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「康弘くん! いやぁ〜すばらしいね! 今月も業績一位とは!」 「い、いえ」 「そうだ、これから飲みにいかないかい? おごるよ?」  ハゲた課長は非常に嬉しそうな顔で酒を煽る仕草をする。  こんなに機嫌がいいのは目の前に居る男――鈴木康弘すずきやすひろ――のお陰で部長に褒められ、ボーナスを期待しているからだ。 「すみません。悠の容体が悪く……」 「そうか、残念だけどまた今度ね」  断られ、一瞬だが機嫌が下がったような顔になり、またすぐに元の顔に戻った。これは“悠”という康弘の友の影響で、飲みの誘いを断られるのはいつものことであるためだ。  だがそんな課長とは違い、妬むような視線で康弘を同僚の二人が睨む。この視線にもなれてきた。 「営業の仕事で業績いいくせして、人付き合いは下手なんだな」 「『悠がぁ〜』とか言ってるけど、飲みに行ってもまともに話せず、惨めな思いするのが嫌なだけだろ」 「それだな!」  同僚二人の悠が本当は病気ではないかのような口ぶりに、思わず怒声を発しそうになる。だが深呼吸をし、気持ちを落ち着かせ、改めて部長の方を向く。 「で、ではこれで……」 「明日もよろしくね!」  嬉しそうな課長の視線と妬む様な同僚二人の視線を努めて無視し、会社を後にする。  会社を出ると春になったばかりの冷たい夜風が肌に触れる。まるで頭を冷やしてくれているようだ。 「はぁ」 (まぁ友達が病気だからって飲みを断る奴が悪いか......でもなんで人と話すのは苦手で、営業はできるんだろうなぁ)  康弘の疑問は会社に勤めている同僚のほとんどが思っていた事である。  彼自身、トークスキルが無いわけでも頭が悪いわけでもない。どちらかといえばいい方、いやかなりいい方であった。  しかし人付き合いが悪いのは彼の肯定感が無しに等しいためである。話すたびに(この返事は相手を不快にしないだろうか)(面白い事を言えただろうか)などの心配が頭を過り何も言えなくなるのだ。  だが営業の際はという中身を入れ替え、単なるとして人に接することができるのだ。また、ある程度親しくなった人ともストレスなく会話する事ができる。それも悠のみだが。  ちなみにこれは幼少期の頃の両親の影響である。愛人の子として生まれ、様々な虐待を受けてきた事によって鈴木康弘の人格が形成されたのだ。  そしてそんな幼い頃、康弘を救ってくれた父であり兄であり親友である伊東悠いとうゆうにはどうしても頭が上がらなかった。 (まぁそんなことどうでもいいか)  そう思い、いつものバスに乗り、悠のいる病院へと向かう。  悠の病気について考えていると時間はあっという間に過ぎていた。 「次はぁ長崎病院前ぇ長崎病院前でございまぁす」  バス運転手の気だるげな声を合図に思考を停止する。電子決済でいつもどおり会計を済ませ、いつもどおりの足取りで病院に向かう。    様々ないつもどおりの事をしたあと、病院に入るといつもどおり、病人とは思えないキリッとした顔で悠が横になっていた。病気になってからできた額の痣も健在だ。  そして部屋には、昨日置いた花の甘い匂いがほんのりと漂っている。 「寝なくていいのかよ」 「いや、さっきまで寝てたんだよ」 「へー、どんな夢を見たんだ?」  悠はいつもおかしな夢を見るため、病院に来ては今日見た夢について話すのが二人の日課だった。  犬の耳が生えた人間や、大きな塔、広大な砂漠を泳ぐ魚など、物語の世界のような話ばかりだった。そのため、悠が自分を楽しませようとこういう話を考えているんだろう、と康弘は考えていた。  実際、夢を見出したのはこの原因不明の病にかかってからだ。 「今日は特に大事な夢を見たから覚えておけよ」 「大事な夢って何だよ。まぁ覚えておくよ」 「その夢はな、俺がとってもでっかい、エベレストなんて比にならないくらいの氷山の頂上で目が覚めるんだ」  康弘が違和感を感じたのは夢に初めて悠自身が出てきたからか、それとも「特に大事な夢」と言われて身構えているだけか。 「そこでな、美しい白銀の小箱を見つけるんだ」 「............え? それだけ?」 「あぁ、それだけだ」 「今日はやけに短いな」  そこからの会話はいつもどおりのものだった。  女はいるか、仕事は順調かなどどうでもいい話をした。  そこから電車に揺られ、康弘は自宅へといつもどおりの足取りでむかう。 ◆    ◇   ◆    ◇   ◆    ◇   ◆    ◇   ◆   問題は次の日に起こった。病院から電話で悠が死んだと伝えられた。  突然の事過ぎたあまり、脳が追いつかない。そのためいつもの癖で悠に電話をかけてしまう。しかし電話が応じることはない。死んでいるから当然だ。  康弘は泣いた。一生分泣いたのではと思うほど泣いた。当然の事実を突きつけられ、悠の死を自覚したからだ。  とりあえず仕事を休もうと会社に電話をしようとした。しかし声を出そうとすると嗚咽が止まらず、結局電話できたのは出社しなければ行けない時間の数分前だった。  そこからずっとベットの上で過ごし、何も飲まず食わずで過ごした。  お通夜には一応出たがほとんど誰とも話さなかった。  葬式のときはそれなりに気持ちの整理がついて、話すことができたがまた嗚咽をしてしまった。  そんな日々を過ごし、気がつくと悠が死んでから三日目だった。   (今日は仕事に行かないとな)  仕事に行かないと行けない、そう思ったというよりは仕事に行かないとダメになる、そう感じたからだ。  また、三日目ということもあり、ある程度気持ちが落ち着いてきたというのもある。    いつもどおり電車に揺られ、会社の最寄り駅に着く。  そこから会社を目指したが、音が聞こえず匂いはせず、色がない。  康弘の体はもはや生きる事を諦めたのか、五感はほぼ感じていない。そのため世界から切り離されたような孤独感が彼を支配していた。  また、どこかから叫ぶ声が聞こえた気がするがそれを無視し、歩き続ける。  だがここでようやく彼は気がついた。「危ない」そう言われていた。ゆっくりと横を見ると康弘目がけてトラックがこちらに走って来ていた。  危ない、康弘がそう思ったのは一瞬だった。すぐさまスンと思考が冷静になる。 (俺は悠の医療費を稼ぐ為に生きて来た。なら最早生きる意味なんてない。そうか、もう死ねって事か)    そんな事をぼんやりと考えながら体は宙に舞った。案外痛くないな、そんな思いも束の間、康弘の意識は遠ざかる。これにて、彼は本当にこの世界から切り離された。

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