あ。そう思った時には、車は歩道を塞ぎ、更もう一台の車が後ろからも迫り、後 方も塞がれてしまった。 尾行されていたから、この状況に驚く理由はないが、しまった、と後悔はしてい た。 早速、車から厳つい連中が降りて来る。見るからにヤクザと言う雰囲気だが、妙 に整った身なりをしている。林組の連中とは少し違う。察するに――荒神会。 車から降りて来た連中は八人。壁際まで追い詰めれる。鼓動が浅く、速くなって いく。 息苦しい、どうする。僅か数秒の沈黙がとてつもなく、息苦しい。 「あのさ……。乱交プレイがお望みなら、同時に四人までだよ、二回に分けてくれ ないと……」 心とは裏腹の軽口な虚勢が漏れる。HOEの性とでも言うべきか、不安を感じる 時ほど、こうなるんだ。見栄張って粋がって、色目使って。ホント、自分が嫌にな るな。 この数日、荒神会の動きが分からなかったが、やはり方々で動きはしていたらし い。輝紫桜町の監視アプリ“ヘルアイズ”にも引っ掛かった気配もない辺りは流石 と言うべきか。林組よりも数枚上手だ。 何処からどうやって、情報が漏れたのか。一体――どこまで知っているのか。 「興味ないな。輝紫桜町のポルノデーモン、いや、クラッカーインプ」 ワインレッドのスーツを着込んだ奴が言った。完全にバレてる。一人の人間の口 から、この二つの名を聞いて、こんなに血の気が引くのは初めてだった。 どうする。この状況をどう切り抜けるのかと、どうしてバレたのか。二つの問題 に思考が散らばる。こればかりは脳内のAIでもどうにもならない。どうする。 「車の中で話そうじゃないか」 両腕を掴まれると反射的に抵抗してしまうが、ここまで来てしまってはどうしよ うもない。何処へ連れていかれるのか。 捕捉してある“首無し”には、この車を追尾させよう。警察の木偶の坊でも、生 身の人間相手なら充分戦えるだろう。とは言え、車には追い付けないから付いてこ させる。“首無し”は保険だ。 そう言えば、あのスーツが似合うストーカーはコイツ等の仲間なのだろうか。何 処かで落ち合うのか。 そんな事を考えていた矢先、腹部に強烈な衝撃が走る。痛みよりも先に、全身の 酸素が抜け出した様に酸欠に襲われ、呼吸が止まった。空気を吸おうとしても、激 痛でままならない。 何も出来ないまま、車の後部座席に詰め込まれた。真ん中へ押し込まれ、左右に 一人づつ乗り込み挟まれてしまう。車はまだ停まったままだ。 咽返りながら、少しづつ、呼吸を整える。やっと収まりかけてた吐き気も戻って きたが、もう胃袋に戻す物は何もなかった。口元に溢れた唾液を拭う。 「悪いな、無駄口を叩きそうな感じだったのでな……」 右隣に座る、俺を殴ったワインレッドのスーツが冷徹な瞳で言った。確かに、無 駄口でも会話でも、ありったけ喋ってやろうと思っていた。 HOEになって、最初に覚えた事は――会話する事だ。 客の為なんかじゃない、自分の不安を拭い去るためだった。少しでも相手の事が 分かれば、そして自分の事を少し知ってもらえれば、僅ばかりでも情が生まれる事 を知っている。それに付け込むんだ。 これは意外にも、客とHOEの関係以外の人間関係でも使えた。ヤバい相手ほど 話をするに限る。 このワインレッドのスーツには出鼻を挫かれたが、まだチャンスはある筈だ。下 手に逆鱗に触れなければ、話が通じるタイプだと、経験で分かる。 「お前が中央区のホテルで林組と会っていたのは分かっている。俺達のデータを持 っていたのもな」 「何故、俺がCrackerImpだと分かった?」 聞いたところで答えるとも思えないが、間を持たせたかった。何処から情報が漏 れたのか。 完璧ではないにせよ、ハッカーの活動は慎重にしていたつもりだった。 でも思ってみれば、一介のサイバーディテクティブにだって、活動エリアを絞り 込まれていたのを考えると、穴は幾つか空いているのかもしれない。個人活動のハ ッカーなど、今時、大して目立つものでもないと、高を括っていたのが、仇になっ たらしい。 CrackerImpと名乗ってハッカーをやって約七年、それなりに穴は開い ているのかも知れない。 林組がやろうとしてた事は、荒神会にとって不利益なものなる。流石にやられっ ぱなしと言う訳にはいかないか。不利益の元凶である、俺を探し出すのに、躍起に なるのは当然だ。 「上には上がいる。歓楽街の男娼ごときが、身の丈を越えてると思わないか? と は言え、お前は林組に雇われて仕事をしただけだ、データを返してもらおうか。そ の腕も買ってやろうじゃないか。荒神会のクラッカーになるなら、勘弁してやって もいいんだぞ」 えらく待遇が良いなと、拍子抜けしてしまう。それとも合理的と言うべきか。そ れどころか、荒神会の懐に入れるのなら、黒幕に近づける機会が生まれるかもしれ ない。答えを手に入れる機会。 悪くない。そう、思いたいところだが、そうやって浅はかな考えと、大きな力に 寄りかかって、委ねてしまった結果はどうだ。この機械仕掛けの脳みそだろ。 こんな連中に、俺が非合法なサイボーグである事までバレたら、それこそ一巻の 終わりと言うものだ。一生囚われの身となる。 もう、複雑なのは御免だ。馬鹿みたいだけど――俺の心は決めてある。 四体の“首無し”は大分近くまで来ている。あともう少しで、ひと一悶着起こせ る。この場を切り抜ける最後のチャンスはそこだけだ。 先ずは言われた通り、肌身離さず持っていたメモリーを渡そう。このデータの内 容の一部が荒神会に戻ると、再び人身売買の密輸が再開されてしまう事は間違いな いだろう。更には近年なかった積み荷の入庫だけでなく、出庫に関するデータや手 順の類いや暗号も含まれている。 攫われた人々が日本の外に出たら、追跡できない可能性が高かった。それだけは 避けなくてならない。このデータは破棄する。 どうせ罠を解除しないままPCに接続すれば、メモリーに仕掛けたプロテクトで PCごと破壊できる。黙ってメモリー渡してやればいい。 少し、考えて様な素振りをしてみてから、ズボンからメモリーを取り出し、ワイ ンレッドのスーツに手渡した。必ずこの場で確認する筈だ。 助手席のヤクザがタブレット端末をワインレッドのスーツに渡した。無線接続で メモリーにアクセスするみたいだが、関係なく仕掛けは作動する。 しかし、その仕掛けが一向に作動しなかった。メモリーに視線を移すが、間違い なくプロテクトはかけてある。こんな時にトラブルかよ。 不味い、データがコピーされてしまう。急いでタブレットの“糸”を掴み、ハッ キングを試みる。タブレットのシステムごと破壊するしかない。 “首無し”も操作しないとならなのに、本当に忙しない。 それにしても、このタブレット。異常にガードが堅い。侵入する為の抜け道も裏 口も見つけてあるが、悉くアクセスを弾かれてしまう。 なにか特殊なソフトでも入っているのだろうか。まるで、先回りされて塞がれて しまっている様だった。 「確かに返してもらったぞ。聞き分けが良いじゃないか。良い事だ」 メモリーの中のデータを滞りなく確認出来て、ご満悦なワインレッドのスーツ。 一体何なんだ。俺がハッキングをしくじるなんて、今まで一度だってなかったの に。マジで苛付く。 タブレットの中にコピーされたデータは、送信されたのだろうか。それを今の状 況では確認できないが、操っている“首無し”をけしかけたタイミングでメモリー と一緒に奪えればいいが。 災難尽くしの夜だ。かなりヤバい状況だが、今は集中して“首無し”を有利な位 置へ配置しないと。 コイツ等の車は歓楽エリアの方にはいかないだろう。輝紫桜町は深夜でも人で溢 れている。この居住エリアを大きく迂回して、輝紫桜町の外へ出ると思って間違い ない。 その方角へ、“首無し”四体を配置させておく。車を静止させて、ドアを引き剥 がせば逃げるチャンスが得られる。“インセクト”からの映像から意識を離すな。 「おい、どうなんだ?」 ワインレッドのスーツが何かを言っていたらしいが、今はそれどころじゃない。 「お生憎様、そこまで落ちぶれちゃいないよ……。下請けのポン引きなんかに、従 う程、俺は安くないんだよ。欲しいなら、買えよ……」 重苦しい沈黙が続く。でも、虚勢を張り通した。出来る事なら今、酒かドラッグ を煽りたかった。 ワインレッドのスーツは不敵に笑うだけだった。本当にコイツはヤクザなのだろ うかと疑いたくなる程、冷静で辛抱強く、器のデカさを見せつけて来る。 向こうの車がバックで切り返して走り出した。先頭の車を追う様に、こっちの車 も動き出す。 軽口を叩く間もなかったな、林組の連中と違って、荒神会の人間には隙がなかっ た。清々しいまでにスマートに事を進めている。確かに、歓楽街のHOEが相手す るには、荷が重いのかも知れない。 車は少しづつ加速していく。その先を曲がった辺りに“首無し”達が待機してい る。粉々になってもいいから車を止めさせないと。 ワインレッドのスーツが持っている、タブレットとメモリーに視線が行く。車が 止まって、連中が“首無し”に反応している時に二つとも奪い取る。左の奴はかな りゴツいけど、後先考えずに暴れまくってやる。 車が曲がり角に差し掛かったその時、戦慄が脳内を駆けてノイズになった。 曲がり角から、先の道が見えると同時に、視界に入り込んできた、スーツのスト ーカーが拳銃を構えていた。その銃口は既に火を噴いていた。――噓だろ。 助手席に身体を押し付けられる。その後も右左に振り回された。何が起きなんて 考える暇もないが、おそらく前の車も、この車も被弾した。 意識が飛んでいたのか、次の瞬間には車は止まっていた。周りの怒鳴り声がうる さい。あちこち打ち付けたのか、ズキズキ痛むが、それ以上に頭痛が酷かった。 それでも、思考を止める事は出来ない。どうする、まず何から始めたらいい。焦 るな、よく考えろ。 吹っ飛んだタスクを復旧させた。視界を単色オレンジに変える。先ず、やるべき 事は“首無し”達をここへ急行させて、俺以外を攻撃対象に設定する。一、二分で に来れる距離にいる。“首無し”はこれでお役御免、俺がやる事はもうない。 待機させてた“インセクト”の操作して、車の外の視界を取り入れる。 身体が左側に倒れる。左側にいたゴツいのに寄り掛かっていたらしい。ゴツいの が車から降りた様だ。右側のワインレッドのスーツは、タブレットとメモリーは何 処だ。 右側のドアは既に開いていた。拳銃を手にしたワインレッドのスーツを見上げて いると、乾いた銃声が間髪入れず二発。ワインレッドのスーツの頭を、スパンと撃 ち抜いた。――なんて呆気ない。 銃声が何重にも重なり鳴り響いていた。早いところタブレットとメモリーを見つ けないと、姿勢を低くしたまま車の下を探っていく。 これ以上、パニックにならない様に必死で堪えながら、タブレットとメモリーを 見つけた。後はここから逃げるだけだ。 “インセクト”が車の外の様子を見下ろしている。八人いたヤクザが既に五人や られて、アスファルトに倒れ込んでいる。残った三人がどうにか車を盾に応戦して いる。どうやって逃げる。 右側は車道、そこから出たらあのストーカーに撃たれる。左側はゴツいのが身を 隠して応戦している。 出るなら左側、歩道から建物の裏路地に入り込んで逃げるしかない。 その為には、あのゴツいのを何とかしないと、そう思ったところで、やっと助っ 人の“首無し”が駆け付けてくれた。警察のウザったいオートマタにここまであり がたさを感じる事になるとは。“首無し”はゴツいのを掴み上げ、建物の壁に叩き 付けた。これで外に出れる。 “インセクト”からの映像を見ながら外に出るタイミングを伺うが。あのストー カー、とんでもない化物だ。 “首無し”が放ったワイヤースタンガンを死体を盾にかわして、“首無し”に掴 みかかり、腕の関節部からボディ内部に向かって弾丸を撃ち込んだ。あれじゃ動力 部や可動システムも、無傷じゃいられない。一台シグナルが消失した。 その間にも、その“首無し”で身を隠し、残りのヤクザ共の攻撃を避け、並行し ながら一人、また一人と二発で確実に仕留めていった。全くと言っていい程、無駄 がなく、その身のこなしは、俺の様な素人でも分かる程の百戦錬磨の強者。 常人離れした集中力と空間把握能力の持ち主だ。 あいつの視界に、一瞬でも入ったら撃たれる。車から出て裏路地に入り込むまで 約五メートル。気付けば“首無し”も残り二体だけだった。 メモリーをズボンのポケットに突っ込んで、タブレットを手に、姿勢を下げたま ま、慎重に裏路地の方へ進むと、ブレーキランプを貫いた弾丸が、手に持っていた タブレットまで撃ち抜いた。タブレットが手を離れ、建物の壁にぶつかって粉々に なる。 気付くと銃声はその一発だけ。辺りはすっかり静まり返っていた。距離にして十 メートル少々、ストーカーは拳銃を両手で構え、鋭い眼光で俺を見据えていた。 一体、どれだけの時間が経ったのか、おそらく十分も満たない間に、ヤクザ八人 とオートマタ四体を拳銃一つで倒した。当然だが、俺が勝てる訳がないし、逃げ切 る自身も失いかけていた。獣に襲われる獲物の気分に陥っていた。 でも、ここで観念する訳には行かないよ、俺にはまだ、やらなきゃならない事が ある。だからこそ、最後まで抗う。 ストーカーの頭上を飛ぶ“インセクト”をストーカーの拳銃目掛けて、急降下さ せた。針金の様な細い六本脚でも一度絡み付いたら、簡単には剥がせない。 流石にストーカーも、この不意打ちには驚いていた。これで完全にネタ切れだ。 裏路地に駆け込んで一心不乱に走った。この路地の行き着く先なんて、分かりは しないが、輝紫桜町の裏路地は何処も迷路だ。撒いてみせる。 狭い路地に身体を打ち付けながらも、走り続けた。多分、今年一番走っているか もしれない。右に左に、マンションの裏口の安い鍵を蹴り壊してマンションを突き 抜けて、また狭い裏路地に入り込んで。いよいよ息が切れてきた。 この路地は無計画な増築と改築の隙間に生じた、歪な広場の様になっていた。早 歩きに、複雑そうな裏路地を探し、暗く狭そうな路地へ向かおうとし、そこへ身体 を向けた瞬間、甲高い金属音と衝撃を受けて、その場へ倒れ込んでしまった。全身 に響き渡る振動に悶える。――撃たれた。 肩だ、撃たれたのは左肩だ。左の骨は上腕のコネクターデバイスの情報伝達を高 める為に、全てチタン製の外骨格に替えてある。拳銃の弾丸では、砕ける様なダメ ージは与えられないが、受け流せない衝撃は痛みとして、モロに響き渡った。 口から漏れ出すうめき声と荒い呼吸の中、姿勢をうつ伏せて、膝をつき起き上が ると、コツッと硬い物が後頭部に当たる。――もう、終いだ。 「悪あがきもここまでだ、CrackerImp……」 息一つ乱さない冷淡な声と、熱を帯びた銃口から伝わってくる絶望。 まさか、そんな筈はないだろ、間違ってるよ。こんな、こんなクソみたいな夜に 散々振り回された挙句、俺は終わるのか。 また、頭を撃ち抜かれて、あっさり終わるのか。嫌だ、こんな終わり方、何も分 からないまま、視界を一瞬で真っ黒に染め上げたあの感覚。 絶対に、絶対に二度と御免だ。もう、二度と嫌だ。 何とかしないと、考えろ、考えるんだ。まだ何か、何か出来る筈なんだ。ここで 終わる訳にはいかない。 俺が今、抱えてるものは、俺だけのものじゃないんだ。ここで、こんな事で終わ る事は許されないんだぞ。 死にたくない。だから考えろ、考えるんだ。――死にたくない。
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