愚神と愚僕の再生譚
3.雲下の後悔⑥ 守護騎士は恩を売らない。
「……っ!」
両肩にかかる重みに息が漏れる。
なんとか踏ん張り、均衡を保とうとしたところで。
(……まあ、そりゃそうだろーな)
分かってはいたが、斜め後方から堕神が迫っていた。駆けてきた勢いのまま、殴り込んでくる。
リュートはくわえた柄を右手に持ち直した。凜を支える手が減ることで、縁の向こうへと引きずられるが、構わず限界まで身体を伏せる。
目標が下へと避けたため、堕神は拳を空振りさせ、リュートにつまずく形で縁の向こうに転がり出た。
空間の狭間に存在する堕神には重力など関係ないが、
「このっ……」
逆手に持った緋剣をハンマーのように、堕神に向かって上から振り下ろす。《眼》には命中しなかったが側頭部をえぐり、下方へと押しやることができた。
リュートはすぐさま、解除した緋剣を剣帯にねじ入れ、凜の救助に戻った。が、
「ぐっ……」
堕神に構っている間にだいぶ引きずられ、救助どころかリュートも一緒に落ちそうな状況であった。すでに胸まで、縁からはみ出している。
「あんた、なんでここにっ……?」
縁にしがみつくのに必死で、リュートが屋上に来たことに気づいていなかったのか。
凜が目を丸くして、こちらを見上げている。その瞳は斜に構えておらず、今だけなら純朴な女子高生のように見えた。
しかし次の瞬間、初めて対峙した時と同じ、すねたようなまなざしに戻る。
「恩を、売ったって、あんたのことは嫌いだからっ。このクズっ」
「この状況で挑発するとは、お前もなかなかだな」
苦笑し、凜の言葉を訂正する。
「守護騎士は恩を売らない。これも任務のうちだ」
「あっそ! ていうか、あんたも落ちてん、じゃんっ。どうすんのよっ」
よほど体力を消耗しているのか、途切れ途切れに吐き出す凜。
彼女の言う通りであった。こうなってはもう、遅かれ早かれ落ちるしかない。
だから、
「こうするしか、ないだろ」
リュートは身体の力を抜いた。ずざざっと引きずられ、身体が縁から落ち始める。
「え、ちょっ⁉」
「絶対に離すなよ」
凜を越えて、真っすぐ一点――駆け上がってくる堕神だけを見据え、そのまま――落ちる。凜の重みに引っ張られ、ただ重力に従って。
「きゃあああああぁっ⁉」
悲鳴とともに、凜が腕を握り返してくる。
身体が浮遊感に包まれたところで、リュートは足の裏で壁を蹴り、勢いをつけて身体をひねった。凜が巻き込まれないように。
「来い!」
無防備な脇腹をさらし、自ら堕神の元へと飛び込む。格好の餌食だった。
迫る拳。
そして、脇腹に衝撃。
「――っ!」
下から突き上げるような衝撃は、実際にリュートを突き上げた。
落下から上昇に急転し、身体が意思に関係なく引き上げられる。
対して、落ち続けようとする凜が反作用となり、両肩に痛みが走った。彼女の握る力が弱まるのを感じ、全力で握り返す。爪が食い込んだかもしれないが、紐なしバンジーをするよりはマシだろう。
涙ににじむ視界には、雲に覆われた一面の空。いつの間にか曇っていたらしい。
次いで、つないだ凜の手に引きずり下ろされるようにして、身体が下降し始める。下を向くと、顔をこわばらせた凜と目が合った。
「きっ……」
罵倒なのか悲鳴なのか。
なにかを言いたいらしいが、きつく引き結んだ口では、意味ある言葉は出せないだろう。
リュートは答える代わりに、右手を離して凜の腰に手を回した。それを支えに凜の方へと身を寄せながら、彼女をこちらへと引き寄せる。上下が逆転するように身をひねったところで、リュートは凜を抱き締めた。
「ばっ、なにすっ……」
出したかったのは罵声らしい。
リュートは無視して背中を丸めた。頭の無事を祈りながら。
衝撃はすぐにやってきた。
背中から地面に激突し、反動で後頭部もぶつける。
肺から圧されるように出た呼気は、体外へと飛び出す前に凜の身体に圧し返され、狭窄を来したかのように気管内で破裂した。
力の抜けた腕から凜がはじけるように転がっていくのを、ぶれる視界で見送って。
「…………ぅぐっ、げふっ」
乱れて止まった呼吸を正そうとするかのように、リュートは激しく咳き込んだ。乱暴な手段ではあったが、なんとか屋上に戻ってこれたようだ。
視界と呼吸が落ち着くにつれ、痛みも冷静に認識できた。
脇腹、背中、後頭部。ひとまず無視して上半身を起こし、正面――先ほど落ちて、吹っ飛ばされてきた方向を見据える。
屋上から生えた白い半球が、スライドするように接近してきていた。それはもちろん未確認生物などではなく、頭の半分から下を、屋上の下に潜り込ませた堕神である。
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