愚神と愚僕の再生譚
5.終息――その後① 不思議と悪い気はしなかった。
◇ ◇ ◇
長い――長い、夢を見ていた……気がする。
そう思ったことすら疑わしくなるほどの曖昧な感覚の中で、信一郎は目覚めた。
(どこだここは?)
目に入ったのは、真っ白な天井。いや、よく見れば所々薄汚れている。真っ暗な世界から解放されれば、大抵のものは白く見えてしまうのだろう。
(俺は、死んだんじゃないのか……?)
徐々に記憶がよみがえってくる。確か自分は、車にはねられたはずだ。
起きようとするが、身体に力が入らない。身を包む感覚で、自分がベッドの類いに寝ているのは分かるが……
(ということは、ここは病院か?)
少なくとも自分の家ではない。
顔を横向けると、ケーブルにつながれたブザーのような物が、枕元に置いてあった。『ナースコール』と印字されたラベルシールが貼ってあるところを見ると、どうやらここは本当に病院らしい。
手が動かないのではないか――衰弱とかだけでなく、もっと物理的な、不可逆的に絶望的な損傷があるのではないか――と不安だったが、ぎこちなくはあるものの、思った通りに動いてくれた。
ナースコールに手を触れたところで、ふと動きが止まる。
(これを押してなんになるんだ)
これから待っているのは、会社に連絡し、急な欠勤で業務を滞らせたことを謝罪した上で戻ってくる惨めな生活だけだ。
いやむしろこの一件のせいで、復帰後はさらに居心地が悪くなるかもしれない。会社に人員削減の波が来ている現状では、解雇の可能性だってある。
意識を失っていたおかげで――どれくらい眠っていたのかは不明だが――止まっていたそれらの流れが、ナースコールを押すことでまた動きだしてしまう。
押さなければその間だけでも、猶予が与えられる。信一郎は、その猶予にすがっていたかった。
などとぐずついているうちに、見回りかなにかで来た看護師に気づかれ、止まっていた流れは容赦なく動き始めてしまった。
看護師の話によると、どうやら1カ月近く意識が戻らなかったらしい。ただ、その原因が全くもって不明らしく、信一郎はバインダーを持った医師に、根掘り葉掘り聞かれる羽目になった。それだけ答えても、結局原因は分からずじまいだったようだが。
ともあれ問題となる症状はなく、明日からは大部屋に移動するとのことだった。
その後やって来たのは、驚いたことに弟だった。「ろくに連絡も取り合っていないのに、なんでお前が」と聞く前に、道路をよく見ず渡ったことについてがみがみと怒られた。いつも通りの説教くさい弟にうんざりしつつも、不思議と悪い気はしなかった。
弟が事故のことを知っていた理由は至って単純で、財布に入れてあったメモ用紙を警察が見つけて、そこに書かれた電話番号に連絡したとのことだった(そういえば何年も前にもらったメモ用紙を、ずっと放置したままだった)。
会社への連絡も、弟が行っていてくれたらしい。何年も疎遠だったのにそこまで世話を焼いてもらうと、もはや「悪かった」や「ありがとう」を言うタイミングも分からなくて、信一郎は弟の話に、ただただうなずいていた。
◇ ◇ ◇
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