愚神と愚僕の再生譚
1.垣間見える幻妖⑧ この瞬間だけは気を抜けない。
◇ ◇ ◇
そしてそれは、突然訪れた。
(ん?)
違和感を覚え、リュートは生物の参考書から目を離した。
英語の授業中は、他教科の勉強をするのがリュートの常だった。
英語は第2言語として習得してあるので、当てられる時だけ気をつけていれば、さほど問題も生じない。もちろん教師はあまりいい顔をしないものの、理解は示してくれているのか――または、注意をするのが面倒くさいのか――とがめ立てられることもなかった。
今日も今日とて、その対応に甘えて課題を片づけていたのだが。
(なんだ?)
違和感の正体は左手だった。ノートに添えていた五指が、それぞれ独立した生き物のように痙攣している。
(……貧血か?)
そういう形で貧血の症状が現れたことはないが、だから違うとも言い切れない。
しかし、テスターが編入してきてからはリュートの負担も軽くなり、採血の頻度も減っていた。以前負った怪我もとっくに完治しており、こうまで激しい症状が出るほど、身体を酷使した覚えもない。
などといぶかしんでいるうちに痙攣は止まった。
(なんなんだ?)
疑問だけが残る気持ち悪さを抱えながら、教壇へと目を移す。
若い女性教師が和訳を誰かに答えさせようと、座席表に目を落としているところだ。彼女の指名はいつもランダムなため、この瞬間だけは気を抜けない。
と――
「――っ!」
次元のずれを――それも近くに――感じ取り、リュートは後ろを振り返った。真後ろに座る生徒の戸惑うようなまなざしを飛び越えて、視線は中央最後列に座るテスターと明美につながれた。
リュートと目が合ったテスターは、素早く立ち上がる。しかし緋剣に手は添えたまま、その場からは動かない。
役割が決まった時には、リュートは緋剣を手に、床を蹴って後方へと飛び出していた。教室後方の壁に、半身を透過させて幻出した堕神に向かって。
(どうする?)
ここで狩るには生徒たちが近過ぎる。明美はテスターが護ってくれるだろうから、心配はいらないが……
(堕神の気を引きながら、廊下に連れてくか)
無難な選択肢を選び、カートリッジを柄に挿し込もうとしたところで――カートリッジが宙を飛んだ。
「は?」
飛んだ。
疑いもなく。
理由は明快だった。リュートの左手が、カートリッジを投げ捨てたのだ。カートリッジは一直線に飛び、壁にぶつかって床へと落ちた。
「リュート、お前なに遊んでんだ⁉」
この状況下での奇行に、さすがのテスターも焦った声を出す。
しかし焦っているのはこちらも同じだ。
「いや俺は別にっ……え、ちょっ、はぁっ⁉」
弁解を終える前に、異常が畳みかけてくる。
左腕自身が意志をもっているかのように動き、リュートを後ろへと――教室前方へと引っ張り始めたのだ。しかし堕神に背を向けるわけにもいかないため、リュートは対抗するように身体を踏ん張らせた。
「痛っ……くそ!」
可動域を超えた腕の動きに、肩の関節が悲鳴を上げる。
結局――見るに見かねたテスターが堕神を斬り、リュートへと困惑した表情を向けた。
「どうしたんだ、お前……?」
「分かんねえ、腕が勝手に……ってああもう!」
暴れる左腕をたたきつけるように、右手で床に抑え込む。
「くっそ! なんなんだよこれっ⁉」
なおも暴れる左腕に悪戦苦闘していると、生徒たちのささやき声が耳に届いた。
「え、なに……天城君って、そーいうスタイルだったわけ?」
「そーいうってなんだ⁉」
「悪魔が宿りし左手がー、みたいな?」
「あ、もしかして第3の眼があったりすんの?」
「行く? 病院行く?」
「畜生! よく分かんねーけどなんかすっげー蔑まれてる気がするっ!」
叫ぶ声に、6限終了を告げるチャイムが重なる。そこへ、
「リュート!」
威圧的な呼び声をかぶせながら、明美が左腕を引っ張り上げてくる。
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