」  聞こえていないのか、蓮夢は動かなかった。――意識が持って行かれる。  どうやって止める。揺すって見ても反応がない。かと言って、殴ってどうにかな るとも思えない。  腕のプラグを抜けば元に戻るだろうか。それとも、行ったきりになってしまうと か。怖ろしい考えが頭を過るが、もう悩む時間もない。これが駄目なら殴ろう。  蓮夢の左腕の刺さった三本のコネクターを一思いに引き抜いた。左腕からバチバ チと火花が散り、全身に電気が走ったかの様に身体が反り返り、そのまま脱力して うなだれる。  息を荒げながら、右手で左側の頭を押さえてる。左腕はビクビクと軽く痙攣を起 こしていた。その状態のまま、こちらを見上げて来る。 「鉄志……」 「すまない、だが緊急だ。敵がもうここまで来てるぞ」  数秒の間、蓮夢は少しづつ言葉の意味を噛み締め理解していく。それが興味深い 反応に思えた。本当に今まで別の世界にいて、一瞬で戻ってきた様な、不思議な表 情だ。  やっと状況を理解してくれたのか、蓮夢は立ち上がり、私物をリュックに乱暴に 詰め込んでジャケットを着込む。  部屋を出て非常口へ向かう。来た道とは逆方向だ。携帯から“エイトアイズ”の 情報を引き出す。やはり裏口を含めて。出口となる場所にも車が止まっていた。当 初の予定通り、戦闘は避けられそうにない。  蓮夢が非常口のドアをピッキングでこじ開けようとしたが、先にドアが開き蓮夢 はドアに押されて尻餅をついてしまう。――敵と接触した。  後ろからも追い付かれてしまい囲まれる。前も後ろも三人。計六人。  手持ちの武器は“偽銃”の様だ。拳銃はP226、フルオートの方はMP5K。  拳銃を一旦ホルスターに収めたのは正解だったな。この状況で銃を握っているの を見られたら、すぐ撃ち合いになっていたかもしれない。  目付きで分かる。こいつ等、場数慣れしたプロだ。程よい緊張感のみ、冷静に標 的である俺達二人に集中している。  勿論、こちらも絵図は出来上がっている。この状態からの反撃方法、敵の立ち位 置、角度、想定される射角。既に織り込み済みである。そう、いずれにしても十二 発でケリが着く。俺のやる事は何時もと変わらない――二発で仕留める。  一瞬の隙を突いて実行できるが、問題は蓮夢のカバーだ。それを考えると一瞬で は済まない。さて、どうするか。 「立てっ!」  さっきのダメージが残っているのだろうか。蓮夢はその場にへたり込んでうなだ れている。敵の怒号にも動じない。  いや、蓮夢にも何か考えがあるらしい。相手の角度からは見えないが、横にいる 俺には見えた。――その眼は既に何かにアクセスしている。  相棒を気遣う体で、蓮夢に手を差し出そうとすると、すかさず銃口を突き付けて 来る。 「大人しくするよ……。ほら、立て」  蓮夢に手を貸してやり、少し顔を近づける。何か考えがあるんだろ、蓮夢は横目 に俺を見ている。  そう、これは全て想定内の事だ。危機的状況でも何でもない。俺と蓮夢は、これ から予定通りの行動に入る。作戦は継続中だ。そうだろ相棒。  互いの顔が最も近づいた瞬間に蓮夢は囁いた。 「灯りを全て落としたら、対処できる?」

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