16.― DOUBLE KILLER ― 中学の頃、好きだったロックバンドのバラード曲が聞こえてくる。朦朧とした意 識の中で、涼太と夢中になっていた日々を思い出していた。 一方で、これがプライベート用の携帯端末の着信音だと気付いてハッとする。チ カチカとした眩暈と脱力感を引きずったまま、何とか携帯を手にしてトイレの扉に 崩れて凭れる。 「秋澄……」 着信二回目だった。秋澄の名を言う喉は胃液で爛れて掠れていた。久し振りにや られたな。 緊張と集中力が途切れた途端に吹き出してくる強烈な吐き気と疲労感。短時間に これだけ人を殺したのは何年振りだろうか。 戦場にいた頃からそうだった。胃の中が空っぽになっても吐き気が収まらず、血 の気や酸素まで身体から抜けて寒気に身を包まれていく。 それを見て、ほとんどの連中は情けない、弱い奴いだと笑っていた。自分でもそ う思う。年齢的なものもあるが、壊れた心にはかなりキツかった。 『鉄志、無事なのか? アクアセンタービルで何をしたんだ? 大変な事に……』 「そんな事より、確認したのか?」 細かい話をする余裕もない。蓮夢のノートパソコンを拝借して、手に入れた海楼 商事の情報を秋澄へ渡した。 その確認と生存報告だけ出来ればいい。 『あぁでも、これは本来、上官に渡すべき物だろ。私情を挟み過ぎでは?』 「日本の“組合”にも把握しておいて欲しい。分かるだろ? 念の為だ。今日中に そっちに行く……。また連絡する」 『鉄志、おい、待てっ!』 知った事か、何が上官だ。同じ“組合”と言う組織でも日本の立場は弱い。保険 はかけておく必要がある。 トイレの水を流し、便器を支えに立ち上がる。足に穴でも空いてるかの様に、上 から下へすうと、熱が引いて抜けていく感覚。本当に不快だ。 こんな事してる場合じゃない。蓮夢の方が重症なんだ。 廊下に出て寝室の前に行く。物音はない。まだ気を失ったままか。先にリビング へ行き、飲みかけのジンを取りいった。 瓶の中に半分ほど残っていたジンを気の済むまで一気飲みした。空っぽの胃袋に アルコールが存分に吸収されるのを噛み締める。 瓶を手にしたまま、寝室へ入る。やはり蓮夢は眠ったままだった。 アクアセンタービルを脱出して適当な車を盗んで、何とか家に辿り着いた。鵜飼 達は無事だろうか。あのサイキックがいるなら大丈夫か。 あの黒狐、かなり若い女だったが、自分の能力を合理的に運用できる様に工夫し てあった。しかも相当場数を踏んでいる戦い振りを見せていた。 まさに“戦うサイキック”と言うに相応しい。――ヤバい人間が多過ぎる。 蓮夢は撃たれていた。そんな素振りも見せずに、ひたすらじっと動かずにタスク に集中していたとは。 蓮夢の身体から、めり込んだ弾丸を抉り取り、傷口から流れる血を見た瞬間に緊 張の糸が切れてしまい、あのザマだ。一体何が引き金になるのか、分かった物じゃ ない。 仰向けの姿勢で氷嚢を三つ、額と首回りを冷やしている。人の皮膚とは思えない ぐらいの熱を発していた。 パソコンもサーバーも、熱で壊れる。その理屈を蓮夢に使って良いものかどうか 分からなかったが、それで次第に呼吸が落ち着いてきていた。部分麻酔をしつつ弾 丸の摘出は済ませている。 背中の方がまだ手付かずだった。何ヵ所か縫合した方がよさそうだ。特に鵜飼か ら受けた一撃は大きい。 ジンをもう一口飲んで、鉗子、縫合糸と曲針を用意して、椅子に腰下す。眠って いる蓮夢を見た。 それにしても、怪我をした男の身体に処置を施すなんて事は過去に何度もしてき た事なのに、何故か蓮夢に関しては、変に意識してしまう。 青アザだらけではあるが、色白だし色々ケアしているのだろう、綺麗な身体をし ていた。数多くの人を魅了するのも分かる気がした。 蓮夢を、そう言う目で見ているのか。それとも、そう言う目で見ようとしている のか。俺には分からない。 自分の中で何かが変わってきているのは確かだ。蓮夢の影響による自然の成り行 きなのか。自分を正当化する為の口実を探しているか。それすらも分からない、分 からない振りをしてるだけなのかもしれない。 今、この手が触れようとしてるのは、処置の為ではなく、触れたいと言う欲求な のだろうか。いや、そんな筈は。 「大丈夫? テツ……」 「れ、蓮夢」 額から氷嚢を落とし、うっすらと目を開いていた。慌てた素振りを見せない様に 触れかけた手をそれとなく引っ込めた。 「酷い顔してるね、ゾンビになる数秒前って感じ」 「お前だって似た様なもんだろ?」 自分の方が酷い事になっているのに、どうして俺の心配から始まるんだよ。薄暗 い間接照明越しにも土気色の顔色は誤魔化せなかった。 「気にするな大丈夫だから……。極限状態が長引くと、反動が大きいんだ。笑える だろ? 何十年もそう言う世界にいるのに、未だに慣れない……」 大丈夫だの一言で済ませたかったのに、ボロボロと本音が漏れてしまう。アクシ ョン映画のヒーローの様に、クールに成れそうになかった。 蓮夢の左手が頬に伸びる。何時も油断してると、不意に触れてくる。好きに触れ ればいい。 「あんな状況で何も感じない方がおかしいよ。テツの心は死んじゃいない。そうだ ろ? テツや鵜飼が命懸けで戦ってくれたから、俺はハッキングできた。感謝して もし切れないよ」 蓮夢は俺が最も欲しい言葉を正確に言ってくれる。俺に限らず人の心を見抜ける 奴だ。 本心でも甘い毒でも構わない、今はそれが何よりも心地好くて、胸のムカつきが 和らいでいく。 「ここ、テツのセーフハウス?」 「人を入れるのは初めてだよ。調子は?」 「外も中もボロボロ……」 アクアセンタービルでハッキングしていた蓮夢は、目や鼻から出血していた。漫 画喫茶でも同じ事が起きた。 機械化された脳が、生身にまで与える程の負荷。想像を超えるデータ処理がもた らす熱量。神経が焼けるなんてゾッとする事を話していたが。 「外側は何とかしてやれるよ。仰向けに」 腕をかけ、半身を起こす手伝いをしながらうつ伏せに寝かせ、スタンドライトを 点ける。正面は鬱血やアザ、背中はみみず腫れや裂傷が多かった。 吊るされたまま、正面では殴られ、後ろからは、ささくれた棒状の物で殴られて いたのだろう。 深く避けている箇所は縫合しなくては。 腰回りの傷を確認する為、少しボトムスを下げ様とすると、条件反射の様にビク リと反応する。ちょっと無神経だったか。 「最低だよね……抵抗もせず黙って犯されて、ただ待ってるだけなんてさ……。テ ツの相棒に相応しくないよね、俺なんて……」 薄ら笑いと自虐的な言葉を重ねても、目は今にも泣きそうになっていた。蓮夢を 見ていると、悔しくて堪らなくなる。何故、そんな事を言うんだ蓮夢。 あの相撲取りみたい殺し屋も鵜飼にも腹が立つ。犯した奴等にも。 だがそれ以上に、蓮夢の事情を知っていながら守れなかった自分に腹が立つ。 「蓮夢、お前は何一つ悪くないし、汚らわしいなんて俺は思わない。お前がいたか ら、ここまでやれたんだ。失敗した任務をその場で巻き返せる奴なんて、そうそう いない……」 現実を知らない素人な考えかもしれない無謀な行為だった。片道切符の装備で勢 い任せで。 敵である鵜飼を丸め込み、ヤツの仲間のサイキックが加勢してくれた。立て続け に起きた奇跡。いや、蓮夢が奇跡を呼び寄せたのかもしれない。 「不甲斐ないのは俺だ……。俺の方こそ、お前の相棒として釣り合ってない」 もっと早ければと。この言葉をずっと引きずって行く事になりそうだった。死ん でいった戦友や幼馴染み達と共に、また一つ後悔が増えた。 バイアルに注射針を刺して麻酔薬を抜き出す。 「悪いのは、お前に酷い事をした奴等だ。もっと周りを恨めよ、もっと周りのせい にしろ。自分独りで抱え込まないでくれ」 「テツだって、独りで抱え込むくせに……」 「俺は……」 何も言い返せない。耳が痛かった。結局、俺は素直じゃない性分で。何時も意地 を張って。歩み寄れたとしてもどこか遠回りばかりで。 気付いた時には引き返せないとこまで行ってて、やはり後悔するのだ。今回の件 はどうだろうか。俺は何か間違えてしまったのだろうか。何か出来たんじゃないか と、頭の中で見つかりもしない答えを探っていた。 しかし、今は気持ちを切り替えて、蓮夢の怪我を処置しなくては。背中の裂傷を 改めて確認する。縫合すべき箇所は鵜飼が貫いた右肩と、大きく避けた左の広背筋 の辺りか。 「立派なタトゥーがザックリやられてるな。シンジュツバメが台無しだ」 「別にいいよ、やりたくてやったタトゥーじゃないし……」 “ナバン”の所有物である事を示す蛾のタトゥーも、鵜飼の放った刃の一撃で羽 根の付け根部分が大きく裂けていた。 蓮夢の愛着も執着もなさそうな物言いを聞いて、何処かほっとしていた。 「麻酔針、入れるぞ」 「テツって、こう言う事も得意なんだ」 「昔、アメリカの軍医や海兵隊の衛生兵に手解きを受けてね。筋が良いって褒めら れた事もある。それでも応急措置に過ぎないぞ」 消毒、医療用手袋をはめて、麻酔を打っていく。針が刺さる度に緊張が皮膚を通 して伝わってくる。枕を握る手にも力が入っていた。麻酔が効いて来るまでに縫合 の準備に入る。 傭兵と正規軍は基本的に相性が良くないのが常ではあるが、俺達が日本人で、日 本文化に興味があった連中だったのがよかった。数ヶ月の共同任務。惜しみなく技 術を教え与えてくれた。 「分かってる。帰って暗号化されたデータを解析してから、龍岡先生のところに行 くさ……」 「龍岡?」 「フランケンシュタイン博士だよ。エンジニアとも言う。見てもらわないと……」 蓮夢にデジタルブレインをインプラントしたエンジニアか。龍岡、時間があれば 調べてみたいものだ。脳の機械化を提唱して学会を追い出された天才。あるいはマ ッドサイエンティスト。 今、蓮夢の脳がどんな状態かは分からないが大事にならなければと思う。蓮夢の 事も気がかりだが、ここから先の事についても、蓮夢のスキルは必須だった。 そろそろ麻酔が効きいている頃だ。軽く傷口に触れて様子を見る。変わらず緊張 していた。 「何か話せよ」 「な、何を?」 針が肌に触れる僅かな感覚を読み取って、身体が更に強張る。声色も弱々しい。 「話してると気が紛れる。何時もおしゃべりだろ?」 「そんな事、言われても。ツッ!」 縫合を始める。麻酔が効いていても無痛と言う訳にはいかない。気を失って間に 大きなとこを処置できたのは、不幸中の幸いである。 出来るだけ手早く終わらせたいが、急ぎ過ぎると痛みも増す。匙加減が難しい。 蓮夢は身体を強ばらせて呻き声を圧し殺していた。 「高校の頃、彼女がいたんだよな? どんな娘だった?」 気が紛れる様に話しかけた。以前、酒の席で気になった話を訪ねてみた。高校時 代の蓮夢。売春と受験、初めての彼女。 「凛(リン)って子だった。生徒会長なんだぜ。でも真面目過ぎず砕け過ぎずで、サッパリし た人だったよ……」 蓮夢が話し始めた。針がブツリと刺さる度に息みながら。親しい人間であればあ る程、針を差し込む際の力やグイグイと糸を引く力に忍びなさが増す。もっと淡々 と、こなせる様になりたいものだ。 「誰ともつるまず、孤立してた俺に程よい距離感で接してくれて。次第に打ち解け る様になった。オトコとオンナだとさ、違う事が沢山あるから、何を話してもあっ さりと“そうなんだ”で済むんだ。それが楽でさ……」 溢れてくる血をがガーゼで吸い取っては針を通し、糸で閉めていく。蓮夢も感覚 に慣れてきたのか、緊張が少し解れてきたのが伝わった。 その間は長くは続かない。痛みである事には変わりないからだ。この間に出来る だけ素早く処置する。鉗子を持つ手を今まで以上に柔らかく滑らかに動かす様に努 める。――集中しないと。 「学校の外でも会う様になって、何となく、そう言う雰囲気になって……。自分で も驚いた、オンナの人を抱きたいなんて思う事を。セックスする事と、人を好きに る事は違うんだなって、初めて順序を理解したよ」 順序か、俺にはまったく無縁な感情だった。抱きたくなるぐらい人を好きになる なんて感情は。 仲間内の付き合いの延長で覚えたセックスは味気なく、こう言うものかと、その 程度の感情しか沸いてこなかったのを覚えている。 蓮夢が経験した感情に、共感する事は出来ないが、俺よりよっほどマシで意味の ある経験なんだろうな。 「俺はゲイなんだって思ってた。思おうとしてた。気にしない様にもしてた。自分 や相手がオトコだって考えない様にもした。でも、それから分からくなったよ。か と言って自分はバイセクシュアルなのか、それとも脅されて、金の為に仕方なくオ トコとヤッてるだけのヘテロなのか。どれもしっくりしなくて、悩みが複雑になっ ていったっけ……」 自分の性別や性指向、多数派の価値観で成り立っている世の中で、少数派とされ る人達の抱く悩みは、不必要な足枷の様にも感じられる。 何故、そんな事で悩まされなくてはならないのか。 俺の中に確かにある“普通”と言う価値観。男と女、異性愛が普通と言う前提と 言うものが、時に誰かを圧迫させている。 蓮夢は出会った時から堂々としていた。繊細な悩みなど微塵もなく、自分自身を 効果的に魅せていた。――自分をよく知っていた。 それが悩みの積み重ねを経て、得たものなのだと今なら理解できた。性別や性指 向で悩んだ事のない俺には、凄い事の様に思えた。 「それが辛くて、別れたのか?」 「凛は地元を離れてジャーナリストを志すなんて言ってた。俺なんかには、元々勿 体ない人だったんだよ。実際、俺は凛と別れて高校卒業と同時に“やらかした”」 十代で自分の生きたい道を定めて志す。確かに立派だな。 とは言え、十五で“組合”に入り、それからは定まった道を進むだけだった俺に 言わせば、当時の蓮夢だって充分立派だと思える。 蓮夢の父親は殺されて当然の男だが、手を下したのが蓮夢だと言うのが、不憫で 気の毒だった。 「今も、そう思うか?」 「うぅ……。どうかな、会えるなら会ってみたいけど。きっと、ロクな事にならな いよ。まだ終わらない?」 「すまんな、もう少しかかる……」 痛みを堪える為に息を整える。鵜飼に受けた傷はもう少しで終わる。縫合糸も少 なくなってきた。ここはしっかり縫い付けるが、もう一つの傷は大雑把にせざるを 得ない。 数年前に自分の傷を手当して以来、使用分を補充していなかった医療キットしか なかったのが悔やまれる。
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